夏樹が原稿の手を止めてぼんやりと庭を見ているのに、真人は後ろからそっと声をかけた。自分も原稿の手を止めて。 「ねぇ、夏樹」 いい風が吹いていた。どことなく色めいて見えるような、そんな気がしたのはきっと書いていたもののせいだ、と真人は思う。 「どうした」 振り返り様、手招きしてくれた。真人は嬉しげに茶の支度をする。考え事をしているのかもしれない、と思ったのが裏切られて嬉しい。 「それで」 彼好みのぬるい茶を飲み、夏樹は仄かに口許だけで笑む。いつもの味、いつもの温度。そんなものが彼を殊の外に喜ばせる。 「いま、春道列樹の歌をやってたんだけど……」 「あぁ、あの役者みたいな」 「え。なにそれ」 「なんだか売れない役者みたいな名前だと思わないか」 どういう覚え方をしているのだか、と真人は笑ってしまう。だが確かに言われてみればそのような気もしてしまう。 「もう。列樹の名前を見るたびに思い出しちゃうじゃない、それ」 言えば夏樹がにやりとした。今日はずいぶん機嫌がいいらしい。ならば、と話を続けてしまう。ほんの少し、息抜きを共にしたかっただけなのだけれど。 「志賀寺参りの道ってどこだったんだろうねぇ」 夏樹はうっとりと呟く真人の顔を横目に映していた。調べればわかるのかもしれない。それでも真人は調べないだろうし、彼もまた勧めなかった。真人にとってそれはたぶん、夢なのだ。現実のどこかではなく、遠い過去と言う名の夢。それならば夏樹にも覚えがある。 「なんだか行ってみたいなって、ね。思って」 「志賀寺か……。近江のほうだったよな、確か」 「うん、確かそうだったと思う。違ったかな」 途端に覚束なくなってしまった真人の表情に夏樹は口許を緩め、子供にするよう彼の頭に手を置いた。今は実家に戻った春真の髪より手に心地良い、と夏樹が思うのは間違いなく惚れた欲目というものだろう。 「近江、行ったな」 取材旅行と言うか趣味の旅と言うか。二人で何日かあちらのほうをまわったことがあった。ほんの二三年前のことだ。 「あのときは、心配だったんだよ」 「ん、なにがだ」 「ハル。置いていったからね」 あぁ、ともなんともつかない声を夏樹があげた。すっかり忘れていたらしい。真人はそんな彼をそっと悪戯半分睨みあげる。 「怒るな」 「だって」 「心配、してなかったわけじゃないぞ」 「嘘。忘れてたくせに」 「そりゃ、お前と二人だったことのほうが遥かに印象的だったからな」 そう言われてしまえば真人に返す言葉はない。言葉に詰まったのに夏樹が小さく笑う。 もっとも、置いていったと言ってもこの家に一人きりで残して行ったわけでは当然、ない。いくら留守番ができる年だと言っても数日に及ぶ留守ではさすがにためらう。 「喜んでたよな」 思い出したのだろう、ふ、と夏樹の口許に笑みがのぼる。嬉しいけれど真人は多少、複雑な思いでもいる。 「そうだね、本当はお爺様だもんね、露貴さん」 夏樹と親しく、そして春真のことも可愛がってくれる「露貴おじさん」のところに春真はお泊りに行ったのだった。ずいぶん年上の露貴の息子、勇人も春真と遊んでくれたらしい。帰ってきてから聞けば春真は帰りたくないとごねたそうだから、真人はそれも嬉しく思った。もちろん、寂しいような気はした。けれど露貴のために真人は喜ぶ。決して口にはできない孫を手元に置いた露貴はいったいどんな気持ちでいたのだろうか。 「本当のことは言わないがな。露貴は本心から嬉しがってたと俺は思ってる」 「夏樹……」 「あの野郎、うるさいだの子供は面倒だの口では散々に言ってたがな、春真に聞いて俺は笑ったよ」 「なに言ってたの、僕は知らないな」 「欲しいおもちゃはないのかだの、なにを食いたいかだの、相当に甘やかしたらしいからな」 「……露貴さんが」 呆然とする、とはこういうことだろうと真人は思った。昔から孫は子より可愛いもの、目に入れても痛くないもの、と言う。だが、あの、露貴が、か。信じられなくて、戸惑う。 「あれで意外と子煩悩――」 「嘘でしょ、夏樹」 「当たり前だ。我が子に目を細めてあやしてる露貴なんて想像できるか」 「……だよね」 実は少しだけ想像してしまった。思い切り頭を振りたくなる。それで妄想が飛んで行ってくれればありがたいのだけれど。夏樹を見れば作家の心は真人などより更に鮮明に描いてしまったらしい。少しばかり顔色が悪かった。 「子煩悩はたちの悪い冗談にしても、春真のことは可愛がったみたいだぞ」 「それもなんだか冗談みたいなんだけどねぇ」 事実、この家に来るときには春真をからかいこそすれ、可愛がる、と言う現象からは程遠い。どこをどうひねっても想像がつかない。 