暑さにばてた夏樹がそれでも定位置に頑固に座っている。風が通るぶんまだしもなのかもしれない。
「ねぇ、夏樹」
 少し食べたら。言おうとしたけれど、真人は口ごもる。振り返るまでもない、夏樹の頬がやつれているのが見て取れる。
「なんだ」
「ん……」
 言えば気にするだろう。容姿を、ではなく真人が心配することを、だ。心配されていると強く感じてしまえば夏樹はそれなりに無理をする。真人の本意ではない。
「夏だなぁ、と思って」
 曖昧な言葉に夏樹は小さく笑った。何かを言いかけたのがわかってしまったのだろう。まだ笑えるだけ、体調がいいのだと真人は思う。
「前に、覚えてるかな」
「それじゃわからんよ」
「ハルだよ」
「あぁ……」
 庭の向こうに目をやって、彼は何を見るのだろう。小さな子供が庭で遊んでいた日々かもしれない。歓声と笑い声が絶えなかった毎日。
 いまがつまらないわけでは決してない。真人とて同様だ。ほんのりと、穏やかに過ぎていく日々と言うのもいいものだ。
 子供がいたときには考えられなかったほど閑静な毎日。大人だけで過ごす時間はしっとりとした艶を帯びる。
 それでも、と時折真人は思う。春真がいたころの日常はなんて光っていたのだろうかと。夏樹も同じなのかもしれない。春真を溺愛したのは真人だった。遠巻きに、と言うわけではなかったけれど、べたべたと甘くするような人ではなかったから、静かな日々に戻ってほっとしているのかと思いきや。
「あなた、渋い顔をしていたよね」
 くすくすと真人は笑う。ある夏の日。春真を連れて三人で海水浴に行った。もっとも水浴をしたのは春真一人だが。真人は波打ち際に出て一緒に遊んだけれど、夏樹は頑ななまでに日陰にいた。
「一緒に行ってくれただけで、嬉しかったけどね。つらかったんでしょ、本当は」
「まぁ、夏はな」
「ハル、喜んでいたよ、伯父様と一緒だって」
「そんなこと、あいつは一言も――」
「言うような子じゃないでしょ、あなたの甥っ子だもの」
 言葉に夏樹はあのときのように渋い顔をした。真人はまたそっと笑う。
 本当に、ありがたく思っていたのだ。夏が苦手な夏樹が外に、まして海に春真を連れて行ってやるなど想像もできなかった。海に行きたい、と言ったのは春真で、真人は二人で行こうと思っていたのだった。夏樹が同行する、と言った時にはだからとても驚いたものだった。
「あなたは――」
「ん、なんだ」
「海、苦手なんだろうなって思ってて」
 少しためらった末に真人は言った。夏樹は風に吹かれつつ首を振る。重く口を閉ざしてしまうより、言ってしまったほうがいいのかもしれないとふと思う。
「苦手なのは海じゃなくて夏だ――と言うべきだろうがな」
 完全にこちらを向いた夏樹が苦笑していた。それから手で真人を招く。恐る恐る近づいて座った真人の膝を夏樹はぽん、と叩いた。
「かしこまるな、話しにくい」
「だって」
「昔話だ。もう、気にもしてない、ただのお話だ。そう納得するなら、話す。違うならいま言ってくれ」
「――聞く」
 夏樹の言葉に真人は悟る。これは彼の子供時代の話だと。別けても母の話だと。ごくりと喉が鳴った。
 そんな真人を夏樹は笑ったけれど、真人にとって彼の母は決して快い人物ではない。一面識もないのだけれど、それを幸いだと思ってしまうほどに。
「前にお前、春の海が好きだと言ったな」
「うん、うららかで、穏やかで、気持ちが和む」
「俺は――」
「あのときあなたは冬の海が好きだって言った」
 荒涼とした風景が、彼の心象に適うのだと思ってきた。泡立ち荒れる波しぶき。岸壁に砕け、割れ、裂けて散る。彼を孤独だとは言わない。自分がいる。それなのに夏樹にはそんな風景が似合うと真人でさえ思う。
「単に夏の海が苦手で、冬の海が好ましい。それだけだ。たいした意味は、なかったんだ」
 真人の目の中に自分の毅然と立つ姿を見でもしたか夏樹は苦笑して彼の髪に手を滑らせた。
「暑いからね、夏は」
 それだけで済ませてしまうような話ではない。夏樹は確かにそう言った。だからこその前置き。真人は話題を軽くするためだけに、あえてそう言う。
「まぁ、それもあるがな。昔、葉山に藤井の別荘があったんだ」
「あぁ、露貴さんの」
「それで間違ってはいないが、実家のほうな」
 夏樹は真人から目を離し、庭を見やった。それでも手は真人の手を握っていた。少し汗ばんだ手。緊張か、暑さか。
「藤井の別荘だ。つまり、俺の母親の実家の別荘だ」
 一度きつく手を握る。もう気にしていない、そう言った口で体は緊張をあらわにする。子供ではないのだし、もう痛いような話でもない。それなのに。
「夏になると、母親が冬樹を連れてよく遊びに行ってたよ」
 真人は尋ねられない。そうする必要もない。あなたは、とは。夏樹は屋敷に一人、いたに決まっている。
