午後になって雨が降りはじめた。土曜日のせいか、昼で学校を終えた子供たちの声が表通りから聞こえてくる。それを遠く耳で聞きつつ夏樹が左肩を押さえていた。
「肩、揉もうか」
 ふ、と真人はその後ろ姿に声をかけた。声をかけてはいけないような雰囲気が確かにしてはいる。けれどだからこそ、放ってはおけなかった。
「なんだ、また相談事でもあるのか」
 夏樹が振り返って小さく微笑んだ。その笑みに真人はほっとする。何かを思い悩んでいるわけではない、確信を持って言える。
「ひどいな、この前ちょっと頼んだだけじゃない」
「この前、か。気のせいかな、かなり頻繁にある気がするのは」
「気のせいじゃないけど……。でも」
「だろう。俺があってるじゃないか」
「結局、肩揉みさせたくせに」
「言わずともわかる惚気を口にさせたのは誰だ」
「僕相手に惚気てどうするのさ」
 からりと笑って真人は立ち上がり、夏樹のために茶を淹れる。今日は普段より少し熱いほうがいいだろう。体が冷えているようだから。
「――うまい。気を使わせたな」
 ちらりと夏樹が湯飲みの向こうから目を上げてくる。真人でなければ気づきもせず、万が一見て取ったとしても信じがたいもの。夏樹の目に不安があった。
「別に。たいしたことじゃないでしょ」
 やはり古傷が痛むのだ、と真人は思う。こんな雨の日には、もうとっくに治ったはずの傷が夏樹を苦しめる。
「ねぇ」
 問いの声を発した途端、夏樹が身構えた。何もあなたの意に沿わないことは聞かない。それを口にするより確かだと、真人は彼の体に手を触れる。
 指先に、手のひらに伝わってくる緊張と弛緩。目を閉じた夏樹が、真人の手のひらのぬくもりを感じているのまで、伝わってくる。
「少し温めたほうが、楽かな」
「まぁな」
「じゃあ――」
「真人。気にするな」
「そう言われて、はいそうですかって行くと本気であなたは思うのかな」
 何事もないような真人の笑い声。本当に、ただの怪我で、こんなものは日常のこと。擦り傷を作った子供の手当をしているのと同じことだと、真人は態度で語る。
「――すまん」
 何かを用意しに行った真人の背中に夏樹は言う。一度わずかに立ち止まったから、聞こえてはいたのだろう。しかし真人は振り返らなかった。
 その心遣いがありがたかった。今更だ、と思う。いったいこの傷から、何十年が経っていることか。それなのに、なぜまだ痛むのか。
 古傷、とはそういうものかもしれない。けれど夏樹にはそれだけとは思えなかった。傷そのものが痛むのか、それとも心が痛むのか、もう今となってはわからない。
 もしも大人の男となってから、母に復讐を遂げていたのならば、どうなのだろうか。それでも、いまなお傷が痛むのだろうか。
「馬鹿な」
 復讐ならば、遂げている。まったく関わりのない人間として過ごすことで。あの母とは関わりのないところで、自分個人として幸福になった、そのときに。
 だから真人のおかげだ。夏樹は今でも忘れない。彼が目の前に現れてくれた瞬間を。あの日も雨が降っていた。
 庭に目をやれば、過ぎて行った時間を表すよう、梅の木はずいぶんと太くなった。当時は荒れたまま放ってあった庭も、いまは真人の手が入って丹精されている。夏樹が好む梅の木に根方には、父を偲んで水仙を植えた。それも真人がしてくれた。
 あのころは、知らなかった。家を出る自分に父が密やかに用意してくれた家だとしか、知らなかった。いまは、知っている。
 父がその恋人と唯一幸福に過ごしたのが、この家だった。父は、その家を贈ってくれた。ここで幸せになれ、と言うつもりだったのかは、わからない。
 それでもそれが父の贖罪か、あるいは愛情のように夏樹には思える。
「いや――」
 そんな感情が、当時の父にあったかどうか。父の手記によれば、父はもう夏樹が覚えているころには、死人も同然だった。長男を、それでも次男よりは愛したのは、ただ単に恋人が気にかけていた子供だから、と言う理由に過ぎないのだろう。それでも夏樹に、父はこの家をくれた。
 そっと畳の目を撫でてみる。父の笑い声が、そんなものがあったとしてだが、染み込んでいる、そんな気がした。
「夏樹」
 はっとして振り返れば、じっと待ってたのだろう、真人が微笑んで座っていた。物思いに沈んでいく自分を、真人はこうして引き戻してくれる。ありがたいと思うより、情けなかった。
「すまん」
「どうしたの、謝るようなことはしてないと思うけどな。ねぇ、痛いのは、肩だけなの」
「いや……腹はそうでもないが、足も痛い」
 母に傷つけられた三箇所の傷。肩の怪我が最も重かった。露貴に助けられなければ、間違いなく死んでいた。そっと肩に手を添えれば、その上から重なる真人の手。
「そうじゃないかなと思ったんだ。ちょっと着物、はだけてよ」
