「夏樹、ごめん」 もうどうにもならない。なにをしてもわけがわからない。混乱が混乱を呼んでついに、真人は匙を投げた。 「どうした」 急に謝られて夏樹は面食らう。何事だ、とばかり真人の手元を覗く。ほぼ白いままの原稿用紙がそこにあった。 「あぁ、百人一首か」 「うん。もうだめ。限界」 「書けないか。つらいならやめろとは口が裂けても言わんが、ずいぶん急に放り出したくなったものだな」 「まさか。違うよ」 夏樹には言わなくともすべてが通じる、と思っているせいでした勘違いだった。真人はその思いにほっと息をつく。 「ちょっとね」 隣に座った夏樹の肩先に軽くもたれかかる。何も言わずに腕がまわってきた。ぬくもりの中にあってやっと息をつける思いだった。 「平安末鎌倉初期って、ものすごく苦手なんだよ」 「あぁ……」 そういうことか、とようやく納得したのだろう。夏樹がうなずく気配が首の辺りで感じられる。額に彼の少し伸びた髪が触れてくすぐったい。 「ほんと、誰が誰だかさっぱりわからない」 「そうか」 「だって全部、源姓か平姓じゃない」 「そうでもないだろうが。だいたい、だったら平安全盛期なんかどうなるんだ。それこそ全部藤原だろうが」 「そんなことないって」 「例をあげろ例を」 「ん……。あぁ、菅原」 「極端すぎるだろうが」 くすくすと夏樹が笑っていた。その声に苛々とした気持ちが収まっていくのを真人は感じる。頬をすり寄せれば、夏樹の匂いがした。 「だからさ、お願いがあるんだけど」 「……なんだ」 「そんなに警戒しないでよ。鎌倉、あなたはわかるよね。できれば、この辺りのこと、ちょっと話して欲しいかなって」 「お前ねぇ……」 少しばかり呆れた声。真人にはこれがずいぶんとんでもないお願いだ、と言うのがわかっている。理解はしているけれど、鎌倉は本当に鬼門なのだ。 「俺はな、人に聞けばいいって言う態度は嫌いだ。こっちは調べるのに金も暇も手間もかけてる。ただ聞きするつもりか」 「ちゃんと御礼はするから」 「……すまん、お前じゃない」 「え、なに。あなたも何か、あったの」 「まぁな。いるんだ、適当に聞きにくる馬鹿が」 そう言われてしまってはさすがに真人も頼みにくくなってしまう。けれどお前ではない、と夏樹は示すよう再びしっかりと抱きしめてきた。 「お前は例外だ」 「でも、さ」 「俺が手間暇金をかけられるのは誰のおかげだ。お前がいるからだ。だからお前には聞く権利がある」 滅多に睦言めいたことを言わない夏樹の、それが睦言だった。真人にしかわからない。真人以外はたぶん、誰も認めないやり方。真人にとってだけは、嬉しい言葉。 「うん。じゃあ、お願い」 とはいえ、話すほうは理解していても、真人はさっぱり鎌倉時代を理解していない。何度も行きつ戻りつして、同じことを三度は話してもらった気がする。 聞いているうちに理解した、となれば夏樹にも教え甲斐があるというものだろうけれど、そもそも鎌倉時代に拒否反応があるのだ、真人には。 仕舞いには、誰が誰、と図まで書いて示してくれた。そんな夏樹を見つつ、真人は少しだけ別のことを考える。 この人は、教師だったのだ、と。教えることが今でも決して嫌いではないのだと。もしも戦争と言うものがなかったならば、彼は今でも教師をしていたかもしれない。 「おい」 「あ、ごめん」 「疲れたか。少し休憩にするか」 「ん……。ちょっとね、もしかしたら、あなたは今でも教師をしていたのかな、なんて思っちゃって。ごめん」 不意に過去に触れてしまった言葉。思いをそのまま口にしてしまった真人は咄嗟に詫びる。やはり、頭が疲れているのかもしれない。 「教職についていたら、困ったことになっただろうな」 「ん、なんで」 「お前に逢えた確信がない」 にやりと夏樹が笑う。文机を前にして、覗き込んでくる彼の目。わずかに蒼めいて真人の目を惹きつけ離さない。 「珍しい。嬉しいな、そんな風に言ってくれるの」 「だからだ」 「なにが」 「たまに言うから喜ばれる。四六時中言ってたらありがたみがないって物だろうが」 「嘘ついて」 照れるだけだからだと真人は知っている。現にいまもほんのりと耳が赤く染まっていた。この年になってもまだこうして照れてくれる人、と言うのがありがたくてならない。自分への思いをこれほどまで純に表してくれるのだから。 「続き、やるぞ」 まるで本職の教師だった。彼は国語の教師だったはずなのだが。真人が戸惑う暇すら今度は与えてくれなかった。