最近はいやなことでもあるのか春真が度々寄り道に来る。真人としては歓迎したい気持ちが半分、心配が半分、と言うところだ。 「ねぇ、ハル」 今日は聞こう、今度こそは聞こうと思いつつだいぶ経ってしまった。ふと春真が黙り込んだ隙に、今日はなんとしても、と決意をこめる。 「どうしたの、真人さん」 縁側で、庭に足を下ろしたままぶらぶらとさせつつ茶を飲んでいた。中学生にしては春真は茶が好きだ。四六時中、真人が伯父に淹れるのを見て育ったせいかもしれない。 「ん……」 「おかしな真人さん。言いたいことがあったら言ってよ、遠慮があるような仲じゃないじゃん」 くすくすと春真が笑う。励まされているのを感じ、つい真人は夏樹を見やってしまった。夏樹は二人の会話にはあえて割り込むまい、と手元に何かを書き付けている。作品の構想、と言うより前段階の書付だろう。それでも真人の眼差しに応えてそっと微笑んだ。 「最近、どうしたのかなって。別に来るなとか、そういうんじゃないよ。それこそ、ハルにはわかってるだろうね」 「あぁ……そっか」 「寄り道ばかりしてる、そんな気がしてね。おうちは、大丈夫なの」 普通ならばこれは、家人には告げてきたのか、心配してはいないかと問う言葉だ。 だがこの家では、違う。真人は春真が実家に馴染めているのかを、問うていた。春真は苦笑して見せる。いったい何年経ってるの、とばかりに。けれど心の中では、感謝していた。こうして案じてくれることが、たまらなく自分の心を温めていくのを感じている。 「大丈夫だよ。帰ってないってことはこっちに寄ってるってわかってるし。それに、みんなとも仲良くしてるしね」 春真としては精一杯に言ったつもりだろう。何も心配はないよ、と言っているつもりだろう。けれどまだ中学生だった。 みんなと仲良くしている。その言葉が真人を打つ。仲良くする、と表現してしまうほど、春真と家族の距離は遠いのだ、と。 「真人」 す、と夏樹の声が忍び込んできた。何も言わない、ただ名を呼んだだけ。それなのに、わかった。春真をその手で育てたことを後悔するなと彼は言っていた。あのときは他にどうしようもなかった。それでさえ、他に未来はあったかもしれない。より悪い未来が。いま春真と真人は実の親子以上に通じ合っているではないかと。実家に馴染めないからと言って、後悔しては春真の今を否定することにもなる。 「……ん」 ただ一言に夏樹のそれだけの意思を真人は汲み取った。軽く瞑目するその姿がなんと満足そうなのか、と春真はわずかばかり羨ましそうな目で見ていた。 「そういえばさ」 自分で自分の感情を振り切るような春真の声だった。わざと明るくしているのが痛々しくてならない。けれど春真が望むならば付き合おう、と真人は決める。ここに「帰ってきて」まで、気を使わせたくなかった。 「ん、どうしたの」 何もなかったような顔で微笑む真人に春真は感謝の眼差しを向けた。それから、もう少し心配したらどうなのさ、といわんばかりの目を今度は伯父に。夏樹は知らん顔で茶を飲んでいた。 「真人さんの歌ってさ」 伯父を会話に引きずり込むのを諦めて春真は言う。もっとも、さほど熱烈に伯父と話したいわけでもない。 「どうして全部、恋歌なの」 真人は夏樹を褒めたくなった。すんでのところで夏樹は茶を吹き出さずにいる。真人は危うく湯飲みを取り落とすところだった。 「なにさ、急に」 「いや、そんなに慌てられると、なんかとんでもないこと聞いちゃったような気がするんだけど」 「とんでもないこと、でもないけど。急で驚いたじゃない」 「だいたい――」 咳きこんでいた夏樹が収まったと見えて口を挟む。なぜ収まったか。当たり前の顔をして真人が背をさすっていたせい。これで「友人」を貫き通しているのだから、よくいままで誰もおかしいと思わなかった、と春真は内心で思う。 「なに、伯父さん」 「真人の歌のすべてが恋歌だ、と思うのは間違ってるぞ」 夏樹の言葉に真人がうつむいて密やかに笑った。春真はぷ、と頬を膨らませる。 「真人さんの歌が恋歌って言ったの、伯父さんじゃん」 「言ったがな」 「だったら」 「お前、わかっているのか。俺はいいんだ、俺は」 「夏樹」 肩は叩かないくせ、背は叩いた。真人に打たれる音がして、夏樹は顔を顰める。春真には、見えなかった。本当は、打っていない。音がしただけだ。彼の背に添えた自分の手を、真人は打っていた。 「それってさー」 「お前も真人もなにを誤解したのかは知らんがな」 夏樹は嘯く。どこが誤解だ、と言いたくとも春真がいる限り、真人は口をつぐむよりない。じろり、と横目で睨むだけだった。 「琥珀の一番の理解者を俺は自負している。その俺が言うなら、いいんだ」 「なんでさ。