先日、ちょっとした副収入が真人の手に入った。夏樹にはありえない仕事をしたせいだった。
「講演、ねぇ……」
 自分でも向いているとは思えなかったけれど、なにぶん近くに住んでいることだから、と懇願されて受けた仕事だった。同じ近く、と言うならば篠原忍と言う著名な作家がいる。がしかし、まかり間違っても、それこそ天地がひっくり返っても彼は人前に出て喋る、などと言うことは決してしない。
「まさかね」
 想像して真人は吹き出しそうになる。姿はいいし、話し方は明瞭で毅然としている。本人は望まないだろうけれど、映えると真人は思うのだ。ただ、絶対にありえない、と言うだけで。昔は教職にあったのに、と思えば不思議だが、単に年齢と共に人嫌いに拍車がかかったと言うことなのだろう。
 結局、真人は講演の仕事を受けた。それはもしかしたら、紅葉坂学園からの依頼だったせい、かもしれない。少なくとも、春真の学校だ、と言う意識はあった。
 広い講堂で、どこにいるのかもわからなかった。けれどどこかで聞いていたのだろうな、とは思う。だからこそ、春真は遊びに来ない。
「きっと」
 聞いていなかったのならば、講演をしたんだってね、と笑いながら言いに来るはずだ。寂しいような、安堵するような、そんな気持ちだった。
 自分でも上手な話し方ではなかったと知っているせいで、いまは気恥ずかしさだけが先に立つ。
「まぁ、もう済んだことだしね」
 真人は気持ちを切り替えて立ち上がる。その動作に夏樹が振り返った。
「なにをぶつぶつ言っていたんだ」
「ん、独り言」
「あぁそうか」
 どことなく拗ねたような声。話してもらえないことを拗ねるなど、もう春真でもしないのに。そう思えば真人の口許が緩んでいく。
「ちょっと出かけてくるよ」
 そんな夏樹を置いて、真人は外出した。背中を彼の目がずっと追っていた。彼のそんな眼差しを浴びつつ背を向けるのは、少しだけ、心が躍る。
「ごめんね」
 けれど真人は呟く。本当は、喋ってしまいそうになったせい。夏樹にはいまひとつ、隠し事をしている。
 真人が出かけた先は、繁華な街だった。そこから少し外れたところに真人の用事がある。一軒の和装小物店、とでも言うのだろうか。足袋や何かの類ではなく、装飾品を扱っている。
「いらっしゃいませ」
 落ち着いた店員が、真人を迎えた。すでにあちらは真人の顔を覚えたと見えて穏やかな笑みだった。
「出来上がっておりますよ」
「それはよかった」
「ご覧になったあと……」
 お持ち帰りになりますか、と店員は尋ねる。出来を見てからまた手直しを頼んでもいい、と言うことだろう。真人はうなずいて品を見せてもらった。
「あぁ、素敵だ。思ったとおりです」
「恐れ入ります。では――」
「えぇ、包んでください」
 店員が用意をする間に、真人はそっと代金を置く。包みを持って戻った店員が、優雅にそれを受け取った。
「御用の節はどうぞお申し付けくださいませ」
「えぇ、ありがとう」
 気持ちのいい応対だった。真人も夏樹も相変わらずの着物党だから、今後もこの店は使うことになるだろう、そんな気がした。
 せっかく出てきたのだから、とゆっくりデパートなど見てまわる。真人の目はそれでも夏樹の物ばかりを探していた。
「あぁ」
 あの反物は似合いそうだな、あの菓子は好きだろう。土産においしいものでも買って帰ろうか。
 そんなことばかりを考えている自分が少しおかしい。ほんの少し前までは、春真の物も見ていたのにな、と思えばこそ。
 考えてみれば、ほとんど自分のものを買った覚えがない。日常の物は求めるけれど、贅沢品の類は買ったことがない。
 もっとも、それは真人が彼の物ばかりを買うように、夏樹が真人に買ってくるせいだ。お互いに贈りあっているのだから世話はない、とも言う。
 真人が帰ったのは、もう日が落ちてからのことだった。これも春真がいたころにはなかったこと。夏樹が言うのだ。
「大人二人なんだ、たまには手を抜いても一向にかまわん」
 何ならいつも抜いてくれてもなんら問題はない、とまで言った。さすがにそれには真人は肯えない。食の細い夏樹なのだ、常に惣菜など食べさせていたらあっという間に体を壊すに決まっている。
 それに、とも思う。真人は家事が嫌いではなかったし、自分の作るものを夏樹がおいしそうに食べてくれる顔を見るのも好きだった。だから普段は手を抜かない。
 こうして外出したときくらいなものだった。それも、本当は帰ってから作りたい。が、帰宅早々ばたばたとするのを夏樹が嫌うから、買ってくるだけだ。あれはあれで彼の気遣いだとわかっている。わかっているからこそ、その気持ちを快く受け取って真人は惣菜を買って帰ることにしていた。
「ただいま、遅くなっちゃったね」
「ん……あぁ、もうこんな時間か」
「なに、ずっと仕事してたの」
「暇潰しみたいなものだな」
