ふらりと冬樹が遊びに来た。さほど頻繁に行き来しているわけではないせいで夏樹は少しばかり目を丸くしていた。 「どうした」 第一声からして、それだった。心配しているのか意外なのか、ちっともわからない。真人は冬樹に茶を淹れつつ笑ってしまう。 「酷いお兄様もいたものだよ」 くすくすと笑う真人に夏樹は顰め面を向ける。よほど心外だ、と目は語っているけれど、真人と夏樹とどちらが正しいかは一目瞭然。 「ね、冬樹君」 双方で顔を見合わせて笑みを交わすものだから、夏樹はむつりとしたまま茶を口に運ぶよりない。いつもより多少、熱い気がした。けれどこれを言えばまたひとくさり笑われる、そんな気がして夏樹は黙る。 「あ、夏樹。ごめん。そっち、あなたのじゃなかった」 自分の茶を飲んでみてずいぶんとぬるいことに真人は気づく。慌てて湯飲みを取り替えたのに冬樹が笑みをこぼした。 「仲、いいですね」 ぽつりとした言葉だけに真情が伝わってくるようで、真人は思わず赤面した。だが夏樹は。 「本当に、どうした。雪桜と喧嘩をしたか」 「えぇ……まぁ……」 「冬樹」 たった一言で夏樹は促す。こんな頼りない男でも、冬樹にとっては兄なのか、と真人は新鮮な思いでいた。 兄弟と言うものはいいな、と思ってしまう。自分には兄も弟もいない。だから羨ましく思うのだが、夏樹に言わせればどうだろうか。 冬樹はかつて幼かった兄を、自らは更に幼くあったのに守り続けた、と言う。それも母の害意からだと言うのだから血が凍るような話だ。 だから母さえいなければ兄弟仲はよかったのだ、とも言った。けれど。露貴を見ろ、とも言った。異腹の桜とは親しい以上の仲ではあった。だがそのせいで他の兄弟とは縁を切られたも同然。血が近いからこそ憎悪も激しくなる、夏樹はそうも言った。 「志津のことですよ」 兄の促しにもしばしの間無言だった冬樹がそっと言う。夏樹は黙って茶を飲んでいた。聞いていないようで聞いている。そのほうが話しやすいだろう、と。 「雪桜は少し志津に厳しすぎる、そんな気がして」 病身の愛娘を案じる父がそこにいた。三人の子のうち、娘は志津一人。そのぶん、父の愛は一心に志津に注がれているといっても過言ではない。むしろ、息子には厳しく相対するのが父の愛、とも言えるだろう。だから結局のところ冬樹は三人の子を等分に慈しんでいるのかもしれない。 そう思って真人は内心で冷や汗をかく。自分はどうであったか。春真をただひたすらに溺愛しただけではなかったのか。彼の将来、そのことが影を落とさねばよいのだが、とまで思ってしまう。確かに父の愛を冬樹のように、と規定したとき、春真に対してそうしたのは夏樹だった。ならば自分は、と思っても至らなかった、としか真人は思えなかった。 「まだ幼いのです。もっと時間をかけて、ゆっくり接してもいいと、思うんです」 「雪桜は」 「――甘やかすのは、よくないのだと。志津のために、病気だから、などと言うのは言い訳だと」 夏樹は腕組みをして弟を見ていた。少しばかり考えたあと、隣へと眼差しを向ける。 「え、僕に聞くの。……僕は、どっちも一理ある、と思うけど」 「だな。まぁ、実際に志津子のそばで暮らしてるわけではないからな、一概にどちらが正しいとは言い切れんだけだがな」 「だよね。冬樹君も雪桜さんも、娘が可愛いのは、一緒なんじゃないかな」 真人の言葉にはっとしたよう冬樹が顔を上げた。驚愕の表情に、真人のほうこそ驚いてしまう。小さく仰け反ったのを夏樹が密やかに笑った。 「そうか……そうですよね。志津が、可愛いのは一緒、か」 「大丈夫か、冬樹」 「なにがです」 「そんなこともわからなくなるほど、大変か」 「えぇ、まぁ」 さらりと冬樹は返答を返した。けれど真人はぎょっとする。夏樹の言葉は流れるような声音であったけれど、意味となれば重いものだ。冬樹は夏樹の意を汲んでいない。まるでわかっていない。それほど疲れているか、と思えば案じられてならなかった。 「もし――」 「真人」 「あ――。ごめんなさい」 真人が口を出そうとしたことを悟った夏樹が制した。冬樹はきょとんとして二人を見やる。首をかしげる仕種がやはり親子だな、と真人は春真を思った。 「兄さん、なんですか。言ってください」 兄が何に気づいて、何を言わせまいとしたのか。眼差しの強さに真人は微笑ましくなる。冬樹は春真の父であり、夏樹の弟なのだとしみじみと感じた。 「真人の我が儘さ、ただの」 「なんですか、それは。いいでしょう、聞かせてくれるくらい」 「言えばお前は乗りかねない。どっちにとってもいいことじゃない。だから、言わん」 そこまで言われて気づけないほど冬樹も愚かではなかった。春真か、と思う。大変ならばまた春真をこちらに寄越してくれても一向に構わない、真人はそう言おうとしたのかと。 ありがたかった。