僧正遍昭の歌の話を書きつつ、真人の気は晴れないでいる。どうにも理解しがたい人はいるものだ。誰も彼もをわかりたい、非難はしたくないと思いつつ、どうしようもないほどわからない人はいる。 真人にとって僧正遍昭がそうだった。妻には一言も告げず、二人あった女にはそれとなく仄めかしただけで出家をした。原因はおそらくお仕えした天皇の崩御だろう、と思うのだがなぜだ、と思う。 愛した妻だからこそ告げなかった、その気持ちはわからなくはない。けれど愛した妻ならば、その女を捨ててなお天皇のために世を捨ててしまう彼の心がわからない。 「どうして――」 自分ならば、と真人は思う。夏樹にもしものことがあったならば、自分はこの世すら捨ててしまうだろう。 けれど心から尊敬したとはいえ、自分の上役が亡くなったからと言って死にはしない。もっとも上役、というものがいないのでなんとも言いがたいが。 「どうした」 真人の声を聞きつけたのだろう、夏樹が原稿の手を止めて振り返る。 「ごめん、邪魔したかな」 気にするな、と言う風に夏樹は首を振った。ちょうど休憩をしたかったところだったのか。彼の表情にそれを見て取り、真人は茶を淹れる。 「なにを言ってたんだ」 彼好みのぬるい茶を受け取って口をつけ、夏樹はそっと微笑む。気分がいいらしい。 「うん、ちょっとね」 言えば夏樹がなにを言うか真人には大体の予想ができている。それでも聞いて欲しくなってしまった。 ありがたい、と言うより甘えすぎだと自分を戒める。すぐそばに篠原忍がいるからと言って、文章の組み立てやら何やらをいつも聞いていては情けないではないか。そう思いつつ、つい尋ねてしまうのだけれど。 「僧正遍昭のことなんだけど」 それだけで夏樹にはおおよそのことがわかるのだろう。軽くうなずいて真人を見た。 「どうしても、理解できなくって」 しかし夏樹は真人に喋らせた。口にすれば自分の意思の在り処がどこなのかが理解できるだろう、と言う心遣いを真人は感じる。 そもそも真人は喋るのが巧くない。それを言えば夏樹だとてそうだった。彼は言う、もしも話術に長けているのならば自分は文章を物することなどしなかった、と。まったく真人も同感だった。 だから巧くはない話し方だった。訥々と行きつ戻りつして話題が掴みにくい。それでも夏樹は黙って聞いてくれた。 「つまりだな」 一通り話し終わったときになってようやく夏樹が口を開く。わずかに首をかしげているところを見れば何か引っ掛かりがあるのだろうか。 「非常に不本意だがな、真人。おまえは俺に何かがあったら死ねる、と。でも尊敬してても他人のためには死ねん」 「うん、そう。でも普通だよね」 「そうかな」 かすかに夏樹の口許に笑みがたたえられた。からかうようなその色に真人は頬を赤らめる。 「簡単に死にたがるのはお前の悪い癖だが、言いたいことはまぁ、わからんでもない」 やはり言われたな、と真人は思ってしまう。特段さっさと死にたがっているわけではないのだが、彼の目には真人の態度が危うさ、として映るのだろう。 「お前は自分がそう考えるから僧正遍昭がなぜ出家したのかが理解できない、と」 「うん。どうしてもわからない。なんでだと思う。奥さんにも内緒で出家だよ。大事な人だったんじゃないのかな、わからない」 夏樹はついに口許を緩めた。どうやら真人は僧正遍昭の妻に感情移入しているらしい、と。置いていかれた女が哀れで愛おしくて僧正遍昭に憤慨しているようだった。 「大事だから黙っている、と言うこともあるとは思うがな」 「――あなたもなの」 「なんのことだ」 問うた途端に返ってきた声。真人は小さく笑い声を立てる。これでは隠し事があると白状したも同然ではないか。しかし真人は問い質さなかった。もしも夏樹が自分に言わないことがあるのならば、それは自分のためになるからだ、と彼が思っていることに他ならない。それを知っていた。 「まぁ、あれだ。その――」 珍しく口ごもる夏樹などというものを目にして真人は笑う。どうやらよほど知られては困ることがあるらしい。 「僧正遍昭だがな。おまえは俺に何かがあったら死ぬなんぞと言う。だったら僧正遍昭はどうなんだ」 「え――」 「もしかしたら、そうだったのかもしれないぞ」 「ちょっと待って、夏樹」 「戦前だったらこんなことは口が裂けても言えなかっただろうがなぁ。そういう仲だったから、出家した、と言うことも考えられなくはない、と言うことさ」 軽やかに夏樹は笑った。さすがに真人は顔色を変える。不遜だとか不敬だとかではなく、そのように考えたことがなかったことを指摘されたせいだった。 「そっか……。うん、そっか」 「おい」 「なに」 「真に受けるな。