朝から夏樹の機嫌が悪い。正確には三日も前から機嫌が悪くなりはじめ、徐々に度を増して今朝、頂点に達した。
「夏樹」
 たしなめるよう呼べば、そっぽを向かれた。無理もない、と真人は彼好みのぬるい茶を淹れてやる。それを受け取ってもむつりとしたまま飲んだ。
 真人とて無茶だ、と思ってはいるのだ。夏樹はもともと写真が嫌いだ。だから編集者になだめすかされ丸め込まれ、著者近影を撮影するのがまず不機嫌の理由。
「写真を撮るくらいなら」
 著作を出版などしたくない、とまで言う人だから無理もない。何もそこまで嫌がることもないだろうと思うけれど、こればかりは好き嫌いだ、致し方ない。
 その上、今日はついでだから、と言っていままで断りに断り続けてきた取材をさせてもらう、と言うのだ。
 しかも、殊の外に自宅への来訪を嫌う夏樹が、この家で、だ。再びみたび無理もないな、と真人は思ってしまう。
「夏樹、お茶菓子でも出そうか」
「いらない」
「少し食べたほうがいいんじゃないの」
 機嫌の悪化と共に食欲が落ち、今朝はついに朝食は要らないと言い出した。客が帰れば食べるだろうから、と真人は放っておいたのだけれど、できることならば少しくらいは何か口に入れて欲しくもある。
「いらない」
 一音ずつを区切るよう、夏樹は言った。もうこうなると手に負えない。夏樹もかまって欲しいとは思っていないだろう。むしろ、真人に八つ当たりをすることを恐れて放っておいて欲しいと思っていることだろう。
「じゃあ、用があったら声かけて。少し仕事しちゃうから」
「あぁ、――すまん」
「いいよ、気にしないで」
 からりと笑って真人は夏樹のそばを離れた。いつもの定位置で夏樹が庭を眺めている。けれどその目に何も映っていないのが真人にはよくわかる。
「本当に」
 仕方のない人だ、と小声で呟く真人の口許には、けれど笑みがあった。我が儘で人嫌いで、神経質なこの男がどうしてこれほど大事なのだろうと思えば笑いたくなる。自分の心が不思議で、けれど彼を大切に思わない自分など想像もできない。
 これぞ不機嫌、とでも言わんばかりの夏樹の背中を遠目に見つつ、真人は書き物をしていく。さすがにあまりはかどらない。もっとも、はかどる必要はなかった。夏樹の目からは少し離れたところで、彼だけを注視していないのだ、と夏樹が思えばそれでいいのだ。
「それでも」
 夏樹は知っているだろう。見ないようにしつつ真人が見ていることも。気にかけないような体裁をつけつつ心にかけていてくれていることも。
 前を見たまま夏樹は唇だけを動かした。すまない、と。真人に聞こえなければ意味はない。声になどならない、見えもしない動きなどまったくなんの意味もない。それでも真人には通じる気がした。
「――夏樹」
 す、と真人が立ち上がりつつ声をかけた。家の外に人が来ている気配。すぐに来訪を告げる声。真人が返事をしつつ出て行った。
 当の真人はこちらも向かない夏樹の心の目が自分の背を追っているのを感じつつ玄関に向かう。そこには数人の男女が立っていた。夏樹の著者近影をどうしても撮るのだ、と丸め込んだ編集者に、取材用の記者、当然カメラマンもいる。名刺を差し出す彼らを家裡に案内しつつ、これでは夏樹の機嫌は悪化する一方だな、と思って内心で小さく笑った。
「篠原さん、編集の方をご案内いたしました」
 人前での態度で真人が言えば、夏樹がこちらを向いてじろりと睨んできた。けれど目が詫びている。八つ当たりだとわかっている、けれど許せと言っている。だから真人は微笑んだ。
「篠原先生、ご不快は重々承知ですので、早々に済ませますから」
「ご承知ならば、来ないでいただきたかった」
「そこは納得していただかないと」
 何事もないよう笑う編集者を真人は強い、と思う。彼らの後ろに控えて「篠原の用を待つ書生」の顔をして真人は座していた。
「前の御著作ではその位置からのお写真でしたから、今度はお庭で。いかがですか」
「ここでけっこう」
 にべもない、とか、取り付く島もない、とか言うのはこういうことだなぁ、と真人は妙に感心してしまう。昔の人はうまいことを言うものだ、など思っているうちに著者近影の撮影は終わってしまう。こんなにすぐに終わるのならばここまで強固に嫌がらなくともいいものを。
「一段落しましたか。お茶でも淹れましょう」
「あ、お気遣いなく」
「いえ。篠原さんがお飲みになりたいようですから」
 にこりと笑って真人は席を立つ。唯一いる女性が自分も立ちたそうにしていたけれど、他人の家で台所に行くには気が引けているらしい。それが真人には好もしく映った。
「ありがとうございます」
 だから女性には甘いものを少し添えて茶を出す。夏樹に出してもいまは喜ばないだろうし、男の客に出しても食べないことが多いから真人は出したくないのだ。女性編集者は気取りなく礼を言っては菓子を口にして喜んでくれた。そこで真人はまだ新人なのだ、と聞く。将来は一流の編集者になりたいのかと思えば、彼女の夢はカメラマンだという。
「意外ですね」
「女性のカメラマンは少ないですから。よく言われるんですよ」
「なるほど、ご活躍を伺うのを楽しみにしていますよ」
