真人は悩んでいた。百人一首の原稿を書くときには多かれ少なかれ悩みはあるものだけれど、今回は常とは違う悩みだった。
「うーん」
 先ほどからいったい何度同じうなり声を上げたことか。さすがに夏樹も気になって真人の隣に腰を下ろす。
「どうした」
「あ、ごめん。気になったよね」
「別にそれはかまわんが……例の原稿か」
「そうなんだけど――」
 言っている間に夏樹が手元の資料を見ていた。真人とて原稿を書く間、様々な資料を手元に置くのだ。あちらを見やりこちらを見やりして夏樹は首をかしげる。
「そんなに悩むような歌か」
 在原業平の歌だった。夏樹にしてみれば、非常にわかりにくい歌で一読してすんなり頭に入る、というものではない。けれど真人だ。なにか問題があるとはとても思えなかった。
「まぁね、訳も面倒なんだけど。そっちじゃなくって」
 真人はぞんざいに資料の上に手を置いた。もう見るのも嫌だ、と体が語る。それに密やかに夏樹は笑みをこぼした。
「笑わないでよ、これでも苦労してるんだから」
「悪い。許せよ」
 詫びだ、とばかり唇を盗まれた。真人はもう少し怒って見せようと思っていたのにもかかわらず、口許が笑ってしまうのを感じる。
「まったく、あなたは」
「それで、どうしたんだ。真人」
 話を戻すぞ、と夏樹の口調が語る。どちらかと言えば篠原忍の口調、と言うところか。相談に乗ってくれる気持ちがありがたくて真人は素直に頭を下げた。
「この歌ってさ、どうしても落語が浮かんじゃって」
「……落語。なんだ、それ」
「あれ、知らないの」
 真人は意外に思う。このなんでも知っている人が、こんなことを知らないなどと。そして不意に思い出す。この人は華族の子弟だったのだと。教養は潤沢にあっても俗な娯楽は知らないのかもしれない。
「確か、千早ふるって落語だけどね」
「ほう、そんなものがあるのか。よくお前知ってたな。どんな筋なんだ」
「父親が好きだったんだよ、だからね」
 おそらくは横浜大空襲で亡くなったと思しき父の思い出に真人は肩をすくめる。とうとうどこでいつ亡くなったのかもわからないままだ。
「簡単な筋でいいかな。物を知らない男が、物知りのご隠居に何かを尋ねるっていう定番の話なんだけどね。そのご隠居って言うのも本当のことは知らない、そこまでが定番」
「そう言うものなのか、約束事、なのか」
「そこまで堅苦しくないんじゃないかな。で、男が業平の歌の意味がわからないってご隠居に聞きに行くの。生憎ご隠居も知らない。で、話を作っちゃう」
「その場でか」
「うん、即興で。ご隠居曰く、竜田川っていう人気の相撲取りがいた、と。その相撲取りが吉原の花魁に会いに行ったのよ。でもこの花魁、名を千早って言うんだけど、相撲取りが嫌い。で、竜田川はふられた、と」
「ちょっと待て」
「ん、なに」
「もしかして、それが千早ふる、の意味だなんて言わないだろうな」
「言うんだな、これが」
 からからと真人は笑う。本当ならば本職の噺家が語るのを聞いたほうがずっと面白い。こんな拙い筋ではなく、今度寄席にでも連れて行こうか、などと思ってしまう。
「じゃあ、神代もきかずってのはなんなんだよ」
「それも花魁。千早の妹分でね、神代って名前なの。姐さんが嫌いな人はあちきも嫌でありんす、とかなんとか言ってふっちゃった」
「おい、本気か」
「真面目に聞かないの、落語なんだから。で、ふられた竜田川、そりゃあ落胆して相撲取りを廃業しちゃった」
 そんな馬鹿な話があるものか、と言い出しそうだった夏樹をまだ口も開かないうちに真人は制する。
「相撲取りをやめた竜田川、実家の豆腐屋を継ぐんだな。それから数年後、おからをわけてくれませんか、と女乞食がやってくる」
「どこから出てきた、乞食は」
「いいから聞きなよ。竜田川は快くやろうかとしたんだけど、その女乞食、よくよく見ればにっくき千早じゃないか。そりゃ、怒ってね。おからは放り出す、千早は突き飛ばすの大騒ぎ。千早は井戸のそばに倒れこんで、こうなったのも自分が悪かったせいだ、と井戸に飛び込んで入水した」
「まさかと思うが、それが水くくる、なのか」
「うん」
「水くぐる、じゃねぇかよ」
「古語において、くぐるもくくるも表記は一緒だからね。そこは気にしないで」
「なぁ、真人」
「なに」
「一応、聞くけどな。最後の、『とは』はどこに行った『とは』は」
 真人は満面の笑みだった。ご隠居に尋ねた男もそう聞くのだ。くすくすと笑いつつ、夏樹を見上げる。彼のほうは渋面だったけれど。
「千早は源氏名で、じつは『とわ』が本名だったの」
 やってられるか、とばかり夏樹が資料を放り投げた。真人は腹を抱えて笑い出す。
「まったく。なんの冗談なんだよ、それは」