そう考えられなくはない、と言う程度だ。作家の妄想に一々付き合うなよ」 「でもそう考えればけっこうすっきりするかも」 「とはいえ、書けないだろうが。そんなことは」 「書けなくはないけど」 だが自分の稚拙な筆ではどうしても夏樹が向こうに透けて見えてしまうだろう。透けるどころか見え見えだ。 「僕が書くとざるだよ、ざる」 「ざる――。むしろ船幽霊の柄杓、か」 「それは……」 酷い、と言いかけて真人は言い返せない。そのとおりだ、と思ってしまう。自分が書いたならばありありと夏樹が見えてしまうと思ったばかりだ。 「真人」 悔しい、との思いはなかった。いずれ本職ではない。それでももう少し巧くなりたい。すぐそばに篠原忍がいるのになぜ水野琥珀は稚拙なのか、と言われるのが恥ずかしくは、ある。 「お前の書くものが俺は好きだ。それじゃ、だめか」 目の前で夏樹が柔らかに笑っていた。真人は目を惹きつけられて離せない。こんな顔をする。篠原忍と言う男はこんな顔もする。それを世人は知らない。胸の中に灯るぬくもりを彼の笑みに見た。 「ううん」 充分だろう。自分の歌は彼のためにある。彼のためだけに真人は歌う。月を見ても花を見ても夏樹を思う。ならば文章もまた。彼が好むと言ってくれるならばそれで充分。だからこそ、巧くなりたいとの思いも確かだった。 「それでもやっぱり――」 「なんだ、足りないか」 「そっちじゃなくて。僧正遍昭のほう。やっぱりよくわからない人だなと思って」 「今度はどこだ」 こんな付き合いのいい人だなど、知っているのは真人くらいのもの。ありがたさに笑みが浮かぶ。 「ん、もしもね、あなたの言うとおりの仲だったとするよ」 「仮定だ、仮定」 「それならそれでいいんだって。そうだったとしたら、どうして妻がいるのかな、とか。そういう仲じゃなくて妻を愛していたのだとしても、だったらなんで他に女がいたんだとか」 「そりゃ、時代の風習というものだろうが」 「僕は――」 言いかけて真人は口ごもる。とっくにぬるくなった茶をすすれば、夏樹が笑い声を上げた。 「お前は俺にべた惚れで、他に誰かなんて考えられないのに僧正遍昭はどうしてそんなことができたのか不思議で理解できない、と。そういうことなわけだな、真人」 「夏樹ッ」 彼にしては破格の流暢な惚気だった。真人が自分に惚れていると言いつつ愛されている自分を誇ってもいる。真人は顔中赤くしながら笑っていた。 「そう怒るな」 「怒ってなんかいない」 「そう見えるぞ」 ならば、と真人は鼻を鳴らす。冗談だと彼にはわかるからこそ、できる態度。 「あなたにそう見えるんだったら、そうなのかもしれないね」 唇を尖らせて、わざと拗ねた顔を作る。さすがにいい大人だ。それこそ他人の前ではこんな顔はしない。彼が自分にだけ見せる顔があるとするならば自分もまた同じことだとはたと気づく。 「いじめられるんだもの、僕は仕事しよ」 「おい、真人」 「酷いことばっかり言うものね、あなた」 にっこり笑って真人は背を返す。夏樹をからかっているとも言うが、いい加減に仕事をしなければならない。 原稿用紙の前に座ってもどうしても僧正遍昭が理解できないとの思いが強すぎる。何を書いても嘘になる気がして仕方ない。しかも背後では夏樹が落ち着かなくごそごそとしているのだ。 わかってくれるはず、と思ったけれど案外そうでもないのかもしれない。思った途端に、少し書けそうな気がしてきた。理解など、そのようなものかもしれない。それでもいいと思うか、それだからこそ好きではない人だと思うか。自分の心の持ちよう一つで相手の見方が変わるものだと真人は息をつく。 「そう言うものだよね、人間」 達観ではなく拒絶でもない。ただそれが人だ、と真人は思う。ならば相手をどうこう思うより先に自分の心持ちをどうにかするべきだと。 「なにか言ったか」 「ううん、独り言。ねぇ、夏樹」 普通に話しかけられて、普通に返事をしてしまった。真人がうっかりしていた、と顔に表すのを夏樹は笑う。 「それで。どうしたんだ」 「ちょっと肌寒いから、丹前を貸してもらえるかなと思って」 「あぁ、待ってろ」 お許しをもらったら自分でとってくるつもりだった真人は申し訳なくなってしまう。気軽に立ってくれた夏樹に頭を下げれば気にするなと目が言っていた。 「ちょっと、夏樹」 背後から、夏樹の腕に抱かれていた。自分の背に丹前をかけ、一枚の衣に包まってでもいるようだ。 「僧正遍昭って言ったら、この話題は欠かせないだろうが」 「あ――」 ちらりと原稿用紙を見やった夏樹が、まだ書いていないのを確かめて助言をくれた。礼の代わりに真人は振り向いて唇を寄せた。 |