陽成院の歌を現代語訳するために真人は首をひねっていた。単純な歌ほど、訳が難しい。単語そのままでは感じが出ないし、かといっていじればいじるだけ趣を損なう。 真人としては、本当は現代語訳などしたくない。歌は歌のまま味わえばいい、そう思っている。けれど訳が必要だと言うのならば、元の歌の雰囲気を忠実に伝えたい。語意を、ではないところが夏樹は好もしいと思っていることを真人は知らない。 「とはいえねぇ」 一応、丁寧に品詞分解からしていくのだ。面倒だと思わないでもないのだけれど、間違えば大変に恥ずかしい思いをすることになる。 そして単語を見ているうちに段々とわけがわからなくなってくるのだ。この辺りは歌人である、と言うことが祟っているとしか思えない。わかっている言葉をわざわざ翻訳するなど混乱するのも当然だ。 それでもなんとか粗訳はできた。後はこれをもう少しまともな文章にすればいい。もっとも、小説家ではない真人にとってはそこからがまた難問なのだが。 「ほんと、夏樹に丸投げしたいくらい」 呟いた言葉に飛び上がる。否、突然に叩かれた肩に驚いて、だ。 「夏樹、なにするの」 驚くじゃないか。言葉の後ろで非難すれば目の前で彼がにやにやと笑っていた。 「俺になにを丸投げするだって」 「あ、それは……」 「俺にお前の文体模写しろとは中々無茶を言う」 「……そりゃさ、あなたは作家なんだから、僕みたいな素人の書いた物なんて見苦しいだろうけど」 「金もらって書いてる以上、お前も玄人だってのを忘れるなよ」 「……ん、はい」 心から苦手ではあるのだけれど、受けた以上仕事は仕事。普段はそう思っているのだけれど、たまにはこうして弱音も吐きたい、そして叱られもしたい。夏樹もそれを知っているかのよう、軽い叱責を与えるのだ。お互いに口にしない思いが通じる、本当はそれだけでいいのかもしれない。 「まぁな、俺もそれはちょっと面白いと思うがな」 「え、それって」 「だから、お前が和歌の粗訳を作る。俺がそれを題材に小品を書く。ちょっと面白いと思わないか」 「それ、いいね。すごく面白そう」 「だろう。今度、暇ができたらやってみるか」 夏樹の提案に真人はいまになって怯む。言われた瞬間には確かに面白そうだと思ったものの、実際に書いてもらうとなればこんな贅沢な話もない。 「いや……どうせだったら、お前の歌を題にするか」 「ちょっと、夏樹」 「だめか」 「だめじゃ……ないけど。そんな、どこにも出せないようなもの、書く気なわけ」 「お互いのためだけの話ってのも、悪くないだろ」 篠原忍が、真人のためだけに小品を書き下ろすと言う。しかも琥珀の歌を題にして。胸の中がきゅんとする。 「……うん」 嬉しい、素直にそう思った。恥ずかしくも思う。けれど、言葉の足りない人が、こんなことを言ってくれるとは思ってもみなかった。 「だったら、僕も何か詠まなきゃね。あなたに書いてもらうのと、あなたが書いたのを題にしたのと」 「おい、俺のもかよ」 「僕のだけだなんてずるいじゃない。なにを詠もうかな」 うきうきと弾みだした真人の声に夏樹は呆れ半分の笑みを浮かべる。本当は心からの歓喜を覚えていたのだが。 「そうだ……」 初恋の歌にしよう。自分にとっての初恋はやはり彼のような気がする。幼い何も考えていないころの恋ではなく、大人になってはじめて魂の震えを覚えた人。 「真人」 夏樹の声が怪訝さを帯びた。真人はことり、と首をかしげる。 「いや、なにを考えているのか、と思ってな」 いったいなにをどう誤解したのだろうか。それとも初恋、と思ったときに何か顔に出たのだろうか。 「別に、何も考えてないよ。さ、お茶でも淹れるよ」 「待て、真人」 言われて待つほど真人も人がよくはない。いそいそと夏樹を放って茶の支度をする。なにやら誤解したか曲解したかした夏樹が不安そうな顔をしていた。 「言いたいことがあるなら言えよ」 淹れてやった茶をすすりながら言うものだから真人は吹き出さないようこらえるのに必死だ。その微妙な顔にまた不安を感じた夏樹の表情が焦っていく。 「言いたいこと。ん、別にないよ」 「そういう顔に見えないから聞いてるんだがな」 「本当に。へぇ、不思議だねぇ」 長閑な真人の声に夏樹はますます不安になったようだった。あちらを見、こちらを見をして再び真人に眼差しを戻す。 「……なんの歌を詠むつもりなんだ」 どうやら話を変えることにしたらしい。そのほうが賢明だ、と思ったのだろう。だから真人は素直に言う。 「うん、初恋の歌にしようかなって」 言った途端だった。夏樹が茶を吹き湯飲みを取り落としたのは。予想していた真人は慌てず騒がず布巾を手に取る。 「大丈夫、夏樹。火傷……するほど熱くなかったよね。