月違いの命日ではあるが、真人は夏樹の父の墓前にいた。ここには彼の母も入っているのだが、なぜか夏樹の父の墓、と思ってしまう。 夏樹によれば父は水仙を好んだ、とのこと。とはいえ時期違いに水仙の花があるわけもなく、真人は当たり前の菊の花を持ってきただけだった。 墓前に手をあわせ、線香の煙のたなびく中で瞑目する。けれどなにを祈るべきかはわからなかった。そもそも自分が墓前に参るのは正しいことなのか。 「ご子息の名代で参りました」 よほどのことがなければ墓参りになどこない人だ。冬樹がきちんとしているとはいえ、たまには顔のひとつも見せてあげればいいのに、と真人は思う。 「死んだ人間になにを言う」 見せるもなにもない。夏樹はそう言う。しかし真人はその言葉の裏にあるものを嗅ぎ取ってもいた。 「ここには――」 さすがに父親に向かって、あなたの妻が眠っているから息子はこない、とは言いがたい。だから心の中でそっと頭を下げる。 彼の父もまたつらい恋をした人だから。きっとそれでわかってくれることだろう。 それを思えば生前にお目にかかりたかった、と真人は思うのだ。母に虐げられ続けた息子がやっと掴んだ幸福の姿を、愛薄かった父に、それでも愛のあった父に見せたかった。 真人の実家の墓は、寺に返してしまった。母が眠っていた墓だけれど、もう継ぐ人間はいない。自分が子を持つことがないのだから、元気な間に母のその後を僧侶に頼んでおきたかったのだ。いま真人の母は寺の納骨堂で供養されている。父も共にそこにいる。が、父は骸どころか生死すら不明のままだ。おそらく死んだ、と聞いているだけであって確かなことは誰も知らない。 「父さん――」 もしも父がいまの自分の姿を見たならば、何と言うだろうか。雷を落とすだろうか。勘当するだろうか。いずれ良い想像はできない。それでも最後は納得してくれる、そんな気がしないでもない。 だからこそよけいに、夏樹の父には会いたかった。ほんの少しでもいい。仮初でもいい。夏樹を祝福して欲しかった。 線香が消えるまで、真人はただそこにいた。自分の両親と、夏樹の父を思う。追憶の時間を持つことこそ、墓参だ、と真人は思う。 ふと気づいた。過去を見たくなどないから、夏樹は来ないのかと。彼にとって、家にまつわる記憶は常に苦いものなのだから。 「あれ――」 声に真人は振り返る。その顔に笑みが浮かんだ。 「冬樹君もお墓参りかな」 「えぇ。来てたんですか、いつも、だったりしますか」 「毎月ってわけじゃないよ。時間があればってところ。夏樹の代わりなんだけど、無精だね」 「兄さんは誘っても絶対こないから」 ありがたいですよ、きっと父も喜んでると思います。冬樹は花を手向けつつそう言った。 「ねぇ、冬樹君。本当にそう思う」 「え――。思いますよ、当然でしょう」 「でも――」 「僕が墓参にこれないときには、妻がきます。兄さんがこないから真人さんがきてくれる。何か違いますか」 実に真剣そのものの顔で言われてしまった。そこまで言われてしまっては真人としても納得せざるを得ない。ありがたくて、少しうつむいた。 墓参を終えた冬樹と並んで歩く。どことなく気恥ずかしかった。冬樹も似たようなものなのだろう、お互いに口数が少ない。 「兄さん、元気ですか」 だから冬樹はめったに聞かないようなことを尋ねる。真人はふっと口許で笑って冬樹を横目で見やった。 「買い食いするくらいだから、元気なんじゃないのかな」 「なんですか、買い食いですって。あの兄さんが」 呆然とする冬樹に真人は笑い声を上げる。冬樹はいったいどのような目で兄を見ているのだろうかと思えば口許が緩んで緩んで仕方ない。 「ほんと、ご飯の前に買い食いはやめてって言ってるのに。この前もお団子買ってきて食べてたよ」 「兄さんが、ねぇ」 「近所の和菓子屋がお気に入りでね。そんなもの食べちゃったらご飯が食べられないのにね」 どことなく茶化して言う真人につられたよう、冬樹が笑った。それから段々と実感がわいてきたのだろう、次第に声が高くなる。 「困った人だなぁ、兄さんは」 「本当にね。今度こそ愛想尽かしてやるって何度思ったことか」 「おやおや、そんなことを思ったことがあるんですか」 あるわけがない。けれど真人は思わせぶりな目つきのまま冬樹を見やる。 「いつか突然、雪桜さんが真面目な顔してお話があります、とか言い出すかもよ」 「う。それは勘弁して欲しいですね」 照れて頬をかく冬樹は、だから幸福なのだと真人は思う。同じような顔を自分もしているのだと思う。自分をうっかり妻になぞらえてしまったのが多少、悔しくはあるが。 「そう言えば……」 「はい、なんでしょう」 矢継ぎ早の勢いで冬樹が返事をする。真人はからからと声をあげて笑った。よほど居心地の悪い話題だったらしい。 「剣持家のお墓って、いま面倒見てるの、誰なの」 「あぁ、あそこは――」 言いかけて冬樹が少しばかり言葉を濁した。真人はわからないなら気にしないで、と笑って見せる。