「留守番なら、まぁ、それでよかったんだが。外聞というものもあるからな」
「え――」
「運悪く、連れて行かれるんだな、これが」
 肩をすくめて夏樹は言う。ならば彼は目の当たりにしていたと言うのか。仲良く海辺で遊ぶ母と弟を。今度手を握ったのは真人だった。
「あなたもいらっしゃい、なんて言いながら、俺は砂浜に置いてけぼり。子供らしく可愛く泣いて母に訴える、なんてことができればよかったんだろうが――。生憎と父の子でな。そういう真似がどうしてもできん。母としてはだからいっそう可愛くない。今ならよくわかるがな」
「だからって……」
「真人、昔話だ。気にするな。これが夏の海が苦手な理由ってやつだ。俺自身、気にしちゃいないが思い出せば腹は立つ」
「うん――」
 立腹にすりかえるしかなかった寂寥と言うものがわからない真人ではない。わかるからこそ、黙ってうなずくしかない。
「冬の海は――」
 ふ、と夏樹の表情が明るくなった。そのことにほっと真人は息をつく。夏の海につらい思い出があるのならば、冬のそれには是非いい思い出があって欲しいと。だが幼少期の彼にそんな思い出があったのだろうか。
「あれは、幾つのことだったかな。小さすぎてよくわからん。欠片だけの記憶だが――父と海に行った、冬に」
 真人は息を飲む。彼の父に夏樹を慈しむ気持ちがあったのは、知っている。せいぜいなかったわけではない、と言う程度であったとしても。その父が、彼を連れて行ったとは、少し考えにくかった。
「たぶん、江ノ島だと思うんだがな。大人になって見覚えがあるような景色を見たから」
「それが、楽しかったんだね」
「珍しく、父が楽しそうに笑ってたのが印象的でな」
 邸では無表情に無言を貫いていた人だった、と夏樹は言う。必要最低限を下回るほどしか口をきかない人だったと。
「父がこんなによく笑う人だとは思ったこともなかったから、驚いたんだろうな。だから、覚えてる」
「夏樹――」
「あぁ、そうだ。お前の想像通り、だと思うんだがな」
 多少覚束ない顔をした夏樹に真人は笑って見せた。他愛ない昔話をしているだけなのだとばかりに。それに応えて夏樹が微笑む。
「一緒にいた人がいる。たぶん、薫さんだと、思うんだ。きれいな人だな、と思った覚えはあるんだが」
「ねぇ、僕は妬いたほうがいいのかな、それって」
 あえて唇を尖らせて拗ねて見せる真人に夏樹はありがたそうに目を細めた。
「怒るな」
 引き寄せて、礼代わりにくちづければ、息をつくのが聞こえてしまった。互いに。すぐ目の前で笑みをかわして肩の力を抜いた。
「父の手記を読んだいまだから、わかる。あれは薫さんだったんだと思う。江ノ島でもあったんだろうな、一緒に行った思い出の場所らしいから」
「そうなんだ。連れて行ってくれたんだね、お二人の思い出の場所に」
 真人の言葉に夏樹は驚いたのだろう、目を丸くした。それから破顔一笑。真人が見惚れるほど美しい笑顔だった。
「そうだな。確かにそうだ」
 自分と真人と春真と。三人で過ごした時間は家族を作った。春真には実の両親も兄弟もいる。それでも三人は家族だと胸を張って言える。春真にはふたつ家族があるだけだと言える。
 あのとき。父と薫と三人で遊びに行ったあの時。あれは家族だっただろうか。違う、と夏樹は思う。想像でしかないことで父を非難したくはないが、子供を連れて外出する、と言う名目で薫に会いに行った、もしくは薫が会いたがった子供を連れてきた。それだけだったのだと思う。
 父の目に映っていたのはただひたすらに薫だけだった。父は薫、と言う夢の中に住んでいた。いまの夏樹はもうそれを知っている。非難しようとは思わない。むしろ父の子だと思うことがあるほどだった。夏樹自身、小説と言う夢の中に住んでいる。ただ夏樹は現実にも足を下ろしている、それだけの違いだ。
「江ノ島に行きたいって言ったのは、きっと薫さんだろうな」
 二人の思い出の場所に他の女との間にできた子を連れて行くことを望むような男ではなかったはずだ、父は。
「でも夏樹。お父様はそれを了承なさった。それで、楽しそうにしてらっしゃったんでしょう。だからあなたが覚えてる」
「珍しかっただけさ」
 素っ気なく言った夏樹だった。真人はその目の中にあるものを見た気がした。
 遥か昔、幼少の夏樹。父ともう一人の誰かを眩しそうに見上げている思い出。笑う父に驚いた記憶。優しい人が遊んでくれた。
「だから俺は――冬の海が好きだよ」
 子供のころのささやかな甘い思い出。たった一日を宝石のように大事にしなければならなかった自分であったとしても。
 真人は無言で夏樹の手を両手で挟んだ。胸まで持ち上げ、抱きしめる。まるで、祈りのように。




モドル