篠原忍は自宅に編集者がくるのを好まない。おかげで水野琥珀も原稿を会社まで持参する羽目になる。否が応でも篠原が家にいるのだから致し方ない。
「毎度申し訳ないですねぇ」
 琥珀付きの編集者はそう言って眉を下げる。真人としてはできることならば郵送したい、それはもう篠原のよう郵送できれば、と思うのだ。
 だがいかんせん、琥珀にとって文章を書く、と言うのは本業ではない。毎回毎回、ほぼ常に締め切りぎりぎりだ。郵送していたらとてもではないが間に合わない。
「いえ、かえって申し訳ないのはこちらですよ」
 篠原がいるから変に気を使わねばならないのは編集だ、と真人は言う。本心ではなかったけれど、きてもらえれば助かるのもまた一面の事実ではある。
「最近は篠原先生、いかがですか」
「いかが、とは――」
「あ、いえいえ。お元気かなぁ、と」
 それで真人は思い出す。この編集者は以前、篠原の原稿を預かったことがあるはずだった。
「元気ですが、相変わらずですよ」
「と言うことは、ますます人嫌いに、ですか」
「ますますと言うこともないでしょうが、このところは人がくるだけでいやな顔をしますから」
 それでは前より酷い、と言いたいのか編集者は顔を顰めた。真人としてはそうでもない、と思っている。酷くなったのではなく、自分が慣れただけかもしれないが。
「では、ちょっと言いにくいんですけどねぇ」
 ぼそぼそと言いつつ、編集者が背後に隠していたものを取り出す。椅子の背と自分の背中の間に隠していたのかと思えば真人は半ば呆れてしまう。
「なんです、それ」
 実は尋ねなくとも見当がついた。立派な表紙のついた薄手の冊子、など見たくもない。
「そりゃあ、見合い写真に決まってますとも」
 どうしてこれほど自信たっぷりに言えるのだろうかと真人は不思議でならなかった。そもそも話の筋が見えない。なぜここで見合い写真が出てくる。
「篠原先生にですね、お似合いのお嬢さんがいらっしゃって。先方からも是非に、と」
 嬉々として編集者は写真を開いて見せる。振袖姿の美しい女性だった。他にも平素のスナップ写真と思しきものも添えられている。
「ほらほら見てくださいよ、きれいなお嬢さんでしょう。それに運動も得意でらして。テニスがお好きらしいですよ」
 なんとも平凡な見合い写真だな、などと真人は他人事だ。否々、まぎれもなく他人事だ。とにかく、外面的にはまったく他人事だ。
「お花が趣味で、華道の免状も持ってらっしゃる。もちろんお料理も上手なんですって」
 真人はなぜどうして自分がこんなことに巻き込まれてしまったのか、呆然としていた。どう考えても篠原忍の見合いをこちらに持ってくるのは間違っているだろう。
「僕は篠原の家族ではありませんが――」
「ですが、ご同居ですから。ご家族同然と言ってもいいでしょう」
 ほんの少し口調に篠原を悼む色があった。どうやらこの編集者、篠原忍は天涯孤独、と思い込んでいるらしい。横浜に立派な弟家族がいますが、と言いたい真人は悩む。
「いつまでも独身でいらっしゃるなんて、世間の誤解を受けますよ」
「え――」
「ほら、よく言うじゃないですか。病気だったりするのか、なんて」
 主に「病気」は下半身方面のことだろう、とわかって真人は安心した。世間的に明かせる仲ではない、その思いが真人の心に冷や汗を浮かばせていたなど編集者は知りもしない。あまりに焦らせられたおかげで真人の腹が決まった。
「こんな若いお嬢さんを五十すぎた男に添わせるなんて、惨いことをお考えになるものですよ」
「いやいや、とんでもない。篠原先生は若くお見えになりますし、なんといっても美男におわす」
 それでは鎌倉の大仏だ、と真人は内心で編集者を罵る。いまのいままで焦っているだけだったが、むしろ、腹が立ってきた。真人は悠然と微笑む。
「ところでこのお嬢さん、胃は丈夫ですか」
「胃。胃、ですか、胃」
「えぇ、内臓の、胃」
 にこにことする真人に編集者は何も感じないのだろうか。夏樹ならばとっくに言い訳のひとつでもするか散歩にでも行く頃合だ。
「それは、いったい……」
「篠原さんと顔をつき合わせて暮らすには丈夫な、いえ、頑丈な、いえ、頑健極まりない胃が必要ですよ」
「いやいや、水野先生にはそうでも」
 そこはそれ、男と女のことなのだから違うだろう、と言いかけた編集者の前で真人が微笑んでいた。
「性の差で態度を変えるような方ならば、編集の方々がこんな苦労をなさっているとは思えませんけどね」
 当然の言に編集者がう、と言葉に詰まる。真人はからりと笑って出された茶を飲んだ。家のものより渋くて、なのに薄い。
「ちなみに、胃の丈夫さと言うのは、いったい」
「では一例を挙げましょうか」
「ぜひ」
 勢い込んで身を乗り出す。真人はどうやら編集者自身にも何か関わりのある女性なのではないか、と疑いはじめた。
「朝は苦手なので、起こすと怒られます。が、締め切りからだいたい予想して、起こさないと今度は怒られます」
「……理不尽、では」
「見ていればわかることですけどね。忙しそうなときには起こせばいいんです」
