夏樹の作品を出版している会社からメロンが届いた。本来ならば編集者が持参するところを、篠原がそれを好まないと知って郵送してくるあたり、気がきいている、と真人は思う。
「やったー。メロンだ、僕メロン、大好き」
 春真が箱の前で飛び跳ねて喜ぶ。夕食前に冷やしておいてやろうと思いつつ真人は夏樹を見やる。
「ねぇ――」
 言いかけたちょうどそのとき彼が振り返る。お互いに顔を見合わせ苦笑い。結局夏樹が口を開いた。
「一つは志津子に持って行ってやれ」
 いまだ入院加療中の春真の姉。春真は忘れていたわけでは決してないが、二つあるメロンのうちひとつを姉に、とは微塵も思わなかった自分を恥じてうつむいた。
「ハル」
「ん――」
「伯父様、優しいね。いっつもハルのことなんか知らん顔って感じなのに、ちゃんと志津ちゃんのこと気にしてたね」
「……うん」
 困り顔の春真とにこやかな真人を前に夏樹は苦笑していた。これでも春真を気にかけていないわけではないのに、真人にはそう見えるのかもしれないと。
「僕、お姉ちゃんのこと」
「ねぇ、ハル」
 春真の言葉を遮って子供の顔を覗き込む。だいたい何を考えているかわかるくらい、馴染んでいた。それが嬉しいようなくすぐったいような気がする。
「ハル。あんまりね、僕も伯父様も言わないようにしているけど、ハルは頑張り屋さんだね」
「え――。そんなこと、ないと、思うけど」
「ううん。僕は知ってるよ。ハルは一生懸命色々頑張ってるよ。僕はちゃんと知ってるよ。だからね、ハル」
 子供の頭に手を置いた。柔らかな、触れてはいけないのではないかと思うほど清らかな髪。真人は丁寧に指で梳く。
「我がままを言っていいんだよ、ハル。お父様お母様には頑張ってるよって言っていいんだ。だってハル、男の子だもの。でも僕には好きなこと言っていい。僕はハルがどれほど頑張り屋さんか、知ってるからね」
 きゅっと春真が唇を噛んだ。うつむいて、顔を隠す。真人は何も言わなかった。黙って頭を撫でていた。感心なことに夏樹も無言で春真を見つめている。
「じゃあ、一つは志津ちゃんに持って行こうね」
 春真が涙をこらえ、ようやく笑みを浮かべたのに合わせて真人は言う。今度は春真もにっこりと笑った。
「なんだ、一緒に行くのか」
「ん――。そのつもりだったけど」
「……そうか」
 夏樹その言葉に真人は気づく。きっと志津も好きなメロン。一日でも早く食べさせてやりたいと、この人嫌いな男が思ったことを。
「あぁ、そっか。明日僕、出かけるんだった」
「え、真人さん、どこ行くの」
「ちょっと編集部に。ハルごめん、ちょうどついでだから、僕、持って行くよ」
「うん……お姉ちゃん、元気かな」
「ちゃんとお喋りしてくるよ。帰ってきたら話してあげる」
「ほんとに。約束だよ、真人さん」
「酷いな、ハル。僕が約束破ったことなんてないじゃない」
 くすくすと真人は笑い、悪戯半分に春真を抱きしめる。苦しいと笑う子供の声を胸に聞き、真人はたまらない思いに駆られた。
「春真」
 ふ、と夏樹が声をかける。珍しく伯父に呼ばれて春真は真人の腕を抜け出した。
 そばに呼び寄せて何を話すか、と思いきやたいしたことは話していない。真人は内心で小さく溜息をつく。
 夏樹がなにを考えたか、わかってしまう。息子同然の子供相手に何を妬いているのだろうか、と呆れ半分嬉しさ半分。
「どうした、真人」
 つい、と顔をむけてきた夏樹に真人は何事もなかったかのような顔をして笑って見せた。

「伯父様がね、志津ちゃんに食べさせたいって言ってたから、持ってきたよ」
「ほんとうに。うれしい」
 にこりと病床にある志津が笑う。心からの笑みなのに、明るさを帯びない笑顔だった。真人は痛ましく思いつつ、この子も頑張っているのだ、とも思う。
「ありがとうございます、真人さん」
 ちょうど病室に詰めていた冬樹が真人に向かって頭を下げた。真人はかえって慌ててしまう。
「やめてよ、冬樹君。僕はただのお使い。志津ちゃんが好きだから持って行けって言ったのは、夏樹だから」
 真人の言葉に冬樹は本当にか、とでも言いたげな顔をして笑った。さすがあの人の弟だ、と思ってしまう。人嫌いで偏屈なのはよくよく理解しているらしい。そんな兄が姪の好物を持っていけ、など言うわけはないと。
「本当だからね、冬樹君」
 念を押せば志津がそっと笑みを浮かべた。くすくすと笑えば血色の悪い頬に血の色が上ってほんの少し、健康そうに見える。
「あんまりたくさん食べるとお医者さんに叱られちゃうからちょっとだけね」
「うん。でも……残念。いっぱい食べたいのに」
「じゃあ志津ちゃんが退院したら、僕がお祝いに志津ちゃんが食べきれないくらいメロン、買ってあげる」
「ほんと。真人さん、いちごも欲しいな、さくらんぼも」
