近所の和菓子屋に団子でも買いに行った夏樹が戻ったのだろう、と思ったら春真だった。小学校三年生になった春真は、最近よく遊んでから帰ってくる。だから意外だった。
「お帰り、ハル。――どうしたの」
 思わず声が裏返ってしまう。うつむき加減で口もきかない春真だった。だがほっぺには擦り傷、膝小僧には青あざ、ときては驚かないはずがない。
「……なんでもない」
「でも」
「いいの、なんでもないの」
 言い捨てて、かばんを置きに行ってしまった。春真らしくない、と言うより今まで見せたことのない態度に真人は戸惑う。
 いい子だ、と思ってきた。おとなしくて手のかからない子、とも思っていた。
「そんなはず、ないよね」
 いい子ではある。でもそれだけのはずはない。今までそんなことにも気づかないできた自分に嫌気がさす。
「だから――」
 怪我をしても話したくなんかない、そう思われてしまっても、仕方ないことなのかもしれない。
 真人はけれど強く首を振る。それで済ませていいはずがない。春真は自分の子ではない。夏樹の子ですらない。しかし真人にとって大事な大事な預かり子。夏樹の弟から託されたから、ではなく春真が可愛い。
「ハル……」
 そう思うのに、上手に伝える術がない。かばんを置きに行ったはずの春真は部屋にこもったまま出てこない。
「どうした」
 気づかないうちに夏樹が戻っていた。振り返った真人の表情になにを見たものか、夏樹が顔色を変える。
「おい」
 壊れ物でも扱うように両手で頬を包む。真人は黙って首を振った。手から逃れれば、夏樹が傷ついた顔をする。
「ハルが、帰ってるから」
 小声で言えば、夏樹が首を巡らせる。どこにいるのだ、と不思議がっているのだろう。それも当然。普段ならばおやつを食べたいお腹が空いたとうるさいくらいなのに。
「なんかね、あったみたいなんだけど。言いたくないみたいで」
 言ってくれればどんな相談にだって乗るのに、と真人は思う。それが大人の傲慢であることも理解しつつ。そう言えば夏樹はうなずいてくれた。
「けどな、言わなきゃわからん。ましてお前と春真は実の親子と言うわけでなし。まぁ、実の親子だからと言ってわかり合えるとも限らんが」
 念頭には自分の母のことがあるのだろう。夏樹の口許が歪んでいた。真人はそっと夏樹の手をる。見上げれば、大丈夫だと言うよう夏樹が微笑んでいた。
「春真、帰ってたのか」
 先ほどの真人よりはずっと丁寧に手を引き抜き、夏樹は何事もなかったかのよう春真に声をかける。一目見て、怪我に気づかないはずはないというのに。部屋から顔を出した春真はむつりとしたままうなずいた。
「……ただいま」
 それでも挨拶をする辺り、いい子だな、と思ってしまう。もしかしたら他人の家だから、いい子にしていなければならない、そう思っているのではないか。はじめてそれに気づいた。
「ねぇ、ハル。お薬つけてあげるよ、こっちおいで」
 だから真人はあえて今は問うまい、そう決めた。春真が話す気になるほど信頼してくれていないのならば、それは大人の咎だ。
「うるさいな、ほっといてよ」
「ハル――」
 咄嗟に夏樹の顔を窺ってしまった。あまり表情の豊かな人ではない、そう人には思われているけれどそんなことはない。少なくとも真人にははっきりとわかる。いまは、危険だった。
「真人さんには関係ないじゃん。いいからほっといてよ」
 自分の言葉に激していくよう、春真が言葉を重ねる。真人は後悔した。なにをおいても夏樹の手をとっておくべきだったと。
「あ――」
 無表情に怒りを滾らせた夏樹が思い切り春真の頬を打っていた。擦り傷のついた頬を殴られるのは、さぞ痛かっただろうに春真は唇を噛んで伯父を睨み上げる。
「いま、なにを言った。もう一度言ってみろ」
「真人さんには――」
「関係がない、か。どこがだ。春真、家を出されたお前を一番可愛がってるのは誰だ。誰より慈しんでるのは誰だ。俺か、違うだろう」
 殴りつけた腕もそのまま、春真にまた一歩近づく。春真も決して下がらなかった。真人はすくんだよう動けない、二人を見ているしかできない自分を嫌悪する。
「お前の好物をわざわざ作ってくれるのは誰だ。お前の帰ってくる時間に合わせて菓子まで作ってくれるのは誰だ。洗濯も掃除も、服の支度までしてくれるのは誰だ。もう一度言ってみろ、春真」
 胸倉を掴み、再び夏樹は腕を振り上げる。今度は、動けた。飛び出した真人が春真を腕に抱きすくめたそのとき、夏樹の平手が落ちてきた。
「真人さんッ」
 衝撃に、頭がくらくらとする。止められなかった夏樹の渾身の平手打ちを頭に食らった真人は眩暈を払うよう首を振る。