叩き込む勢いで、それでも懇切丁寧に教えてくれる。少しだけ、悲鳴を上げたくなったが。 「この辺でだいたいわかったか」 「……わかった、と思う」 「なんだそれは」 「いまはもう頭がいっぱい。わかったのかどうかもよくわからないよ」 軽い頭痛をこらえでもするよう真人が額を押さえていた。夏樹は笑いを噛み殺し、彼の頭を撫でてやる。子供にするように。 「本当に、先生だね」 「生徒相手にこんなことをするものか」 「頭くらい、撫でてあげたんじゃないの」 「まさか」 ふん、と鼻を鳴らしたから、あるいは小さな生徒にはそうしたのかもしれないな、と真人は思う。それを悟ったよう、夏樹はかがんで真人にくちづけた。 「誰が生徒だ」 耳許で言われた言葉の珍しさに、真人は驚くより先に吹き出してしまった。 「まったく。酷い男だよ、お前は」 「ごめん」 「こっちは決死の覚悟だって言うのに」 「また大袈裟な」 「どこがだ。毎回毎回はらはらする。お前に愛想つかされたらどうしようかと思えば当然だ。まったくもって心臓に悪い」 「おやおや、あなたの健康にために別れたほうがいいかもしれないね」 「おい」 真人の言葉がからかいだとわかっていてすら、夏樹は慌てた。肩を掴んで彼の目を覗き込む。笑っているのを確かめて、そしてようやく息をつく。 「本当に、心臓に悪い」 「ごめん」 「笑ってやがる」 鼻を鳴らし、夏樹はそっぽを向いた。その背に真人は頬を当てる。温かくて心地良かった。着慣れた着物の、馴染んだ感触。 「ねぇ、夏樹。お礼、なにがいい」 「なんだ、考えてなかったのか」 「あなたに聞いてからにしようと思って」 自分が考えつくものよりも、希望を容れたいから。真人の思いが伝わるようで夏樹は前を向いたまま口許を緩めた。 「外食一回、と言うところだな」 「え……」 「珍しいのは承知の上。出かけるぞ」 「え、ちょっと。夏樹。待って」 「待たない」 ふらりと立ち上がられてしまって、真人は体の平衡を失う。畳に手をついて倒れるのを防げば、夏樹が笑っていた。 さっさと出かける支度をしてしまった夏樹を真人は呆気に取られて見ている。あの外出嫌い人嫌いの彼が外で食事をしようだなど。 ここで熱でもあるのか、など問えば機嫌が悪くなるだけだろう。妙に機嫌がいいのだ、それだけだ、と思うことにして真人は夏樹の背中に従う。 「ねぇ、どこに行くの」 「さぁなぁ」 ふらりと出てきてしまった。財布の中身が心許ない、とは言わないが、突然のことでさほど持ち合わせがない。 「あんまり高いところだと、ないからね」 「お前の財布の中身くらいよく知ってるよ」 不思議なものだった。買い物についてくることは滅多にないし、そもそも真人個人の収入がどれくらいあるのかも夏樹は知らないだろう。ある程度は、察しているだろうけれど。それなのになぜ財布の中身などわかるのだろう。 「外食は口実で、お前と歩きたかったからだ、と言うのはどうだ」 だから財布の中身がどうのなど、どうでもいいと夏樹は言う。戯言にしか聞こえなかった。真人には、本気に聞こえた。 「ご冗談を、篠原さん。お礼はするって言ったじゃない」 急に照れたのは、真人のほうだった。数年分を一度にまとめたような言葉の連発に、雨が降る、どころか槍でも降るんじゃなかろうか、などと思ってしまう。酷いことを思うものだが、そうでも思わなければ、不安だった。 「真人。たまにはこういう気分のときもあるってだけだ、気に病むな。あんまり気にされると、二度と言わない」 「ちょっと、夏樹。それは嫌。別にのべつまくなし言ってとは言わないけど、たまに言われるのって嬉しいもんなんだからね」 慌てて彼の袖にすがり、天下の往来だと思い出す始末。そんな真人を夏樹が笑って見ていた。 「ほら、お目当てだ」 夏樹の言葉に真人の眼差しが動く。そして和んだ。彼が示した先、夏樹が愛顧する肉屋の看板。 「晩飯に、買って帰ろう」 「コロッケ、好きだよね。他になにがいいの。豚カツ、それともメンチ」 「ポテトフライがいい」 「また質素な。お礼だって言ってるのに」 「こだわるね、お前も。うまいんだぞ、冷めたポテトフライ。ウスターソースに浸しておいてな、よく冷めたのを食うんだ」 「そうなの……知らなかった。じゃあ、僕も」 いそいそと真人は店先に走っていく。その後姿を眺めている夏樹の眼差しに気づかないまま。たとえようもなく柔らかな目が、真人の背中にそそがれていた。 |