「だから落語だって言ってるじゃない。教養を洒落のめすのが落語の粋ってものじゃない」
 散らばった資料を集め、笑っている場合ではなかったと思い出してしまう。長い溜息をついて、これをどうしたものか、と頭を抱えたくなる。
「それ、書くわけにいかないのか」
「いくわけないじゃない。僕だって書きたいもの、みたいなものがあるんだよ。人のを読むんだったらいいけど、僕の文章には合わないし」
「言いたいことはわかる」
 あの篠原が理解してくれた、と言う嬉しさよりも篠原忍に向かって大言壮語してしまった自分、というものに思い至って真人は冷や汗を額に浮かべた。
「お前もそういうことを考えるくらい、物を書くのに馴染んだってことだな」
「馴染みたくないよ、つらいばっかだよ」
「そうなのか」
「うん、読むほうがずっと楽しい」
 特にあなたの作品を、とは続けなかった。言わなくともわかるから。夏樹は伝わった証拠に少しばかり照れていた。
「今回なんかさぁ、特にだよ。書きたくないなぁって思ってるのに、落語の話ばっかり浮かんじゃって。もうどうしようもないよ、僕は」
「それは実感としてよくわかるぞ」
 苦笑する夏樹に真人は驚く。彼にもそんな思いがあるとは思ってみたことがない。夏樹は楽しそうに書く。表情は変わらないで書いているけれど、目がきらきらとしている。締め切りに苦しんでいても、突然の仕事に苦慮していてもそれは変わらない。だから真人としては驚くより他にない。
「だってあなた、喋るよりよほど楽に書くじゃない」
「それはお前のことだろうが」
「だから、僕は――」
「違う。歌のことだ。吸う息吐く息が歌になってるんじゃないかと思うくらいすらすらと口から出てくる。あれは、すごい」
 感嘆されてしまって真人は身の置き所がなくなる。確かに歌を褒められるのは嬉しい。真人の誇りでもある。けれどそれを夏樹にされる、と言うのがたまらない。
 何しろなにを詠んでも琥珀の歌は恋歌になる。当然、相手は夏樹だ。目に見えぬ恋人だの、忍ぶ恋だの、いやいやあれは理想の女性を詠っているんだだのと言われているが、実際はすぐそばで共に暮らす男を詠っている。
「どうした、真人」
「わかっててやってるのかと思った。あなたに褒められると、ちょっと恥ずかしいの」
「あぁ……」
 やっと理解したのだろう、夏樹の口許がにやりと吊り上る。それから鼻歌でもはじめそうな目つきをする。琥珀の恋歌の内容、というものに久しぶりに思いを至したのだろう。
「よくよく考えるとけっこう恥ずかしいな」
「あ、酷いこと言うんだ。出版しろ、埋もれさせたくないって熱烈に言ったの、誰だっけね」
「いつの話だ、いつの」
 いやな顔をして見せたけれど、照れているだけだとわかっているから真人も容赦はしない。更に言い募ろうとしてふと資料に目が留まる。
「あぁ、そっか。二条の后が」
「藤原高子か」
「うん、業平って言ったらそっちが普通かなって」
 そうだろうな、と言いたげな夏樹の顔に、最初からその助言をしてくれるつもりであったことがわかる。よけいなことを言っていないで話を聞けばよかった、と真人は思う。
「落語の話し、楽しかったぞ」
 真人の顔に、夏樹はそう言った。決して言い繕っているのではなく、本心だと真人にはわかる。そのことに少し、ほっとした。
「高子姫って言ったら――」
「鬼に食われた高子姫、だな」
「だよねぇ。業平は、深窓も深窓物凄く高貴なお姫様を盗んだわけだよね」
「後の后だからな」
「それって、どんな気持ちなのかなぁ」
「……あのな、真人。どうしてそれを俺に聞くんだ」
「だって僕は平民の出だもん。高貴の方々のことなんかちっともわからなくって」
 にこり、と真人が笑う。嫌味などない笑みだからこそ、夏樹は溜息をつくだけで済ませる。
「ねぇ、どんな気持ちなの。経験、あるよね」
 溜息だけで済ませるつもりが真人を睨みつけてしまった。桜のことだ、とぴんとくる。あれは色恋ではなかったと真人も理解しているはずなのだが。
「ね、夏樹」
 他愛ない雑談なのだから言ってしまえ。なぜかそう言われているような気がした。言えば言ったで後から怒るくせに、とは口が裂けても夏樹は言わないが。
「……逃げたかっただけだな。その人が、酷く傷ついたから。全部はじめからやり直して、誰もいないところに逃げたかった」
 そっぽを向いて言われた言葉に真人は胸がつまり――かけて首をひねる。
「ちょっと、夏樹。それって僕のことじゃない。どこがお姫様の話なの」
「知るか、馬鹿」
 ふん、と鼻を鳴らして夏樹は座を立つ。よもや夏樹は自分を高貴の姫のように繊細優美なものだとでも思っているのではないか、と一瞬疑って真人はすぐさまその思いを笑い飛ばした。




モドル