「なんてことを」
 からりと真人は笑う。仕事を暇潰し扱いするなど、とんでもない話もあったものだと笑う。けれど、本当は嬉しく思ってもいる。自分がいなかったから暇だった、つまらなかったと彼が言う。それが嬉しくないわけがなかった。
「ご飯にしようか。おなか、空いたでしょう」
 惣菜を並べれば、また自分の好みのものばかり買ってきた、と夏樹が笑った。
「たまには自分の好きなものも買ってこい」
「そうしてるつもりなんだけどな」
「本当にか」
「うん、食の好みが似てきたかな」
 言えば夏樹が小さく笑った。ほんのりと、月光に照らされた花が開くように。いい年をした、それも男にそう思ってしまうのは間違いなく惚れた欲目だと真人は知っている。けれどそう思うものばかりはどうしようもなかった。
「どこに行ってきたんだ」
 食事を終えて真人が茶を淹れはじめたころになってやっと夏樹は尋ねた。ずっと聞きたかったのだ、と声の調子に表れている。
「はい、お土産」
 聞こえなかったふりをしたわけでもないけれど、真人は土産の和菓子を出す。上生菓子も嫌いではない夏樹はわずかに目をみはって嬉しそうな顔をした。しかしすぐさま険しい目になる。
「別にはぐらかしたんじゃないよ。はい、これ」
「なんだ、まだ土産があるのか」
「そうじゃない。これを取りに行ったの」
 真人からどうやら小箱と思しき物を手渡され、夏樹は訝しそうな顔をする。開けてみろ、と真人が促すのに従えば、中から出てきたのは。
「根付、か」
「うん。あなたに――こういうのは、どうかな、と思って」
 途切れ途切れの言葉が、真人のためらいと羞恥を語る。ふ、と夏樹は根付に眼差しを戻す。よくよく見れば、何かが彫り込んである。
「なんだ……言葉、いや、和歌、か」
「うん、まぁ」
「山はさけ海はあせなむ世なりとも――」
「君にふた心わがあらめやも。源実朝の歌だよ」
 夏樹が読むのを待てなかったよう、真人がさっさと続けた。あまりに素早かったのを訝しく思えば、真人はそっぽを向いている。
「確か……」
 この歌は後鳥羽院に向けて忠誠を歌ったものだった、と夏樹は記憶していた。なぜこれを、と不思議に思う。
 もう一度、何かがないかと根付を見つめる。手の中で転がせば、根付は掛け軸の仕立になっているらしい。表装は堆朱、鮮やかな朱色に花の模様が彫り込んである。
 よく見てやっと、わかる。花は梔子の花だった。真人の初めての歌集を意識したものだろう。夏樹の唇に笑みが浮かぶ。
 歌が彫ってあるのは、象牙だろうか。いつまでも触っていたくなるほど、心地良い。これは相当に値が張ったのではないか、と不安になってしまう。
 ゆっくりと親指で、根付を撫でていた。副収入が入る予定があったせいだろう。真人がこんなものを作ってくれる気になったのは。また自分のために、と思えば胸が熱くなる。
 そしてやっと、気づいた。忠誠の後鳥羽院の、と考える必要はない。ただ歌の言葉を拾えばいい。堆朱も手がかりだったか、とようやくわかった。
「真人、これは……」
「あなたが要らないんだったら、僕が使う」
「待て。そんなことは言ってないだろうが」
 きっぱりと言われた言葉が、真人の照れを語っているようで、夏樹は微笑ましくてたまらない。
「もう、何年前になるかな……」
 真人がよく使う根付がある。巻物の形に仕立てた根付だった。夏樹はそこに一編の漢詩を彫り込ませた。上邪、と言う漢詩だった。山が崩れ川は枯れ、夏に雪が降り冬に雷が鳴る。天地が合わさったならば、その時はじめて思いを絶とう。そんな意味の詩。
「これは――」
 実朝など、何の関係もない。真人はあの漢詩を意識していたのかもしれない。否、それに間違いはない。
「真人……」
「ずっと……あの根付をもらってから、何か対になるようなものをって考えてたんだけど。僕も馬鹿だね。歌人のくせに、こんな有名な歌ひとつ、思い浮かばなかったなんて」
「それだけ」
 嬉しくて、どうしていいかわからないほど嬉しくて、何一つ思い浮かばなかったというのか、彼は。夏樹こそが、たまらない思いに言葉を失くしているというのに。
「使ってくれると、嬉しい」
 真人にしてはぶっきらぼうな言い方だった。夏樹はなにを言うこともできず、そっと彼の手をとる。そのまま押し戴くよう、額を寄せた。
「夏樹……」
 驚いた真人が身じろぐのを夏樹は拒む。そのままじっとしていたかった。ただ一点、額にだけ彼の手の温もりを感じながら。
「夏樹」
 そっと彼が呼ぶ。夏樹の願いも虚しく、真人は手を引き抜いた。が。
 そのままの夏樹を、真人はそっと抱いた。ゆっくりとした呼吸が、夏樹の頬に伝わってくる。温もりに満たされて、夏樹は不覚にも涙が出そうだった。手のひらの中、握りこんだままの根付に、いつしかしっとりと熱が移っていった。




モドル