「では五十八ページ、清原元輔の歌を――遠藤。読んで」 「はい、契りきな――」 級友が読み上げる声を聞きつつ春真はぎょっとする。どこかで聞き覚えがあった。途端にあれだ、と思い出す。 「あぁ――」 「どうした。水野。なにを納得した」 「え、あ。すいません」 「まぁ何か納得したようだしな、訳は水野にやってもらおうか」 にやにやとする意地の悪い教師に内心で春真は溜息をつき、立ち上がる。そのまま真っ直ぐと教師を見た。 「どうした、早くしろ。水野は歌人の水野琥珀に養育されたんだったよな。だったらこの程度は簡単だろう」 さすがにかちん、ときた。特に言いふらすべきことでも隠すことでもないから知っている人は知っている。けれどわざわざ授業中に一人家族から離された、などと言われて腹が立たないほうがおかしい。 「清少納言の心境です」 淡々と、笑顔さえ浮かべたまま春真は言い放つ。そのまますとん、と着席した。ざわりと教室に声が立つ。意味がわからなかったものが半数、よく言ったと密やかな声援をくれるものが半数、と言うところか。 教師はにやりとしただけで、何も言わなかった。他意はない、と言うことなのだろう。だが春真としてはやりきれない。 別に父母を恨んではいないし兄を羨んでもいない。一番大変だったのは病気をしていた姉本人だ、といまの春真は理解している。 たかが中学生に理解できることがなぜ大人の教師にわからない。そう思えばよりいっそう腹が立った。 当然、授業には身が入らなかった。紅葉坂と言う学校は教師の良質さで有名ではあるものの、稀にはこういう教師もいる。それがわかっていても、如何せんまだ中学生、納得できるものでもない。 苛々したときにはこれが一番、とばかり春真はすぐに家に帰らず寄り道をした。 「あれ、真人さんは」 幼いころ自分を育んでくれた家に春真は「帰って」きた。いまでもこの家に来ることを帰ってくる、と思ってしまう。 「あぁ、出かけてる」 伯父が一人で黙々と原稿を書いていた。それを横目に家にあがり、春真は茶を淹れる。真人に仕込まれた春真は夏樹よりもよほど上手に茶を淹れた。 「伯父貴。飲む」 「あぁ、もらう」 「はい」 すぐさま出てきた茶にやっと夏樹は振り返る。とっくに淹れて待っていたらしいと気づいて苦笑した。 「悪かったな」 「別に。仕事、忙しいの」 「いや、きりが悪かっただけだ」 この伯父がそう言うのならば嘘ではないだろう、と春真はうなずいて茶をすする。伯父と二人だとどうにも話題が続かない。 以前、実家に帰ったばかりのころはこうしてこちらに遊びに来ることができなかった。真人も望まなかった。来れば、実家に戻りがたくなる、それが二人ともわかっていた。 いまはもう、たまにふらりと寄ることができるようになっている。それが時間の流れを感じさせて春真は少しだけ、寂しい。今でも自分はこの家の子だ、そんな風に思っていると真人が知ったならばどんなことを言うだろうか、彼は。 「それで」 伯父がぽつりと言う。庭に眼差しを向けているくせに何も見ていないのがわかる。どうやら伯父は照れているらしい。春真は小さく笑った。 「なにがおかしい」 「ん、別に。伯父貴らしいなって思っただけ」 ぶっきらぼうで愛想がないのは照れ隠し。一緒に暮らしたのだ、春真にもそのくらいのことはわかっていた。 「いいから、さっさと言え」 「伯父貴さ――」 「なにかあったから、来たんだろうが。愚痴のひとつくらいならば聞いてやる、と言っている」 いまだそっぽを向いたままだった。真人からは心の底から慈しまれた。この伯父から、はっきりとした愛情を示されたことはあまりない。 けれど、だからこそ大切にされているのだともう子供ではない春真は知っていた。じんわりと目頭が熱くなる。慌てて瞬きを繰り返した。そっぽを向いたままの伯父は、それでも気づいているだろうけれど。 「今日、学校でさ」 どれほど教師に腹が立ったのか、言おうと思っていた、ここに来るまでは。否、いまこの瞬間までは。けれど、唐突に言う気を失くした。急に、どうでもいいことのよう、感じられる。ふ、と春真の口許がほころんだ。 「百人一首、やってるんだ。で、清原元輔の歌だった」 だから、話題を変える。あの教師に嫌味を言われた原因となったことそのものに。伯父が振り返り、春真を見て目だけで笑う。 「契りきな、か」 「そう、それ。よく覚えてるよね」 「このくらいは当たり前だ」 「教養ってやつかな」 「それ以前だな」 肩をすくめたのが伯父でなかったらあまりの嫌味っぽさに腹が立ったかもしれない。