真人が外出から帰ってくると、居間から楽しげな笑い声が聞こえてきた。日曜日のことで、春真がいるのは確かだが、伯父甥が笑語しつつ歓談している、と言うのはどうにも考えにくいので真人は首をひねる。 「あぁ、土居さんがきてたんですか、驚いた」 居間には編集の土居がいた。これならば、わかる。夏樹は編集者の中では特に土居を好んでいる。彼の横にはちょこなんと春真も座っていて、大人の話を楽しそうに聞いていた。 「お邪魔しています。――水野先生は」 軽く頭を下げるだけで済ませるのは親しさの表れだった。その土居が不思議そうな顔をしている。 「あぁ」 真人は着替える前に、と茶を淹れなおす。どうせ夏樹が茶の支度をするはずはないので、春真がしたのだろう。子供にしては中々、というものだがいささか濃すぎる。 「知人の法要があったので」 真人は珍しく洋装で、しかも礼服姿だった。普段の着物姿とはかけ離れていて土居は驚いたのだろう。真人自身、居心地が悪い。 「そうでしたか」 「ちょっと失礼して」 「えぇ、どうぞお気遣いなく」 にっこり笑ってくれた土居に真人は微笑み、着替えに立つ。夏樹は何事もなかったような顔をして茶を飲んでいるけれど、不機嫌になっていた。 その肩に静かに手を置く。けれど夏樹は答える素振りすら見せず無言だった。 「伯父さん」 そんな夏樹をたしなめるよう春真が声を尖らせる。幼い甥にそうされたのが更に不快を煽ったか、夏樹はむつりと唇を引きしめた。 「いいよ、ハル。おいで。手伝って」 「はーい」 「春真。返事は短くしろ」 「……はい」 じろりと伯父に不穏な目つきを向け、春真は背を向けてから舌を出して見せた。真人は子供の頭に手を置いて吹き出すのをこらえる羽目になる。 「厳しい伯父様ですね」 くすりと土居が笑った。それでなぜか救われたような気がする。そっと春真を促して真人は着替えに立った。 「ねぇ、ハル」 脱いだ上着を受け取ってハンガーにかけてくれる子供に向け、真人は恐る恐る問う。 「うん、なに。っていうか、伯父さんだよね。すごい不機嫌」 「だよね……」 「でも、おばあちゃんの法事でしょ。伯父さんが行かなくってよかったの」 「行けって言って行くと思うの、ハル」 「……思わない」 「でしょ。だから僕が代理」 当然、施主の冬樹も心得ていて兄を呼ぶつもりはさらさらなかった。とはいえ一応、と法事の日程を知らせてくれたので、ならばと真人が出席したわけだった。 真人自身、夏樹の母なる人に良い感情は持っていない。それはもう欠片どころか微塵も持っていない。 当たり前だ。今ではある程度事情はわかっている。夏樹の父の遺書とも言うべき手記によって、彼ら夫婦の間になにがあったのか、夏樹も真人も知っている。 けれど、と真人は思うのだ。腹を痛めた子ならば愛しく思うのが当たり前、とは言わない。それでもやりようがある、とは思う。 愛せとは言わない。まして生まれた事情が事情。愛せなくとも無理はないとも思う。だがしかし殺そうとするのは常軌を逸している。 同じ男を父とした息子の一方は猫かわいがりしたと言うのに、なぜだと真人は思う。いずれ真人は彼女ではないし、女でもない。本当のところなどわかりようはない。 だからこそ、一様に非難はしたくない。夏樹の母のすべてを否定するつもりはない。彼女は彼女なりに苦しんだはずであったし、思うところもあったはず。 けれど幼い、何もできない、何の罪もない夏樹にあたることはなかった。生まれる過程にも生まれたことにも夏樹には何の罪もない。 「真人さんもさ」 「……ん」 「おばあちゃんのこと、好きじゃないでしょ」 見抜かれて真人はどきりとする。春真は祖母を覚えているのだろうか。この家に来るより前に、亡くなった祖母のことを。 「それって、伯父さんがおばあちゃんのこと嫌いだからなの」 「正解だけど、不正解、かな」 「なにそれー」 「ハルが大人になって色々考えることができるようになったら、話してあげる。ハルはそのときに決めたらいいよ」 「え……」 「ねぇ、ハル」 普段着に改めれば、それだけでほっとする。真人は身をかがめて春真と目の高さをあわせた。 「伯父様や僕が好きじゃない人でも、ハルが一緒に嫌うことはないんだよ。ハルが自分で考えて、自分で決めればいいんだ」 「でも――」 「僕が好きじゃない人をハルが好きでも、そんなことで僕はハルを嫌いになったりなんかしないよ」 にこりと笑って見せた。春真はきゅっと唇を歪め、ほんの少しだけ泣きそうな顔をした。けれどすぐさま笑顔に変わる。そんな子供の頭を真人は撫でて、二人で居間に戻った。 機嫌をよくしているとは思ってもいなかったが、やはり夏樹は不機嫌のままだった。