「おい待て。なにをするつもりだ」
「だから、温めるの」
 ひょい、と真人がどこから探してきたものか湯たんぽを差し出す。しっかりと布に包まれたそれは、ほっこりと見ているだけで目に楽しい。
「ほら、抵抗しない」
「言われて素直に納得できるか」
「してよ」
 からりと笑って真人が夏樹の体に手をかける。まるで押し倒されでもするようで夏樹は苦笑した。そして笑ったことで少し、気が晴れた。
「ほんと、男にしとくのもったいないような綺麗な肌してるよね」
 無理やりに帯を解き、着物の前をすっかりはだけさせられてしまった。肩に湯たんぽを当て、足の古傷には真人が手を当てている。その姿勢でしみじみと言われた夏樹こそ、たまらなかった。
「お前な」
「なに」
「もう少し他に言いようはないのか」
「だって本当のことじゃない。もったいない」
 ふと思った。もしも自分が父親によく似たこの容貌を持ったまま、娘として生まれていたならば母はどうしたことだろうかと。
「よけい――」
 激しく憎まれた気がしてならない。一度であっさり殺されたか、それとももっと酷いことになったか。
「夏樹。何か言った」
 やけにきっぱりとした真人の声だった。夏樹は苦笑いをして真人に向かって首を振る。そんな仕種でも彼には感謝と理解されることだろう。
「湯たんぽ、熱くないかな」
 肩に当てた湯たんぽの具合を見るよう、真人は手を添える。伸び上がっているものだから、圧し掛かられてでもいるようだ。場所と時間が違えば実に目に快い景色だろうに。
「あぁ、大丈夫だ。気持ちがいい」
「よかった。もうひとつ、探してこようか。足にもあったほうがいいでしょう」
「いや、いらん」
「でも」
「こっちがいい」
 夏樹の手が真人の手を導く。触れていてくれれば、それでいいとばかりに。真人の手のひらの感触にほっと息をつき、そして自分のしたことが途端に恥ずかしくなった。
「夏樹。赤くならないで」
「誰がだ」
「あなたが。あなたに照れられると、とっても破廉恥なことをしている気分になる」
 珍しく真人がにやりと笑う。夏樹は返す言葉を見つけられずにそっぽを向く。その拍子にはだけていた着物が完全に肩から落ちた。
「冷えるよ」
 そっと着物を直してくれる真人の手。そのまま押さえておきたくなってしまう。けれどそうはせず、夏樹の目は庭に向いていた。ただ、照れていたのかもしれない。
「道理で着物が似合うわけだよね」
 不意に真人が言う。律儀に足に手を当てたまま、夏樹の体を眺めていた。
「なにを見ている。珍しいものでもないだろうが」
「それはそうだけど。長年一緒にいても新しい発見ってあるものだな、と思って」
 そっと笑って真人は彼の肩に手を滑らせた。まるで輪郭をなぞるようだ、と思った夏樹の感想は間違ってはいなかったらしい。
「あなた、ずいぶん撫で肩だよね。着物が似合うわけだよ。だからかな、肩がこるのは」
「……そうかもな」
 夏樹は悟った。古傷が痛むのではなく、肩こりなのだということにしてしまえ、真人がそう言っているのを。
「足は」
「昨日のお散歩がすぎたんじゃないの。筋肉痛だったりしてね」
「意外と無茶苦茶を言うな」
「ほら、新発見」
 にこりと真人が笑った。胸を鷲掴みにされるように、澄んだ笑みだった。初めて、母に感謝、とまでは行かなくとも多少は許せる、そんな気がした。母に害されたからこそ、家を出た。家を出なければ、真人に出逢うことはなかった。
「お前に――」
 あえてよかった。あるいは、もっと別の。けれどそこから先を夏樹は口にしなかった。真正面から見られては、照れが先に立つ。そんな夏樹のすべてを心得ている、と言いたげに真人は微笑む。
「あ――」
 夏樹が身じろいで、また着物が滑る。中途半端に肩にかけているだけなのだから、落ちて当然と言うもの。真人は夏樹の肩越しに手を伸ばし、着物を拾い上げては着せかける。
 だから、間が悪かったとしか言いようがない。着せているのか、脱がしているのか判然としなかったのは、誰のせいでもない。
「……真昼間っから、なにやってるんだよ、二人ともっ」
 庭先から声がして、真人は本当に飛び上がった。これが露貴ならば苦笑で済ませる。冬樹でも、この際は笑って誤魔化す。編集者はそもそも来ない。つまり、春真だった。中学生の春真がふらりと遊びに来たのだった。
「ちょっと、ハル。よしてよ、なに言うの。手当てだよ、手当て。伯父様、筋肉痛で、だから、手当てだってば」
「昼間と言う以前の問題だと、思わんのかお前は」
 しどろもどろに慌てる真人と、わかっていてやったのではないかと案じられてならない春真。夏樹は長い溜息をつき、自分で着物を直した。それでも顔は笑っている。気づけば傷ももう、痛まなかった。




モドル