真人はふらりと家を出てきた。落ち込んでいるわけではないし、夏樹には機嫌よく散歩に行く、と言ってきている。それでも屈託なく、とはいかなかった。自分に対して不快を覚えている、と言うのが最も近いだろうか。
 足はいつの間にかに近所の動物園に向く。気がつけばそちらへの道を取っていた。
「あ――」
 懐かしい、ふと真人の口許が緩む。春真が小さかった頃、よく連れて散歩に来たものだった。時には夏樹と三人で。
 野毛山の動物園は入園無料の市民の憩いの場だ。いまもあちらこちらに小さな子供を連れた母親や子供たちが遊んでいる。
 しばらく前まではあの中にいたのか、と思えば少し不思議な気がした。真人は連想のまま春真が大好きだった虎のところへと歩いていった。
「あ」
 虎の檻の前、制服姿。ぼんやりと虎を眺めているその後姿。いやになるほど見覚えがある。真人の凝視に気づいたよう、制服姿が振り返った。
「真人さんだ、どうしたの」
 春真だった。学校帰りに寄ったものか、鞄まで持ったままだった。真人は不安になって駆け寄ってしまう。
「どうしたのって、ハルこそどうしたの。こんなところで、こんな時間に――ひとりで」
 一瞬のためらいを見抜いて春真が小さく笑う。心配ないよ、とばかり顔の前で手を振った。
「たまにちょっとね、一人になりたいって言うか。別に帰りたくないわけじゃないけど、ちょっとね」
「それって」
「――父さんもお母さんもね、ハル――兄貴だって気にかけてくれてる。すごい大事にしてくれてる。姉さんだって自分のせいでって、口に出さないけど思ってる。ありがたいけどさ、ちょっとね」
 真人から眼差しを外し、春真は虎を見ながらそう言った。馴染めないでいるのか、家族と。真の家族と。真人は言う言葉を持たず春真の背中に手を当てた。
「相変わらず、頑張り屋さんだね、ハル」
「そう、かな」
「うん。ここまで来たら、うちに来ちゃえばいいのに、ハルはそうしなかった。一人で頑張った。偉いけど、我慢しなくていいんだよ」
「わかってる。そう言ってくれるってわかってるから、だから。うん。頑張れる。大丈夫だよ、真人さん」
 たかが中学生の子供がこんなことを言う。真人は胸の中に何かを覚える。痛みか、熱か判然としないもの。
「真人さんはいつも僕の味方だって、わかってるから」
 真人は両親も兄弟も、伯父だってそうだ、とは言わなかった。いまの春真にとってそれが負担になっているのならば。ただ黙って春真の味方であり続けようとそう思う。
「それで真人さん。どうしたの」
「ただの散歩――」
「には見えないから聞いたんだけどな」
 ぷ、と頬を膨らませて見せた。まるで子供じみた仕種に真人は苦笑する。つい先ほど見せたはっとするほど大人の顔とこの子供の顔。どちらも春真でどちらもいまの彼を表している。だが多少の演技を感じないでもない。そのあたりはまだ子供だな、と思った。
「まぁ、ちょっと、ね。伯父様に叱られちゃったから、と言うところかな」
「え、なにそれ。伯父さんに真人さん叱るなんて真似がよくできたもんだね」
「それはないよ、ハル」
「だって伯父さん、なんにもできないじゃん。真人さんいなかったら野垂れ死にするよ、あの人」
 だからその伯父が叱責を下すなどとんでもない、と春真は笑う。どことなく冗談のように聞こえなくて真人は困ってしまう。
「あのね、ハル……」
「あ、冗談だから」
「そう聞こえないから困ってるんじゃない。伯父様は僕なんかいなくたってちゃんとなんでもできるよ。僕がするから放っておいてくれるだけ。ハルの伯父様は立派な人なんだからね」
 できるかぎり真剣に言ってみたけれど、長く生活を共にした春真が納得するとは思っていない。春真は夏樹の一面しか、見ていない。真人とて彼のすべてを理解しているなど高言はしないけれど、春真よりは多くの彼を知っている。
「真人さんが言うなら、それでいいけど。で、なに叱られたの。ほんと、信じらんないな」
 このままでは家に飛んでいって伯父に文句を言いかねない、真人はそれを見て取って苦笑した。
「僕には血縁がないから、よくわからないことがあってね」
「誰もいないんだっけ」
「父のはとことか母の従兄弟とかはいるような気がするけどね、会ったことないし、そこまで行くともう他人だよ」
「ふうん、そっか」
「それで――」
 真人は語る。本当は子供に話すようなことではないかもしれない。一瞬はそう思った。けれど春真はもう分別のつかない年ではない。
 血縁がいないからこそ真人がわかりえないこと。血の近さゆえの憎悪だった。他人ならば関係を絶つことができても、血縁ではそうも行かない。だからよけいに深まる、とはわかっている。
「それって、伯父さんとおばあちゃんのことかな」
「――例を挙げるなら、そうだろうね」
「でもそれを怒るのって、おかしくないの」