「照れ屋なのかなぁ、露貴さん」 そんなところだろう、と言った夏樹の言葉が真人には聞こえているようで聞こえていなかった。思い当たった。 露貴がこの家で端然とする理由。この家で、ではない夏樹の前で、だと真人は思いなおす。格好を付けていたいのだとわかった。そこまで言っては言いすぎかもしれない。けれどさほど間違ってはいない気がした。自分だとて、夏樹の前ではいい格好がしたくもある。あまりに側近くにいすぎて中々そうはできないだけだ。 「ね、夏樹」 だから真人が気づいたことなど夏樹はとっくにわかっている。ならば話をそらすにしくはない。 「あのときさ、天橋立みたいねって言ったの、覚えてる」 「あぁ、覚えてる」 「今度、行こうよ」 「秋にか」 「え……なんで」 もちろん真人は秋の旅を望んでいた。天の橋立を秋に訪れたならばいったいどれほど素晴らしいだろうか。思うだけで陶然とする。 「元の話、お前。覚えてるのか」 からかうよう言われ、ついでとばかり頬を指先でつつかれた。それではたと思い出す。物忘れの激しさにぽ、と頬に血の色が上る。 「そっか、列樹の歌の話してたんだっけ」 「大丈夫か、お前。疲れてたり――」 「しないから。平気だから。よしてよ、ここぞとばかりに心配するの」 「そりゃあ、なぁ。四六時中言われてる身としてはたまに機会があれば言ってみたくもなるというものだ」 ふん、と鼻を鳴らすけれど機嫌はいいのだろう、目だけが笑っている。夏樹のそんな表情が真人はとても好きで、だから勝てないと思ってしまう。勝ちたいのかどうかすらわからない。むしろ負けることが楽しいとも。 「そう言うのなんて言うか知ってるよね、夏樹」 「古来から鬼の首を取ったような、と表現するな」 「わかってるならしないでよ、もう」 「なにを言ってる。わかってるから、するんじゃないか」 にやにやとする夏樹に真人は肩先をそっとぶつける。ぶつけるふりだけをして、寄り添う。夏樹はほんのりとした笑みを浮かべて肩を抱いた。 「行くか、秋になったら」 「いいの、あなた――」 「夏の疲れも取れているだろうし、気候がよくなれば食も進む」 「そうじゃなくて」 ただでさえ人嫌いなのに、と真人は思うのだ。観光に絶好の時期だ。人があふれかえっているかもしれない。それを夏樹は忘れているのではないだろうか。 「まぁ、たまにはいいだろうさ」 肩をすくめたのが体に伝わってくる。真人はそっと目を閉じて、秋の光景を思い描く。 「冬がいいな」 「ん、なぜだ」 呟くというには、喜びの多分に含まれた声だった。夏樹は意外に思い彼の顔を覗き込む。軽く瞑目したまま真人は微笑んでいた。 「あなたに、冬の橋立を見てほしいなって、思って」 「別に……俺は、かまわんが」 「それでね、夏樹」 ふ、と真人が顔を上げた。そこには満足そうな笑み。つられるように夏樹も笑みを浮かべる。琥珀の名の由来とした色の目に自分の目もまた映っているのだな、などと若いことを考えた自分を内心でおかしく思いつつ。 「書いてよ、あなたが。秋の天橋立を、あなたの筆で描いて見せてよ」 「真人……」 「きっと僕にはそのほうが何倍も美しい。本物の橋立より、あなたの見せてくれるもののほうがずっときれいに決まってる。だったら、そのほうが嬉しいじゃない」 なんということを言うのか、と夏樹は言葉をしばし返せないでいる。こんなに嬉しいことがあるだろうか。作家として、これほどの思いを向けてくれる読者がいる。涙腺が緩みそうで、困った。 「え、あ。夏樹。ごめん、厚かましいよね、あなたにそんなこと言うなんて――」 「違う、馬鹿。気にするな」 「するに決まってるじゃない。ごめんなさい――」 「違う。違うから、真人」 真人の肩に顔を埋めた。こんなことで涙が出るというのは年だろうかなどと考えつつ。年を取ると妙なことで涙脆くなるというが、自分もそうなのか、など。そんなことでも考えてなければ、いつまでも涙が止まらなかったに違いない。 「俺は、幸せ者だな、と思った。それだけだ」 お前が何か悪いことをしたのではない。やっとのことでそれだけを言えば、真人の体から強張りが抜ける。 「……よかった」 ただそれだけの言葉でも真人には真意が通じたのを感じる。それにもまた、涙が出そうで夏樹は慌てて彼から離れた。 「どうしたの」 「いや、なんでも――」 「ないって顔、してないから聞いてるの。ねぇ、夏樹。どうしたの。心配になる」 心の底から案じている顔。そのときの夏樹は本心からありがたく思った。こんな風に気にかけてくれる人がいるというのはなんと幸福なことかと。 が、数日経って気づく。もしかしたらあれは戯れに心配して見せた自分への報復だったのではないか、と。真人はしれっとそんなことをする男でもある。 |