眠る夏樹を見ていた。少しばかり眉根を寄せた、つらそうな顔。まだ熱が高いのかもしれない。そっと額に手を置けば、汗ばんでいる。 「ただの風邪だ」 そう彼は言ったけれど、これがただの風邪なのか酷い風邪なのかと問われれば、真人は一も二もなく酷い風邪だ、と答える。 「でも――」 本当に風邪なのか。それすらも疑っていた。日ごろから、決して丈夫な人ではなかった。年に数回はこうして寝付くこともある。 それでもそのたびに真人は何もできない自分を呪いたくなる。ただ黙ってそばにいることしかできない。心配すれば、夏樹は無理をする。だから努めて何もないような、ただの日常でもあるかのような態度を取るのがどれほどつらいか、彼にもきっとわかっているだろう。 「ねぇ」 ぽつりと呟いて、けれどなにを言いたいのかわからなくなった。早く元気になって。あるいは、目を開けて。 そう思ったことで、二度と彼の目が開かないような気がしてしまった真人は強く首を振る。ぎゅっと拳を握り、深く息を吸う。 「……どうした」 すう、と夏樹の目が開いた。祈りのように。真人は息をつくのも忘れて見入る。 「……ごめん、起こしちゃったね」 「いや。ちょうど喉が乾いたところだ」 気にするな、と言うよう夏樹はそっと微笑んだ。やつれた頬が無理を語る。真人は何も言わず、彼の唇に湯冷ましを含ませた。 「茶が飲みたい」 「熱が下がったらね」 「子供じゃあるまいし」 「体が弱ってるときにお茶は毒だよ」 いささか強く言いすぎた、とも思う。それなのに夏樹は小さく笑った。きっと心配しすぎだ、と思っていることだろう。 「原稿、いいのか」 もうすぐ百人一首の締め切りだった。夏樹もそれは知っている。だからこそ、言うのだろう。 「そう思うんだったら――」 早く治して。言いかけて、真人は黙ってしまった。治りたいのは、誰より本人だ。ふと春真の姉を思う。彼女も入院中は何度となくそう思ったことだろう。 「なぁ」 「ん、なに」 「志津子、大変だったな」 「どうしたの、急に」 同じことを考えていたのだな、と思えば嬉しくなる。喋っているうちに浮かんだ額の汗を拭えば、夏樹が心地よさそうな目をした。 「大人の俺でも、寝込むのはつらい。何より飽きるしな」 「飽きてる暇、あるの」 「あるよ。ちょっと調子がよくなるとな」 「そうやって油断して――」 「起きるから治らないんだ、と言うことはわかってるさ」 だったら寝ていてくれ、と言いたいけれど彼にも仕事がある。中々そうもいかないのだと言うことは、真人にもわかっていた。 「あんな小さな志津子が日がな一日寝ていたんだ、ずいぶんつらかっただろうな、と思うよ」 天井を見上げ、夏樹は言う。ほんの少し、真人は嬉しくなる。 もう実家に戻ってしまった春真。けれどもしも春真をこの家で育てなかったならば、彼はこんなことを言いはしなかっただろう確信が真人にはある。 春真をその手で育てて、夏樹にははじめて家族というものがわかった。言葉の上では知っている。弟を家族だと言うことにためらいもなかったはず。 けれど彼らを家族、とは以前は思ってはいなかったのではないだろうか。真人は思う。志津が病気をした。大変だからと泣きつかれて子供を一人預かる。夏樹にとって、その程度の認識だったのではないだろうか。 けれど変わった。春真がいてくれたからだ。夏樹には、冬樹をはじめ、雪桜も春樹も志津も、無論のこと春真も。みな、家族になった。 「早く、元気になるといいね」 志津のことだった。同時に彼のことでもある。退院はしたものの、一進一退、決して全快はしていない志津。 「治ったら、遊びに行くか」 こんなことも、以前は決して言わなかった。それは水野邸が、夏樹の生まれ育った家だから、でもある。 あの母がいた屋敷。母に殺されそうになった屋敷。父に見捨てられた屋敷。孤独を知った屋敷。 夏樹にとって、自分の家、とは思いたくとも思えない場所だった。だから彼は足を向けたがらない。二親の葬儀でさえ、単なる親族として出席しただけの人だった。本来ならば、喪主であるはずの彼が。 「どうした」 黙ってしまった真人を怪訝そうに彼は見つめる。寝乱れてしまった彼の髪を手櫛で直せば、嫌がって首を振った。 「汗ばんでいるだろう。よせ」 「熱があるんだから当たり前じゃない」 「気持ち悪いだろうが」 「あなたがなの。僕は平気だけど」 さらりと言えば、目だけをそらして夏樹は頬を赤らめる。いまだにこんなことで含羞む人だった。 「志津ちゃん……」 「なんだ」 「お土産、なにがいいかな、と思って」 治ったら行く、と言ったのはあなたじゃないか。真人は笑って続ける。その響きの中、彼は聞き取っただろう。本当にいいのか、と。