 屈託のない真人の声は、けれど小声だった。向こうでは渋面もここまでくれば立派だ、と言いたくなる顔をしたままの夏樹に、取材がはじまっている。
「ところで、水野先生はお留守なんですか。御同居、と聞いたんですけど」
 そこではじめて真人は気づいた。どうしようか、と戸惑っているうちに先輩カメラマンが飛んできて彼女の頭を思い切りはたいた。
「あ――」
 いくらなんでもそれは酷いじゃないか、と真人が抗議する間もない。取材を受けている最中の夏樹が笑っていた。
「その男が琥珀ですよ」
 珍しく、自分から口を開く。編集者が慌てて口を開け閉めし、脂汗までかいている。
「え、あ――嘘。え。あの、ごめんなさい」
 しどろもどろの彼女に真人は笑って顔の前で手を振って見せた。
「お気になさらず。名乗らなかったのはこちらですから」
「とんでもない。水野先生のお顔を知らないなんて、ありえないことですから。そうですよね」
 カメラマン氏が編集者に同意を促す。編集者はこくこくと硬直したままうなずいていた。
「別に顔で商売をしているわけではありませんからいいんですよ、そんなことは」
「あの、本当に、申し訳ありませんでした。お若い方なので、篠原先生のお弟子さんかと思ってしまって」
「――確かに琥珀は若く見えるな」
「篠原さん、話を面倒にしないでください。そんなに若く見えますか、困ったな」
「あの、お幾つなんでしょう。歌人の方って、なんというかもっとおじいさんの印象があって。縁側で呻吟しているような、と言うか」
 実に珍しく、他人の前で夏樹が吹き出した。小さくはあった。が、確かに吹き出した。真人は人前なので睨みつけるのもはばかられ、そっと溜息をつく。
「あなたが想像しているのは、歌人ではなくて俳句に悩む老人、と言うところだろうな」
 楽しげな夏樹だった。編集者もカメラマン氏もここぞとばかりに取材をし、写真を撮る。こんな機会は千載一遇、否、万載一遇だ。
「ご、ごめんなさいっ」
 勢いよく頭を下げた彼女のおかげか、夏樹の機嫌は悪くならなかった。
「もう四十を超えたんですけどね、私も」
「え、そうなんですか。とても見えません」
「女性には嬉しいことでしょうけれど、我々男性は年相応の貫禄が欲しく思いますよ」
 いかにも残念だ、と言って見せる真人に彼女の気持ちもほぐれてきたようだ。そのことにまず真人はほっとした。だいたい、篠原宅に来るというので相当に緊張していたはずだ。たかが来訪で、だ。それを真人としてもいささか申し訳なくも思うのだ。
「お前は童顔だからな」
 取材の合間に夏樹が言う。そんな器用なことができるのならば、もっと早く取材を受けてあげればいいのに、と真人は多少は恨みに思う。が、今はほんの少し機嫌がよくなっただけで、本質的に好きではないことをしているのだから仕方ない、とも思っている。
「篠原さんに言われたくないです。あなたこそ、本当に変わらない」
「えぇ、そうですよね。著者近影を並べても、お年を召したと言う感じがまったくしませんから」
 迂闊なことを言う編集者に、夏樹は当然言った。
「ならば撮らなければいいだろうに」
「いえいえ、そういうものではなく。近影、ですから」
「ずいぶん昔の近影を使っている人もいますがね」
「私は嫌いですね、そういうのは」
 はっきりと言う編集者だった。だからこそ、夏樹は文句を言いつつ写真を撮らせているのだろう。これで彼を気に入ってもいるのだ。
「実は――」
 真人のそばで緊張の解けた彼女が小声で内緒話を仕掛けてきた。すっかり懐かれてしまったらしい。彼女は言う。篠原の著者近影を見て、感動したのだと。この世にはなんて美しい男がいるのだろうか、この人の写真を撮りたいと思ったのだと。
「ですから、篠原先生は目標なんです」
「そうでしたか。中々難しいですよ、篠原さんを攻略するのは」
「精進します」
 にっこりと彼女は笑った。いい笑顔だな、と思う反面真人は面白くない。夏樹に近づく女は無論、男ですら真人には不快の種だ。いい年をしていまだにその手の感情がなだまらないでいる。
 とはいえ、年は取るもので顔には出ていない。同じく笑って彼女を励ました。夏樹だけが小さく口許に笑みを浮かべていた。
「あの、篠原先生って、どなたか決まった方がいらっしゃったり。その、どんな方がお好みなのかな、とか」
 もじもじとする彼女に真人の顔もさすがに引きつりそうだった。そこに夏樹がやはりと言おうか、ついと言葉を挟む。
「私は家事全般が非常に有能かつ手に職を持ち、そこでも有能、人当たりはよいけれど心に一本芯が通っている、そういうのが好みです。付け加えて言うなら、決まったのが、いますよ」
 妙に具体的で誰も言葉を挟めなかった。編集者が恐る恐る真人を見やる。
「篠原さん、わかりにくい冗談はやめてください。それ、私のことでしょう。誤解を招きますから慎んでください」
「お前がうちにいる。それで充分だ。わざわざ家に他人を入れる気はせんな」
 まったくもってそれは夏樹の本心だ。けれど幸か不幸か誰にもそれは「篠原忍の珍しい冗談」に聞こえた。




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