土居は気づいていないのだから、それは真人と春真にだけわかるのだろう。そう思えば少しだけ、嬉しい。 「で。どうだったんだ」 意外なことに、法事の様子を聞いてきたのは夏樹だった。話題にするのも嫌がるくせに、自分から問う。これはこちらから話すのを嫌ったと言うことか、と真人は解する。わずかに苦笑して、ありのまま話すことを諦めた。 「あれはねぇ……」 わざとらしく胸の前で腕を組んで見せる。土居がどうかしたのですか、と表情で語った。 「よい法事というものがあるとしたらよいものでしたよ。お坊様の話は中々心に染みるものでしたし」 うんうん、ともっともらしく真人はうなずいた。しかし渋い顔。土居がこらえきれずに吹き出した。 「ただねぇ、あんまり非難はしたくないんですけど。もう、あんまりにも……お経を上げるのが下手で」 「坊主が、か」 「お坊様じゃない人が上げた経が下手なら僕は何も言いませんよ」 「そりゃ、もっともだな」 真人の感想に、少しだけ機嫌が戻ったらしい。ほっとしたよう隣に座った春真が緊張を解くのを真人は感じた。 「あぁ、でも」 子供の肩に手を置きつつ真人は言う。ちらりと土居を見やり、夏樹を見る。 「お経は下手でしたけど、声はすこぶるつきでしたね」 事実、いい声をしていたのだ、あの僧侶は。あれで時折読み間違えたりつっかえたりしなければどんなに心地良く聞いたことか、と思う。 「それに中々の美僧でしたし。まぁ、若いせいですか、あの下手さは」 それにしても、と苦い顔をする真人をついに夏樹が笑った。なにはともあれ真人はそのことに息をつく思いでいた。 出なくていいと夏樹は言ったのだ。冬樹もそのつもりではないと言ってくれた。けれど出席すると決めたのは真人だった。 悼む気持ちからしたことではない。真人は「夏樹の名代」として彼の母の法要に出たのだ。夏樹が果たさない社会的責任を代ったのでもあり、冬樹の顔を立てたのでもある。 ただ、それだけだ。それではかえって法要に出る意味がないとも思う。しかし真人は法事など生きている人のためにこそあるものと思う。だからだ、と言うのが夏樹にわからないはずもない。真人の心の動きなのだから。 「あんまり下手で施主殿は苦虫を噛み潰したような顔をしてましたし、施主の奥様は笑いを噛み殺すのに必死なようでしたよ」 土居がいるからこそ言葉を濁したが、冬樹と雪桜のことだ。春真が出席していないよう、春樹も出ていない。まだ幼い子供は法事の場にいる必要はない、と両親の判断だった。 それが冬樹の心を表す、と真人は思う。心から敬い愛した母ならば、いかに幼かろうが子供をその場に置いたことだろう。冬樹はそれをしなかった。 心の底から憎まれたのが兄ならば、心の上澄みで溺愛されたのが自分だ、と冬樹は思っているのかもしれない。ふと真人はそんなことを思う。 「でも美形だったなぁ」 感に堪えないとばかり言う真人だった。土居はくすくすと笑い、春真は吹き出した。夏樹は目を細めて微笑んだ。彼には真意が伝わったことを真人は感じる。 「お前ね」 呆れたような夏樹の声に、先ほどまでの険はもうなかった。真人は穏やかな目で彼を見やる。 「声がいいの顔がいいのと、お前は清少納言の口だったのか」 心底呆れた、といわんばかりに夏樹は大袈裟に両手を広げて見せた。そんな仕種は露貴にこそ似合うもので、彼にはあまり似合わない。春真がなんとも言えない目つきで伯父を見た。 「まったく、何しに行ったんだかな」 「ですから、法事に」 「それで見てきたのが坊主の顔か」 「別にそういうわけじゃ……」 「ついでに坊主の声に聞き惚れてきた、と。それで法事、なぁ」 感心しない、と夏樹は態度で語る。けれど彼の心ははじめて感謝を表した。自分に代って出席してくれたその心、あからさまに語らずにいてくれる真人の心がありがたいと。 「ですから聞き惚れていたわけじゃ……」 「でも、いい声でうっとりした、と。清少納言だな、本当に」 意地悪を言う夏樹に土居が小さく笑う。篠原忍がこのような男である、と言うことを知る人は少ない。それを思って笑ったのだろう。 「坊主の声より聞きたい声、というものはあるんですけどね。僕にも」 どうやら少しばかり妬いているらしい夏樹にぼそりと真人は言う。春真がきょとんとした目で見上げてきたのに気づかないふりをした。 「おや、誰の声かね、琥珀君」 それなのに夏樹は話しを続けるつもりらしい。聞こえていればそれでいいものを、わざわざ土居を見やってなどいる。 答えられないことを問う夏樹は意地が悪い、真人は思う。それでも彼の気が晴れるならばいいか、と思ってしまうあたり自分は甘いな、と真人は内心で笑った。 |