真人の心遣いがありがたかった。理解した証とばかり冬樹は黙って頭を下げる。 けれど、春真を一人、また手放すわけにはいかなかった。幼いころならばいざ知らず。いまは春真も一人で自分のことができる。ならば、兄弟とともに親元で暮らすべきだ。離れて育っても、よいことはない。それを少なくとも自分たち兄弟はよくよく理解している。 兄とは、屋敷内で離して育てられた。それでも仲良く溝もできずに兄弟としてあれるのは奇跡のようなものだと冬樹は知っている。冬樹は兄が好きだったし、兄も冬樹を羨むことがなかった。 それを我が子に強いることはできない。離れて育てば育つだけ、兄弟の間に溝ができかねない。冬樹も雪桜もそれを恐れていた。 「ねぇ、夏樹。双子が二三日遊びに来るくらいなら、いいんじゃないかな」 「それならばなんの問題もないな」 「兄さん……真人さん」 たまには羽を伸ばせ、と言ってくれる兄たちがありがたくて冬樹は目頭を熱くする。繊細で常に張り詰めていた兄が、悠然とした顔をするようになったのはひとえに真人のおかげだと冬樹は思う。もう一度、今度はその意もこめて頭を下げた。 「よしてよ、冬樹君。僕は双子に会いたいだけだよ、夏樹が言ってたじゃない」 「そのとおり。気にすることはない」 「まったく……兄さんたちは。本当に仲がいい。喧嘩したりとか、しないんですか」 「するに決まってるじゃない。ねぇ、夏樹」 馬鹿なことを言うなとばかりの真人の声に渋い顔をしたのは夏樹。あまりの渋面に冬樹はつい吹き出してしまった。 「喧嘩、と言うより一方的に俺が怒られている気がするのは、気のせいか」 「誰が悪いの」 「まぁ、俺か」 「そう思うんだったら、問題ないんじゃないかな」 にこりと真人が笑う。夏樹の目も和んでいる。だからおそらく実情は違うのだろう、と冬樹は思う。兄はこんなに幸福でいる、それを真人なりに見せてくれようとする心遣いなのだろう。 「よく同業の夫婦はうまくいかないとか、言いますけどね」 「別に同業じゃないからな」 「そもそも夫婦でもないしね」 「……意外と酷いこと言っている自覚はあるか、真人」 「僕はあなたの妻と呼ばれてもちっとも嬉しくない」 見た目こそ、おっとりと優雅な男だ、真人は。慎ましく目を伏せた様など、生まれてくる性別を間違えたのではないかと思うほど。 だが真人の心は違う。頼りないと彼が断言する夏樹を支え得るだけの剛毅さを抱いている。意外と頑固でもある。実に男らしい男だ、と言える。確かに妻とは呼べない、夏樹は小さく笑った。 「大体、俺も夫と言う柄ではないな」 「そうだよ、正しい夫と言うのは冬樹君みたいな人のことを言うんだよ。妻を大事にして子供を慈しむ。いい夫って、こういう人だよ」 「お前な」 「あなたの場合、全部、逆を行くよねぇ」 しみじみと言ってのけた真人に冬樹が思い切りよく吹き出した。嘘だと言うのはわかっている。真人への愛情は嘘偽りない心からのものであるのも、春真を大切に育んだのも知っている。 「兄さん、幸せですね」 言えばさっと夏樹の頬に血の色がのぼった。呆気に取られるほど鮮やかで、見惚れるほど羨ましかった。長年をともに暮らしてきていまなお照れることができるというのはどれほど幸福なことなのだろうか。 「よせ、冬樹」 ついには顔を覆ってしまった夏樹に真人と二人で笑い出す。これ以上笑っていたら夏樹の機嫌が悪くなる、と言うところまで。 「あぁ、久しぶりによく笑いました。そうだ、忘れるところだった」 「好きなだけ笑ったら帰れよ」 「そう言わず。本題はこれからですから」 「なんだ……まだあるのか」 唇を引き結んだ夏樹だけれど、さすがに弟だ。それしきのことでひるみはしなかった。 「これ――」 言いつつ冬樹が荷物を膝の横へと滑らせる。ずいぶん嵩張るもののようだった。 「来たときから気になってはいたがな、なんだそれは」 「出してみてください」 す、と夏樹の前まで進めた。夏樹は訝しげな顔のまま、荷物を解いていく。大振りの紙袋に入れられたものを取り出し、包装紙に手をかけようとして、真人を見た。 「ん、僕がするよ」 夏樹の手から荷物を受け取りきれいに包装紙をはがしていく真人に冬樹は笑みを向ける。無言のうちに訴えた兄も見つつ。 「あぁ、きれいだ」 「なんだ、これは」 「膝掛けですよ、こっちは兄さんに。こっちは真人さんに」 冬樹が取り出された二枚の膝掛けを丁寧に広げた。書き物をする二人だから、こんなものがあっても無駄にはならないだろう、と。 「志津が、病院で編んだんです。もらってやってくれますか。子供の手ですが」 「すごい、志津ちゃんが。ありがたいよ、上手だねぇ」 「あぁ、大事に使わせてもらう」 嬉しそうに膝の上に広げてみる真人。困り顔のまま手に取る夏樹。二人を見つつ、冬樹は帰ったらもう一度妻と話し合いをしよう、そう思っていた。 |