違うことをわかっていたけれど、冬樹が言いにくいことを聞こうとは思わない。 「いえ、そうではなくて。血縁が、絶えたようで」 「え、そうなの」 「露貴さんが墓守を買って出たそうですよ」 そう冬樹は不思議そうに言った。真人にはぴんと来る。露貴にとって剣持家は確かに母方の親類だ。だがそんなものは彼にとって関係はない。ただ夏樹のためにしたことだ、とわかってしまった。苦いのか嬉しいのかわからない思いを隠したくて真人は首を振る。 「剣持の人たちは、どうしたの」 「戦争でほとんどやられたらしいです。華族の子弟は軍役につく義務があったじゃないですか、それで」 「そっか……。ん、あれ」 「わかります。兄さん、どうしてたんでしょうね」 真人の想像を追いかけるよう、冬樹が言った。確か戦中、夏樹は教職にあったはずだ。戦地に行っていないどころか、軍役そのものについていない。 「勘当同然って言ってたから、それでかな」 「かもしれませんね」 「……よかったよ、行かなくて。そんなこと、あのころは言えなかったけどね」 そこまで言って真人は気づく。気安く話しているし、冬樹は「兄の伴侶」と思っているせいか丁寧に接してくれる。そのせいで忘れていた。冬樹のほうが年上だ。ということは、つまり。 「冬樹君は――」 「呉で、出撃を待ってましたよ。一日違いで、出撃するところでした」 「それは……」 単純によかったね、とは言えなかった。一日違いで死んでいった仲間が冬樹にもいる。 「真人さんは、陸軍幼年学校でしたっけね」 「うん。だからやっぱり戦地には行ってない」 「いまでも、仲間と親しくしてますか」 冬樹の声には、自分はどうしてもそうはできないのだ、との響きがあった。真人も黙って首を振る。なにを言えただろう。 「もう、よしましょうか、この話は」 ふ、と冬樹が笑った。まったく容貌の似ていない兄弟なのに、笑い方は不思議とよく似ていた。冬樹のほうがずっと大らかだったけれど。 「そうだ、春真がこの前、作文で一番を取ってきましたよ」 「え、そうなの。夏樹に教えてあげよう、喜ぶよ」 「それはどうかなぁ。そうそう、一番を取った、なんて言ってしまったものだから、この前はすっかり怒らせてしまって。もう子供じゃないんだ、なんて一人前に」 「なにを言ってるんだかねぇ、子供なのに」 「大きくなりましたよ、でも」 「違うよ、冬樹君。幾つになろうとも、ハルが厳つい大男になったって冬樹君の息子じゃない。親にしてみれば四十男だって子供だよ」 「あぁ……」 そう冬樹は溜息のような声を漏らした。足を止め、じっと真人を見つめている。それからゆっくりと頭を下げた。 「え、なに。冬樹君、どうしたの」 戸惑う真人になおも冬樹を頭を上げない。真人が肩に手をかけてはじめて、目を上げた。 「感謝します、真人さん」 「なに、急に。どうしたって言うの、ほんとに」 「春真が、どうしてあれほどまっすぐ育ったのか、いま、わかりました」 「僕は何もしてない。礼なら夏樹に言って。ハルの伯父様なのは夏樹だよ」 「違います」 きっぱりと言って冬樹はようやく体を起こした。真人の手をとり、押し抱かんばかりに拝む。 「真人さんです。真人さんが、春真を育ててくださった。家に置いた春樹より、ずっと礼儀正しい。子供らしくないというわけでもないのに。親に甘えてみせることもあれば、拗ねることもある。そうできるくらい真っ直ぐ育ててくださったのは、真人さんだ」 違う、とは言い募れなくなってしまった。照れくさくなったのだ、とでも言うようそっと手を引き抜く。 本当は、違うことを考えていた。春真がまた、頑張っている、と。産みの親でも離れていた冬樹だ。春真の心の襞までわかるわけではないのかもしれない。 ごく当たり前の普通の子。離れて育ったけれど、屈託のない明るい子。きちんとしたいい子。春真がそう演じているのが真人には如実にわかる。 帰っておいで、とはけれど言えない。でも、そんなに頑張らなくっていい、ぐらいは言ってやれる。今度会ったときに、一緒に歩こう、真人はそう決める。 歩いているうちに、自分の心の内を春真は話すだろう。話したければ。真人には黙って聞いてやることくらいしかできない。 「僕も、冬樹君にお礼を」 「え、なんですか」 「夏樹に、家族をくれたこと」 「あ――」 「ハルを預けてくれて、ありがとう。いままで言う機会が無かったね。夏樹、あれでハルを可愛がってたんだよ。不器用で見てられないやり方だったけどね」 くつくつと真人は笑った。冬樹は感に堪えないよう天を仰ぐ。もしかしたら涙ぐんだのかもしれない。幸薄い兄が、ようやく当たり前に幸福なのだと理解して。 「ハルを家に帰すときには、僕に向かってさ、これでやっと二人きりだ、なんて憎まれ口叩いてたけどね」 そんなことを言う兄なのか、と驚く冬樹に真人は内緒だよ、と笑って見せた。気づけば冬樹もまた、いつの間にか満面に笑みを浮かべていた。 |