 浮き浮きと笑う少女が不憫になりそうだった。退院して、好きなものを好きなだけ食べられる日などこないのだと知っているかのような笑み。
「こら、志津」
「ううん、約束だよ、志津ちゃん。その代わり、絶対に全部食べてもらうからね」
「うそうそ、酷い、真人さんの意地悪」
「どこがかなぁ。さぁ、僕も頑張らなきゃね。志津ちゃんにどれだけたくさんプレゼントできるかな。だから志津ちゃん、いまは一口ね」
「……うん」
 きゅっと唇を噛んだ姿など、春真とよく似ていると真人は思う。それでも春真にならばためらいなく頭に手を伸ばせるのに、少女だと思えば躊躇する。
「さ、志津。少し寝たほうがいいぞ。お父さんは真人さんにお話があるからな」
「うん、わかった。真人さん、またきてね」
「もちろん。今度は伯父様を連れてくるよ」
 それは無理、と志津が笑った。冬樹までつられて笑う。真人はふと思う。彼の人嫌いは元々だ。が、弟の家族が認めているおかげで助長されてはいないかと。それがありがたかった。
「本当は、真人さんが持ってきてくれたんでしょう」
 病室を離れ、院内の喫茶室で二人は向き合っていた。冬樹も息抜きがしたかっただけで、特に話はないのだと笑う。
「違うよ、本当に夏樹が持って行けって。僕が言うより先に志津子に、って言ったよ」
 夏樹だけは、姪を志津子、と呼ぶ。真人の言葉に冬樹はようやく納得したのだろうか、少し驚いた様子でうなずいた。
「あれで、甥も姪も可愛いんだよ、本当は」
 実の弟がわかっていない、とは真人も思わない。けれど血の近さは時に目の暗さとなる。だから真人はあえて言う。
「――兄さん、元気ですか」
「元気だよ、このところは寝込むこともないし。ねぇ、冬樹君。遊びにきたらいいのに」
 ちょっと立ち寄るだけでもいい、近所まできたから茶を飲みに寄った、それでいい。志津の看病に忙しいのは、わかっている。それでも。
「兄さんには、真人さんがいますから」
 冬樹の言葉に、真人は呼吸が止まりそうだった。意味はわかる。真人がいるから心配はない、わざわざ立ち寄って様子を窺わなくともいい。そう言っているのはわかる。
 それでも、真人がいるから寄れないのだ、一瞬はそう聞こえてしまった。
「冬樹君――」
 一度真人は言葉を切る。喫茶室には人気がなくて、閑散とただ消毒液が臭うよう。
「僕は時々、酷いことをしていると、そう思う」
「え――」
「冬樹君の大事なお兄様に、僕は何をしてるんだろうね。僕がいること自体が、ご家族にとっていいことではない、そう思う」
「そんなことは――ッ」
 慌てて半ば腰を浮かした冬樹に真人は微笑む。夏樹に似ていない彼の弟。顔も態度も仕種の一つ一つも、とても実の兄弟だとは思えない。
「僕はね、とてもあの人が好きだ。これほど時間が経ってもまだそう言えることが僕の誇りでもある」
 出逢ったときのように、彼の言葉の一つずつに胸が高鳴る。あのころのように彼の仕種に眼差しにときめく。いまもなお。いまでも、なお。
「でも、ご家族には、違うよね」
「真人さん。あなたは考え違いをしている」
 きっぱりとした冬樹の声だった。思わず真人は目を瞬き、彼を見つめる。
「あなたのどこが悪いんですか。あなたのどこが我々家族に障りがあると言うんですか」
「だって、僕は」
「あなたが男性だから、なんだと言うんですか、真人さん」
「それは……色々と言いたいことはあるでしょう」
 それがこの世の常識だ、と真人は思う。けれど冬樹はそんなものは関係ないと決然としていた。
「これは言うべきじゃないかな。でも兄さん、女性に目を向けることはできないでしょう。兄は、母と色々あったから。女はみんなああいうものだと思ってる節がある」
「うん、それは――」
 思えば冬樹は彼の母が自分の目の前で実の兄を迫害するところを見ているのだ。よくぞまっすぐに育ったと感嘆したくなる。
「女がだめだから、あなたをって言うのは短絡的だけれど、でももし真人さんが女性だったら、兄さんは目もくれなかった、そんな気がする」
「そう……かな」
「そんなことないって、思ってるでしょ。いまだからですよ。あなたと出会って、相愛になって、そうしてはじめてあなただったら男であっても女であっても関係ない、兄はそう言えるようになったんだと思う」
 冬樹の表情だろうか、語調だろうか。疑うことすら許さない、そんな気配に真人は息を飲む。
「僕は――。どんなにご家族に迷惑でも、あの人が欲しかったんだ」
「あんな兄をもらってくれて、こちらこそ感謝してるんですよ、真人さん」
 冬樹の言葉に、柔らかな声に、その笑みに。真人は声もなくうつむく。我がままを、迷惑を貫かせてくれるありがたさに、言葉もなかった。




モドル