夏樹は目でうなずいて、同じく目だけで笑った。 「さあな、年頃の娘がなにを喜ぶかなんか、俺に聞くなよ」 「僕だって知らないよ」 「俺のほうがもっと知らん」 言い合って、夏樹が小さく笑った。こんな他愛のないことができる幸福、そんな笑みに真人のほうこそ心が温まる。 「お前、いままでなにを持って行ってたんだ」 「志津ちゃんに約束したものばかりかな」 入院中に、約束したのだと真人は言う。退院したらきっと持って行ってあげる、と。早く元気になるんだよ、と言う真人なりの励ましだったのだろう。夏樹はそれを思って微笑んだ。 「えっと。夏の初めにメロンを一箱。その前はさくらんぼをどっさり。春には苺を山のように持って行ったかな」 「おい」 「だって、約束したんだもの。入院中、食べられなくってつまらないって言ってたから」 いくらなんでもやりすぎかな、と思わなくもなかったのだ、真人だとて。けれど志津は殊の外に喜んだ。いまだ完治とは言いがたいから飛び上がって、とは行かなかったけれど、食べきれないほどの果物に、目を輝かせて喜んだものだった。 「一度、食べきれないほど好きなものを食べてみたかったんだって。食が進まなくても、果物なら食べられるみたいだしね」 食が細いのは病気のせいか、それとも夏樹と同じなのか。真人にはわからない。思えば冬樹も健啖なほうではないから、家系なのかもしれない。 「じゃあ、今度行くときには桃でも買っていくか」 「きっと喜ぶよ」 「……そうか」 目を閉じて、夏樹はなにを思うのだろう。いままでさして気に留めてこなかった自分を思うのかもしれない。 それでも今、心にかけることを夏樹は知った。それでいいではないかと真人は思う。ずっと真人だけを頼りに、露貴を友として生きてきた夏樹だった。急に大勢の家族を持っていると自覚して、戸惑うこともあるだろう。それもいいのではないかと真人は思う。 「なぁ……」 「ん、なに」 「志津子も、俺の家族なんだなぁ」 ふと漏らされた言葉が、真人の想像を裏付ける。けれどその響き。わけもなく真人は泣きそうになった。 「そうだよ」 それだけを言ったのに、しかし声はかすかに震えた。夏樹が瞬きをしては驚いて見つめてくる。 「俺がこんなことを言うと、おかしいか」 「ううん、全然」 「じゃあ、なんで」 熱に重たいだろうに、夏樹は腕を上げた。真人の目尻に薄くたまった涙を指先が拭う。 「なんでだろうね。嬉しいのかな」 冷えてしまわないうちに、彼の手を布団の中に戻そうとした。けれどその前に真人はそっと彼の手を自分の手で包む。熱い手をしていた。染み込んでくる、体の熱だけではない熱さだった。 「いま、時間を戻してやり直せたなら。もう少し春真には優しくしてやれたかもしれないな」 「充分、優しかったと思うよ」 そんなことはない、と夏樹は首を振る。どうしていいか、わからないことの連続だったのだろう、彼にも。真人もそうだった。 そもそも、雪桜も冬樹も何か勘違いをしているのではないか。あるいは、そこまで頼ってくれたことを嬉しく思うべきなのかもしれないが、真人も夏樹も独身男性なのだ。女手はないし、子供を持ったこともない。それなのに、小学校にも上がらない小さな子供を委ねられ、毎日が戸惑うことばかりだった。 「お前に、怒られたことがあったな」 不意に思い出して夏樹が口許に笑みを刻む。真人は思い出したくもないことだった。思い切り夏樹を叩いてしまったあの日。 「いまならわかる。あれは、俺が悪い。あのときは、怒られたのだけがわかって、なぜかは、わからなかった」 「……そうだったんだ」 「自分が子供のころにかまわれたことがないせいかな。どう接していいものか、わからなかったんだ」 真人は言葉を失いかけ、強いて微笑んで見せた。夏樹もそうしてくれると助かる、そんな顔をして真人を見ていた。 「いまなら、少しはわかる。普通でいいんだな。ただ、俺にはその普通と言うのが、わからなかったから」 「大人になったんだよ、あなたも」 「なにを今更。いい年だぞ、お互いに」 くっと喉を鳴らして夏樹が笑った。その拍子に咳き込みはしたけれど、嬉しそうだった。 「このまま、髪が真っ白になるまで――」 彼の体をさすりながら真人は言う。いまも黒々とした夏樹の髪は白髪の一筋もないけれど。 「そうだな」 続けられなかった言葉を引き取って、夏樹はうなずいた。その真摯な目が、時折蒼く見える彼の目が、いまでもなお、これほどにも好きだと思える。 「だから、早く元気になってよ」 できるだけ軽く。彼が無茶をしたりしないように軽く言えば、わかっている、と夏樹は呆れ半分でうなずいた。それなのに、夏樹はとても嬉しそうな目をしていた。 |