ほら、手を出して。拭くから」 「お前」 「ん、なに」 「全然、焦ってないよな」 「うん。落とすだろうなって思ってたし」 「おい」 にこやかに言われてしまって夏樹は言葉もない。あまりの笑顔に何か真人の不快を煽るようなことをしてしまったかと思う。心当たりはなかったけれど、思い当たらないからこそ怒っている、と言うことがないわけではないだろう。 「いや、だからな。その」 こぼした茶を拭かれつつ夏樹がぼそぼそと呟きはじめる。大変に締まらない姿だなぁ、と真人は心の内でそっと笑う。こんな姿を見ることを許されている至福にしばし浸りたい。 「お前が誤解してるようなことはないって何度も言ってるよな」 「僕が誤解」 「してるだろ。そりゃ露貴は露貴でまぁ、本人に言いたくはないが大切だとは思ってる。それは事実だから否定しない」 「ふうん。なんで言いたくないの」 「言えるか馬鹿」 「え、なんで」 「下手なこと言ってみろ。話が面倒になるだけに決まってる。だいたいこっちは叔父か、でなきゃ友人としか思ってないんだ。そういう相手に向かってお前が大事だなんて、お前だったら言えるのか、え」 すごいな、と真人は目を瞬く。この人がこんなにも多くの言を費やして言い訳をする姿などそうそう見られるものではない。もっとも、真人としても偶にだから楽しんでいるのであって度々見たいようなものでもなかったが。 「ねぇ、夏樹」 「なんだよ。だからな、頼むから人の話を聞いてくれよ」 「うん、聞いてる」 「嘘つけ、まだ疑ってるだろうが。だいたいお前と一緒になって何年経つと思ってるんだ」 彼にとってそれは些細な言葉遣いだったのだろうか。一緒になって。そう言われたことが真人にたとえようもない感情の波を呼び起こした。知らず彼の胸元に手を置いていた。 「俺はお前がいい。お前じゃなきゃだめだ。お前しか要らない。――年に一度は言わされてる気がしてきたぞ、俺は」 「気のせいじゃないかな」 「どこがだよ」 ぷい、と顔をそむけてしまった夏樹の胸に真人は添った。押し当てたままの手に、彼の鼓動が伝わる。耳には彼の小さな笑い声。 「あんまり言い訳すると、疑うよ」 「いや、だからな。言い訳なんかしてない」 「ふうん、そうかな」 「俺の言葉のどこが言い訳だ」 全面的に言い訳だった、と真人は思う。が、本人が違うと言うのならばそれでいいかとも思ってしまう。つくづく彼には甘いな、と思うが。そんな甘い自分がいやではなかった。 「別に言い訳じゃないならそれでもいいけど。なんだか言えば言うだけしどろもどろって感じ。やましいことでもあるのかなぁって」 くつり、と真人は笑った。さすがにそこまで言われて夏樹は憤然とする。胸に寄り添う真人を引き剥がし、真正面からその目を見る。 からかわれているだけなのは瞬時にわかった。かといって納得できるかといえばそんなことはない。 本当は。露貴のことを冗談にできるくらい真人が気にしていないのならばそれでいい。いいことにしたほうがよいのだ、と思う。 それでも、少しだけ今日は癇に障った。確かに叔父であり友人でもある。けれど夏樹にとって彼はそれ以上に命の恩人だ。彼がいなければ自分はいま生きてはいなかった。それが嫌と言うほどわかっている。 「露貴は――」 言いかけた言葉を真人は眼差しで遮った。真摯に見上げてくる目からは、そらそうと思ってもできない。 「わかってる。たぶん、あなたが言わないことも、わかってる。露貴さんはあなたにとって本当に大事な人だ」 「だから――」 「待って、聞いて。露貴さんって、あなたの恩人でもあるんだよね」 今のいま思ったことを言い当てられた夏樹の目が丸くなる。真人は表情に浮かんだものに目を細め、うなずいた。 「あなたのこれ――」 真人の指が肩に、脇腹に足にと触れていく。傷跡の場所。真人の指は着物の上からでも易々とそれを探り当てる。 「助けてくれたのも手当てしてくれたのも、露貴さんだよね」 「あぁ……」 「わかってるんだよ、僕だってこんなこと考えたってしょうがないってわかってるんだよ。それでも、僕がしたかったなって、思う」 「お前ね――」 少しばかり呆れた声。けれど腕は再び抱き寄せてくれた。 「無茶言うなよ、生まれてたか、お前」 「さぁ、どうかな。まだかもね」 最後の傷のときには、生まれていたよ。真人は言わなかった。夏樹も数えなかった。 「露貴さんに、感謝しなきゃね」 彼が助けてくれなかったならば、今こうして同じ庭を眺めていられることもなかったのだから。 「そうだな」 口で言いつつ、真人がやはり妬いているのを感じた。面倒だとも思う。癇に障ることもある。それでもいまなお妬かれるとはやはり嬉しいものだとも、思った。 |