まだ春真が引き取られたばかりのころのことだった。真人とて独身で子供はいないものだから、どうにも扱いがわからない。夏樹ときたらそれに輪をかけている。
 それでも己の子供時分を思い出し、真人はなんとかしようと努力していた、そんなころのことだった。
「上手だね」
 子供のちんまりとした手が、絹さやの筋を取っていく。真人がするのの三倍ほど時間はかかるが、厭うことなく真人は微笑んで手伝わせていた。
 二人して細かい仕事をしているのを、座敷のいつもの場所で夏樹が見るともなく眺めつつ原稿を書いている。
「これ、どうするの」
 春真が少しばかり照れたように見上げてぽつりと問うた。その頭を撫でたくなってしまうけれど、如何せん、食べ物に触っているからそうもいかない。
「茹でるんだよ」
 さっと湯がいて酢味噌で和えると夏樹の好物になる。さすがに春真は好まないだろう。まして子供のことだ、こんなあっさりとしたものではないものが食べたいに違いない。
 後年になって、真人は後悔する。あのとき、もっとちゃんと説明してやるのだった、と。あんな言い方をしたのでは、切なくなって当たり前だと。
 けれどまだ慣れない真人はこのとき、ただ茹でるのだ、と言っただけだった。
「はい、できた」
「うん」
「ありがとう、上手だったね。春真は頑張り屋さんだねぇ」
 子供と目を合わせ、真人はゆっくりとその頭を撫でてやる。その瞬間だった。真人の手が止まったのは。
「春真……どうしたの、春真」
 大きく開いた春真の目に、ぷっくりと涙がたまっていく。じっと唇を噛みもしないで、ただじっとしていた春真が瞬きをしたとき、ほろりと涙がこぼれた。
 それからだった。堰を切ったよう春真が声をあげて泣き出したのは。わんわんと泣き出した春真に、真人はどうしたらいいのかわからなくなる。
「夏樹……」
 救いを求めて彼を見れば、立ち上がってこちらに来るところだった。す、と膝をついて春真の顔を覗き込む。
「なにを泣いている」
 真人でも、頭を抱えたくなった。年端もいかない子供にそんな言い方をしたらよけいに泣くだけではないか、と文句を言いたくなった。案の定、泣き声が悲鳴じみてきた。
「泣いていてはわからん。言いたいことがあるなら、ちゃんと自分の口で言うんだ」
「……っ、ひ……く」
「春真」
 今にも叩きそうに見えてしまって咄嗟に真人は夏樹の腕を掴む。怪訝そうに見返されたから、本当はそんな気などなかったのかもしれない。
「ちょっと、夏樹」
「泣いているのは春真だ。俺にもお前にもなんで泣いてるのかさっぱりだ。だったら本人に聞くしかないだろうが」
「五つの子供になに言ってるの」
「年が関係あるか」
 あるに決まっているじゃないか。言いかけた真人の声はどんどん激しくなっていく春真の泣き声に遮られた。
 このまま泣き続けていたら体に障るのではないだろうか。幸い、冬樹は健康体だけれど、伯父の夏樹ときたらとことん弱いのだ。春真が丈夫だとは限らない。ましてこんなに小さいのだ。元気な子供であってもどうにかなってしまいそうなほど、春真は泣いていた。
「春真……」
 けれど真人はなにを言っていいかのわからない。どうしたら泣きやんでくれるのか、そもそも泣きやませるべきなのかもわからない。
「まぁ、泣くだけ泣いたら気が済むか」
 夏樹がそんなことを呟いたおかげで、やはり泣き止ませるべきだ、と思う。可哀想でとても見ていられなかった。
「春真、伯父様は放っておいて、僕にお話してくれるかな」
 薄い頬は真っ赤だった。涙と鼻水にまみれて顔中ぐしゃぐしゃだった。涙を拭おうと顔をこするものだから、いっそう酷い。
「なんでもいいよ。ちょっとおしゃべりしようか」
 ね、と顔を覗き込めばまた新しい涙がわきあがってくる。これはお手上げかもしれない。雪桜に連絡を入れるべきか、と思ったとき。
「……お母様に会いたい」
「あ――」
「お父様。……お兄ちゃま。お姉ちゃま。――帰りたい。帰りたいよう」
 あぁ、そうか。やっとわかった。ただ寂しかっただけだ。真人の言葉がたぶん、きっかけだったのだろう。けれどどの言葉が引き起こしたものかは、わからない。
 わからないけれど、春真は家族に会いたくて、会いたくて、ただ会いたくて。もうどうしようもなくってしまった、それだけだった。
 そして幼い子供にとって、それ以上の理由など何もなかった。自分が離れて暮らさなければならない理由も、姉の病気も知ってはいるだろう。だが理解を求めるのはいくらなんでも無謀にすぎる。
 それでも春真は頑張っていた。ずっと頑張っていた。突然、緊張の糸が切れてしまった、それだけ。