 その差を理解できれば、だが。一朝一夕にできることではないし、篠原忍と言う男の顔色を窺うのは難事中の難事でもある。
「食べるものひとつとっても食の細い人ですから、気を使いますよ。出せば黙って食べてはくれますが、下手なものを食べさせると体調を崩しますし」
「うわ」
「おまけに崩した体調を看護するのはこちらの仕事です。仕事があれば体がつらくとも仕事をしますしね」
「……作家の鑑と言うよりは」
「仕事馬鹿ですよ」
 本来ならば、水野琥珀程度の歌人があの篠原忍に対して言い得る言葉ではない。が、いまは篠原の家裡を預かる者として話している。多少の暴言は許されよう。
「篠原さんが、取材旅行に行きたがらない理由、ご存知ですか」
「いえ、寡聞にして」
 そこまで謙ることではないはずが、編集者は予想以上の篠原の偏屈さに萎縮してしまったらしい。
「茶の味が違うからいやなんだそうです」
「茶。茶ですか、茶」
「えぇ、うちで飲むものと味が違うんですって」
「いや枕が違って眠れないからいやだって話はよく聞きますけどねぇ」
「篠原さんの生活のほんの一部ですけど、これで見合いをしろなんて僕ならどんなお嬢さんにだって言えないですよ」
 あんまりにも惨くって。笑って真人は言ったけれど本心ではこの会社になど二度と書きたくないくらい苛立っている。理不尽は承知の上。けれどこの自分に夏樹の見合いを持ってくるなど論外だ。
「ですがねぇ、私もお預かりしちゃったもので」
 だがそう言われるとなんだか申し訳ない気持ちにもなってしまう。夏樹ならば人がよすぎると笑うだろう。わかっていてもどうしようもなかった。
「一応、こんなお話がありますよ、とは伝えておきますけど」
「あ、でしたら」
 一瞬で喜色に染まって見合い写真を袋に入れようとする。それを真人は慌てて手で制した。
「よしてください。伝えるだけです。持って帰ったらこちらが雷を落とされます。いや――」
「水野先生、どうされました」
「想像しちゃっただけです。雷なんかじゃ済まないですよ、きっと。一週間や十日、ろくに口もきかないでまともに食べもしないでいるでしょうよ。抱えている原稿そっちのけで、怒りますよ、絶対に」
 そこで真人はおっとりと首をかしげて見せる。多少は自分がどう見えるか、と言うことを理解している真人だ。ここぞと言うときに使わない手はない。
「あぁ、そういえば。いま書いてるのって、お宅の原稿でしたよね」
 ならば落ちても問題ないか、と真人は笑った。編集者は顔面蒼白でぶんぶんと首を振る。進退伺いをしなければならないほどの大問題になるに決まっている。
「見合い写真なんか持って行ったら、今後二度と原稿はいただけないでしょうねぇ」
「なにを馬鹿な」
「え、違いますか。よかったなぁ」
「勘違いですよ。いまこちらで出している本だって引き上げかねないくらい怒りますよ」
 進退伺いどころではない。間違いなく馘首だ。ありありと想像できてしまった編集者がそうっと見合い写真を引っ込めた。
「まぁ、一応は話しておきますよ」
「やめてください、私が悪うございました。水野先生」
 最後は悲鳴じみていた。真人はだから軽く手をふって見せる。
「お忘れですか。僕は篠原の家族ではないんです。勝手に見合いさせる権限もなければ、僕の意で断る権利もないんです」
 夏樹ならばお前の一存以上に大事なものがどこにある、くらいは言いかねない。殊にこの問題では。だが真人はそれでは困るのだ。自分が断る理由が、外面的な理由が何もないのだから。
 編集部を後にして、真人は心楽しまずにいる。当然、かもしれない。改めて自分たちが世に容れられた仲ではないのだと見せつけられてしまう。
「まぁね、わかってるけど」
 ぽつりと独り言を口にしてしまって、赤面した。まだ往来だった。一度気持ちを切り替えて、夏樹の好物を買って帰る。
 彼の好きな近所の肉屋のコロッケ。ほかほかと手にまだ温かいそれにようやく真人の気持ちもほぐれた。そしてそんなものにほぐれる自分の心と言うものを笑うのだった。
「ただいま」
 だが、振り返った夏樹が眉を顰めた。珍しく立って寄ってくる。それから顔を覗き込んで額に手を当てた。
「ちょっと夏樹。なにするの」
「いや……大丈夫か。顔色がよくない」
「そう、かな」
「熱はないみたいだが。風邪でももらってきたか」
 真剣に案じてくれる目の色に真人はほんのりと笑った。ほぐれた、と自分では思っていたはずなのに彼の目には異変と映る。それが心地良かった。
「まだ機嫌がよくないだけ、なのかな。自分でもわからないけど。もう普通だと思ってたんだけどな」
「なにがあった」
 即座に夏樹が言う。肩まで掴んで揺すぶりかねないその剣幕。真人は本当のことを言うか言わぬか迷ってしまう。言えばあの会社は篠原の怒りをこうむるだろう。言わねば夏樹は真人を案じて落ち込むだろう。両方とも理解できる真人は、自分にとって被害の少ないほうを選ぶことに決めて笑った。




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