「あぁ、違う。怒られたのはそれじゃないんだ。僕は当然、伯父様とは血が繋がってない、ハルともそうだね。だからこそ――」
「ねぇ、真人さん。血の繋がりがないから憎まないで済むなんてこと、こっちが考えてるなんて思ってるとしたら、僕でも怒るからね」
「あ――」
「そりゃね、僕は真人さんにとっては友達の甥っ子ってだけだよ。血の繋がりなんか微塵もない。でも僕の育ての親は誰なわけ。真人さんじゃん」
「ハル――」
「いいから聞いて。父さんたち、誰に僕を預けたと思ってるの。伯父貴じゃないからね。真人さんがいるから、僕はあの家に預けられた。だから真人さんは僕の親だ。父さんたちにとっては家族だ。わかってるの。血の繋がりなんて――」
「ハル」
 中学生の男の子が、こんな往来で抱きすくめられたら嫌がるかもしれない。思ったのに、止められなかった。一度ぎゅっと抱いて、それでもすぐに離した。
「ハル。伯父様もね、そうやって怒ったんだよ」
 同じことを言って夏樹は怒った。春真には言えない理由も挙げたけれど、とにかく自分たち二人と春真を入れて家族だと言った。弟夫婦もそうだと言った。
「伯父さんが……」
「うん、珍しいよね。あの人、あんまり家族だと思ってる節、ないからね」
「実は照れ屋だったり」
 そのとおり、とは真人はさすがに言いにくい。けれど物言いたげな笑みに春真は見て取ったのだろう、小さく吹き出した。
「伯父様がそう言ってくれて、嬉しかったんだよ、僕は天涯孤独なわけだしね。でもなんというか、伯父様なら、僕とは長い付き合いだしね、そう言ってくれちゃうのかな、とかね、思ったり」
「それで散歩にきたんだ、真人さん」
「まぁ、そうなのかな」
 言われてみて、言ってみて、はじめてもやもやとしたものがあったのだと気づく。言われた自分も、言わせた自分もいやだった。そんな不甲斐ない自分がみっともなくてたまらなかった。
「伯父様はそう言うけど、なんて思ったのかな」
「それなのに僕がおんなじこと言ったんだもん、納得できなくてもしてもらうからね、真人さん」
「わかってる。――ありがとう、ハル」
「よしてよ、他人行儀な」
 ぷい、と顔をそむけて嫌がった。こんなことができるのも、彼が心から家族だ、と思ってくれているせいなのだろうか。
「あれ、水野じゃん」
 不意に真人の後ろから声がかかった。思わず振り向いてしまったけれど、若い呼び声は自分に向けたもののはずがない。
「なに、親父さんと散歩してるの」
「親父じゃないよ」
 どうやら春真の級友らしい。真人は少し離れて待とうか、と思った。春真の親父ではない、の言葉に少し胸が痛んだせいもある。当たり前のことを言っているのに、過敏になっている、そう思う。
「親父じゃないけど、育ての親」
 けれど春真はそう続けた。はっとして子供を見やれば、こちらを向いて満面の笑みを浮かべていた。それから一度、級友に手を振って行こうと促す。
「……いいの」
「別に。学校で会えるし、用はなかったし」
「ねぇ、ハル」
 なにを言おうとしたのだろう。ありがとう、かもしれない。嬉しかった、かもしれない。どちらも違うような気がした。
「なんか、甘いものでも食べに行こうか」
「あ、いいな。パフェ食べたい、パフェ」
「意外なものが好きだね」
「だってさぁ、父さんと一緒だと恥ずかしいからさ、最近食べてないんだもん」
「僕と一緒ならいいんだ、ハルは」
「だって恥ずかしがるような仲じゃないでしょ。もっと恥ずかしいこといっぱい知ってるんだし」
「まぁ、そりゃあね」
「なんて言うかな、実家の家族とはさ、馴染めないわけでも嫌いってわけでもない。みんな大好きだよ。姉さんが帰ってきたのなんか、すごく嬉しかったし。でもやっぱ、なんかさ、かっこつけたいって言うかさ」
 わかってよ、とでも言うよう春真は真人を見上げた。真人は一度彼の目を覗き込み、それからうなずく。
 嘘偽りのない春真の今の感情なのだと納得したから。家族に対する思いと、真人に対する思い。本当ならば春真がどこでも口にできないような思いであるのだろう、家族へのそれは。けれど彼は真人に言った。
 それを口にしていいだけ信頼していると。信頼、とは少し違うかもしれない。ただ真人にならば偽りを言う必要はないのだと春真は知っているだけだ。
「家族、か」
「兄貴も姉さんも僕も、みんな頑張ってるんだけどね」
「違うよ、そっちじゃない。春真にとって僕は家族なんだなぁって、思ったの」
「僕だけじゃないって。伯父貴が筆頭なんじゃないの、そう思ってるのって」
「ちょっと、それって」
「だって、伯父さん。真人さんがいなかったら一人寂しく暮らすんだよ。可哀想じゃん。かまってあげてよ」
 含みのない言葉の裏側を勝手に想像して慌てた真人に春真はからからと笑ってそう言った。気を回しすぎた自分に真人は照れて笑う。春真はまだ笑っていた。




モドル