春真は当然水野子爵家の血を継いでいる。世が世ならば子爵家の若さまだ。が、そのように思ったことはただの一度もない。けれど、と春真は思う。この伯父は、当然のように華族の若君であった時代があったのだと。そのころにいったいどんな教育をされたのかは知らないし伯父も話そうとはしないだろうけれど、伯父にとっては百人一首くらい暗記していて当たり前、と言うことなのだろう。 「教養っていうのは古今集とか万葉集のことを言うんだ」 「……もしかして覚えてたりするわけ」 「無茶言うな。全部はさすがに覚えてない」 逆説的にある程度は覚えている、と言うことだ。中々恐ろしい話だ、と春真はぞっとする。自分がその時代に生まれ育たなくて心底よかった。とても無理だ、と思う。 「で。元輔の歌がどうした」 「まだわかんないわけ」 「わかってるがお前の口から言わせたい。俺が言えばよけいなことを言いかねん」 にやり、と伯父が笑う。だから答えはもうもらったようなものだった。春真は戯れに伯父の肩先を打つ真似をした。真人に言われて以来、決して伯父の肩を打つようなことはしなかった。 「真人さんの歌。契りきな、桜霞の春の頃」 「――よく」 「え。なに」 「よく覚えてたな、と思ってな。お前、幾つだった、あのとき」 「幾つだったかな。けっこう小さかったと思うけど」 真人が伯父と喧嘩をした。腹を立てた真人がその辺にあった紙にさらさらと書いて伯父に突き出した歌が、それだった。 意味など、当時はまったくわからなかった。いまもまだ半分くらい、わかっていないのだと思う。ただあのころといまと違うことがあるとするならば、二人がどういう関係かいまはよくわかっている、と言うこと。 「あの歌って、元輔の歌が本歌だったんだ」 「どうだろうかな」 「違うの」 「真人に、本歌、と言う意識があったかどうか。あのときはいま思い出してもぞっとするくらい怒り狂ってたからな。言いたいことがありすぎて、あいつにしては言葉足らずな歌だよ、これは」 「どうしてさー」 「なんだ」 「わかってたのに、出かけたわけ」 怒る真人を捨て置いて、あのとき伯父は出かけていったのだ。あの時の真人の寂しそうな背中をいまも春真は覚えている。 「あのな、春真」 「なにさ」 「その辺は大人の事情と言うやつだ」 「それって酷いよ。子供扱いして、黙ってるのってずるい」 「そうじゃない。お前な、例えば、だ。両親がお前の前で夫婦喧嘩したとする。あとでその理由を事細かにお前に説明するか」 「……想像できない」 「だろうが。似たようなもんだ。説明するには気恥ずかしい理由ってやつがいくらでもあるんだ、こっちにも」 肩をすくめ、そっぽを向いた伯父の耳が仄かに赤くなっているのを春真は見てしまった。何かとんでもなく見たくないものを見せられてしまった気がする。 「だったらさ、やっぱりあれって」 ここまで見てしまったのだ、とことんまで追い詰めないとこちらまで恥ずかしくなってくる。春真は覚悟を決めて言い募る。 「なんだよ」 嫌そうな伯父の声。向こうを向いたままでも刻々と機嫌が悪くなっているのが手に取るようにわかる。 「あれってやっぱり痴話喧嘩だったんだ。子供の前でよくやるよねー」 「お前ね……」 「痴話喧嘩だったら、やっぱ、悪いのは伯父貴だよな。真人さんは絶対に悪くない」 「春真」 「なんだよ」 「惚れた欲目って言葉、知ってるか」 言われた途端、春真は湯飲みを伯父にぶつけてやろうかと思った。さすがに後で真人に怒られることを考えて思いとどまりはしたが。 「可愛い子供の純情をどうしてからかうかな」 「子供が可愛いってのは一般論だな」 自分には当てはまらない、と豪語する伯父に春真は冷眼を向ける。そんなものに左右される伯父でないのは先刻承知だったが。 「嘘つけ、伯父さん。僕が可愛くってしょうがなかったくせにぃ」 「誰がだ、誰が」 「え、伯父さん。ね、可愛かったでしょ、僕のこと。あぁ、これが真人さんが産んだ子だったら、とか思ってたりして」 「そんな気色悪いこと誰が思うか」 思い切り嫌そうに言われた。春真はからからと笑って心が温かくなる。伯父も真人もたぶん、そんなことは一度として考えたことはないだろう。春真が春真としてあるだけで慈しんでくれた。それをこうして確かめられたのが、嬉しかった。 「あれ、ハル。来ていたの」 ちょうど帰ってきた真人が驚いて、ついで仄かに笑った。春真は何事もなかった顔をし、にこやかに手を振る。伯父は、と見やればこちらも機嫌をすっかり直して笑みで彼の帰りを出迎えていた。 |