「大丈夫だった、ハル」
 腕の中を覗き込めば、目に涙をいっぱいにためた子供がいた。
「夏樹」
 殴った夏樹のほうこそ、呆然としていた。自分の掌をただ見つめていた。
「怒ってくれるその気持ちは嬉しい。でもこんな小さな子供に何度も手を上げるのは、感心しない」
「子供だから何を言っても許されると思ってるのか」
 ふ、と眼差しをあげればまだ怒りに歪んだ目。よほど腹に据えかねたのだろう。腕の中で春真がしがみついてきた。
「物の弾みってこともある」
「弾みだろうが成行きだろうが言っていいことと悪いことがある」
「――夏樹、わからないかな」
 一度腕の春真をきつく抱いた。ほっとしてしゃくりあげる声がした。柔らかい子供の髪を撫でれば、興奮にしっとりと汗ばんでいた。
「ハルは頑張ってるんだよ、親戚の家って言っても、親の家じゃない。そこで他人の僕に面倒見られて、ハルは一生懸命頑張ってるんだ。あなたには、わからないの」
「伯父貴が面倒見ないからな」
「問題はそこじゃない」
 一刀両断した真人に、春真が驚いたようだった。春真が知る真人はいつも穏やかで、伯父の言うことに逆らったり言葉を返したりする人ではなかったのだから。
「ハルにとって僕は他人だ。他人の僕に気に入られようといつも頑張ってる。頑張ってるハルを可哀想だとは思わない。偉いとは思う。でもまだ子供なんだ。頑張りきれない時だってある」
「それがどうした。他人他人とお前は言うがな――」
「いいから聞いて。夏樹、わからないの。ハルは甘えたかっただけだ。僕にわがまま言って、それでも自分を可愛がってくれるのって、言いたかっただけだ」
「甘ったれが」
 鼻を鳴らした夏樹を真人はこれでもかとばかりに睨んだ。真人の語る言葉にもじもじとしていた春真が、ぎょっとするほど激しく。
「子供なんだ、甘えてなにが悪い」
 再びしっかりと腕に抱く。真人は体中で語った。言葉にするよりなお明確で、さらに強く。春真を害するものは何者であれ許さないと。
「……さい」
 ひっく、と声がした。慌てて真人は腕の中を見る。さっきまでしゃくりあげていた春真が、ぽろぽろと泣いていた。
「ハル、どうしたの。痛かった」
「ごめ……」
「ハル、大丈夫。伯父様はもうぶったりしないからね」
「……ごめんなさい」
 小さな、聞き取りにくい声だった。泣きながら、真人を見上げる。その目に真人は撃ち抜かれた。信頼されていないなど、どうして思ってしまったのだろう。わがままを言うほど、信じてくれている。全身で、甘えてくれる。
「ハル」
 涙が擦り傷にしみて痛いだろうに。真人が指で拭えば、春真がまたしゃくりあげはじめた。
「伯父さんも、ごめんなさい」
 顔中涙のまま、夏樹を見上げて春真は詫びる。彼にしては珍しく、はっきりと困った顔をしていた。
「夏樹」
 子供が頑張って詫びているのに大人がその態度はないだろう、と言葉にせず真人は非難する。内心で溜息をついたのが真人には見えた。
「……もう二度と言うなよ」
「はい」
「……わかったら、いい。で、その傷。どうしたんだ」
 せっかく泣きやみかけた春真がまた泣き出すのではないかと真人は気が気ではない。本当に子供の相手が下手な人だ、と夏樹を軽く睨めば肩をすくめられた。
「……もらいっ子って、いじめられた」
 真人はいま自分の堪忍袋の緒が切れた音を聞いた気がした。さすがと言おうか、夏樹は素早かった。春真の涙を拭っていた真人の腕を咄嗟に掴む。
「落ち着け。それで、怪我させられたのか」
 この話のどこが落ち着いていられるのか、と真人は頭に血が上っていた。けれど春真はこくりとうなずいて続ける。
「させられたんじゃない。頭きたからひっぱたいたら、やり返された」
「じゃあ、おあいこだな」
「……うん」
「違うのか。どっちが酷い怪我した」
「……向こう」
「なら問題はない。お前のほうだったらもう一度ぶん殴ってこいってけしかけるところだ」
 真人は深い溜息をつく。この人は、れっきとした華族の子息だったはずだ。早々に家を出たとはいえ、育ちのよさはさすがだと思っていたのに。
「……怒られるかと、思った」
「やり返さなかったほうが怒る。それにな、春真」
 ぽん、と夏樹は春真の頭に手を置いた。伯父が示す珍しい親愛の情に春真は驚いて目を丸くする。
「もらいっ子って言われて腹が立ったんだろうが。確かに預かってる子供ではあるがな、でも春真。お前はうちの子だ」
 夏樹の言葉に。春真が唇を噛みしめる。目をいっぱいに見開いて、伯父を見つめる。それからぽろり、ひとしずく涙がこぼれた。




モドル