「春真……」
 こんな小さな子供をどう慰めてやればいいのだろうか。戸惑う真人の耳に夏樹の言葉。
「帰れないのは、わかっているだろう。お前が帰ってどうする。母親が大変な思いをするだけだろうが」
 はじめて真人は思い切り夏樹を殴ってやりたいと思った。今のいままで、真人は彼に手を上げたことがない。戯れで打ちかかるふりはするけれど、本気で打ったことなどただの一度もありはしない。
「夏樹」
 すぐ目の前にいる彼の頬を真人は思い切り打った。春真が泣き止むほどの勢いで。
「……ひっく」
「あぁ、ごめん。怖かったね。春真を叱ったんじゃないよ、伯父様が酷いことを言ったからね」
 殴られた頬を抑えて呆然としている夏樹には目もくれず、真人は春真の目を覗き込む。はじめて気づいた。この子も夏樹と同じ目をしていると。光の加減か、蒼味を帯びて見える目だった。いまは涙に濡れて奇妙に美しい。
「春真。どうしてもおうちに帰りたいのかな」
 自分でも言葉の選びがまずいとはわかっていた。これでは夏樹と大差ない。それなのに、どこがよかったのだろう、春真はうなずく。けれど、すぐさま首を横にも振った。
「我慢しないでいい。本当のことを言ってごらん」
「……帰りたい」
「うん。そうだよね……」
 なんなら、自分が冬樹の家に手伝いに行こうか。それならば春真は家族の元で暮らせるし、寂しい思いはしないですむだろう。
「でも」
 春真の小さな声だった。ふ、と眼差しをあげれば、最後の涙がこぼれて落ちた。それを指先で拭ってやれば、驚くほどに熱い頬。触るだけで壊してしまいそうで、怖かった。
「……ここにいる。頑張る」
 きゅっと小さな手で拳を握る。一生懸命な子供を慰め励ます術がない。夏樹ならば、黙って腕に抱くだけなのに。そう思って真人ははたと気づく。
「春真」
 そっと腕を伸ばした。途端にすがりついてくる細い腕。けれどぴたりと止まってしまう。ためらうように、戸惑うように。
 だから真人から抱き寄せた。しっかりと腕の中に抱き込めば、しゃくりあげてまた泣き出した。けれど先ほどのような、聞いているだけで胸がかきむしられるようなそれではなかった。
「そっか……」
 こんな、簡単なことだったのか、と真人は思う。ただ抱いてやればよかっただけなのかと。いつでも泣いていい場所を差し出すだけで、こんなに子供は安心するものなのかと思った。
 春真が泣き止むまで、真人は何度も頭を撫でてやっていた。しっとりとした子供の髪の手触り。夏樹の幼い頃はかくもあらんかと思うほどよく似ていたけれど、彼の髪の感触とはずいぶん違う。あるいは、夏樹もまた子供の頃はこんな髪をしていたのかもしれない。
「……ん」
 真人の胸を押すようにして、春真が離れた。目を真っ赤にして、けれど少しだけ笑った。
「春真。お約束をしよう」
「……うん」
「春真はね、とっても頑張り屋さんだと思う。だけど、一人で頑張れなくなっちゃったら、僕に言うんだよ」
「あ……」
 目を丸くした子供に真人は微笑んで見せる。また泣き出されたらどうしよう、と心の中はおびえていたけれど、そんな顔はとても見せられなかった。
「僕も仕事があるから、いつもいつも春真のお話を聞いてはあげられないかもしれない。でもできるだけ、頑張るからね」
 みんな、頑張っているんだよ、とは真人は言わなかった。春真本人も、両親も兄も闘病中の姉も。言わなくとも、いずれ大きくなればわかるだろう。
「うん」
「ほんとね、伯父様も春真を見習ったらいいのにね。こーんな、のんびりさんだものね、伯父様」
 顰め面で言えば、春真がやっと笑った。ぷ、と吹き出して、まだ頬を赤くしたままの伯父を見やる。
「あ……」
 その色に、やっと真人は正気づく。ずいぶん手酷く打ってしまったものだった、と今更ながらに青ざめた。
「ちょっとごめんね」
 春真に断って真人は立ち上がる。流しで布を水に浸して持って戻れば、春真と夏樹が見合ったまま動かない。どうにも相性が悪いのではないかと疑いたくなってくる。
「夏樹」
 真人の呼び声に彼が眼差しを上げた。その目に険がなかったことにほっとする。すぐそばに膝をつき、頬に冷やした布を当てれば、夏樹が小さく笑った。
「ごめんなさい。痛かったでしょう」
「思い切りよくやってくれたからな」
「……ごめんなさい」
 悪いのは、彼だった。その点に関して詫びるつもりはさらさらない。が、これほど酷く打つつもりはなかったものを。
「真人」
 夏樹の腕が伸びてきて、頭をくしゃりと撫でられた。夏樹の頬を冷やしたまま、今度は真人が泣きそうだった。




モドル