僕だって、真人さんの歌、好きだもん」 「せめてあと二十年経って言うんだな」 実に珍しいことに顎まで上げて傲然と夏樹は言い放つ。たしなめればいいのか止めればいいのか。それとも褒められているのだろうか、これは。真人はわけがわからなくなってきた。 「まぁ、確かにあなたも全部恋歌、なんて言うけどね」 「だから俺はいいんだ」 あるいはそれは、惚気であるのかもしれないとふと真人は気づく。他の誰にも言えない惚気、ではある。だがわざわざ甥に、それも事情を知らない甥にすることはない。まして子供なのに、と真人は思う。知らぬは真人ばかり、ではあったが。 「琥珀の歌はな――」 ふと夏樹が庭先に目を向ける。つられたよう、春真もそちらを向いた。その隙に夏樹は真人を見つめる。目がやりすぎたか、と尋ねていた。だから真人は黙って首を振る。春真にわからないように惚気てくれるならば、それでいいと。たまにそんなあなたを見るのも楽しいよ、と笑う。 「庭先の花を愛でて歌う。ごく当たり前の日常を歌う。伝統的な花鳥風月を歌いもする」 「だから全部が恋歌ってわけじゃないってこと。でも、けっこう少ないじゃん、そういう歌」 「それがだから、誤解なんだ。わかってない、お前は」 若いな、と夏樹が言い添えて春真はむっとする。うっかり吹き出してしまった真人にまで春真は嫌そうな目を向けた。 「ごめん」 「笑わなくってもいいじゃん」 「違うよ、ハル。若い若いって当たり前じゃないか。ハルはまだ中学生だもの」 「でもさぁ」 「いいね、ハル。楽しいかな、今は」 「うん、楽しいけど……」 「僕がハルの年のころは、戦争だったからね。楽しそうなハルを見てると、僕はとても嬉しい」 「あ――」 真人は伯父のことには触れなかった。確か教職についていたと聞いている。話したくないことなのだろう、伯父は無言で茶を飲んだ。 「若いっていいよね。まだなんでもできるもの」 だから伯父様は励ましていたんだよ。そう真人は言い添えた。笑いながら言っていたから、たぶん本当のことなのだろうと春真は思う。伯父を見ても相変わらずよくはわからなかった。 「あなたもちょっと、羨ましかったんだったりしてね」 「冗談。誰が恥多き青き頃になんぞ戻りたいものか」 「あぁ……確かにねぇ。恥ずかしいこと、いっぱいしたものなぁ」 真人の若い頃の恥、とはいったいなんだろうと思ってしまう。春真にとって真人はどうしようもない伯父を絶え間なく補佐する完璧な男に見えていた。そのせいだろう、若い真人、と言うのがどうにも想像しがたいのは。 「それで、伯父さん。なにが誤解なのさ。話がそれちゃってるじゃん」 「あぁ、ごめん。僕がよけいな口出ししたせいだね」 「違うよ、真人さんは悪くない。悪いのは全部、伯父貴だから」 これでもか、と春真は言い募る。この家で育っていたころからよく言っていたな、と思えば懐かしい。 「まったく。悪いのは全部俺か。無茶苦茶を――」 「伯父さん。話してくれる気があるの。ないんだったら、僕は真人さんの買物にでも付き合うけど。荷物持ち、しようか」 「ありがたいね、ハル。でも伯父様が話してくれるみたいだから、もうちょっと聞きな」 真人の言葉に春真は、はい、と素直にうなずく。それにまたひとくさり夏樹が文句を言う。と言うより文句を思ったらしい。目にそれが現れていたが、夏樹と言う男はすべてを口にする男ではない。見て取れるのは真人だけ。そして理解した真人は黙って微笑むだけ。 二人の間に何かが流れたのは。春真にもわかる。黙って見ているしかできない自分はやはり伯父が言うよう、若いのだろう。 「琥珀がなにを詠むか、と言うことだな」 「だから」 「琥珀はだから、さっきも言ったように風物も詠む」 「それだから――」 「あのな、春真。そうせっつくな。これじゃ繰り返しになるだろうが。風物も詠む。それは確かに風物を詠んでるんだ、琥珀は。ただその向こうに、思いの影がちらっと映る」 「それで、だから、全部が恋歌って」 「本当は、風物を詠んだ琥珀に対してそれは恋歌か、と問うのは礼を失する」 「だからね、伯父様だけは、いいんだ。水野琥珀と言う歌人が、何を見て何を思い、どう歌にしたのか、全部を理解してくれている人だからね」 咲く花に彼を思う。月に、雲に、吹く風に。都会の雑踏を詠んですら、そこにある影。夏樹が真人を知っているから、ではない。水野琥珀を、かつては加賀沈香と言う名であった歌人を、その歌を、彼は心の底から愛してくれたから。 「なんか、羨ましいな、そういうのって」 「ハルにも、そんな友達ができるといいね」 「まぁ無理だろうがな」 どうしてあなたはそういうことを言うかな。すぐさま夏樹が真人に怒られていた。言われた当人はさほど傷つかず、むしろ笑うのに忙しくて目に涙を浮かべていた。 |