午後も遅い陽の中、海辺の町を歩いていた。珍しく夏樹と二人ではない。女性編集者が一人、同行している。
 夏樹の言によれば、編集長に是非に、と頼まれたとのこと。その編集長がなにを思って若い女性を男性作家に同道させたのかは、考えなくともわかる。
 真人は知っていながら、一度は無視した。仕事が立て込んでいて同行できそうにない、と言うのもあったのだけれど、気にするのも業腹で無視をした。
 だが、結局こうして追いかけてきてしまった。原稿をわざわざ郵送してもよいようかけあってまでして。そんな自分が鬱陶しくて恥ずかしい。が、夏樹は内心で喜んでいるのに気づいていた。そのことにほっとしてもいる。
 こんな嫉妬深い自分を目の当たりにすれば、いくら彼でも気分を害するのではないか。ここに来るまでの電車の中でずっとそればかりを考えていた真人なのだから。
「よいのでしょうか……」
 編集者が心細そうに真人に声をかける。昨日の晩に到着した真人をどう思っているのかは、知れない。真人も愛想こそよかったけれど気に留めてもいない。
「なにがですか」
 ひとり、前方を夏樹が歩いている。ゆっくりと、何も見ていないような目をしていることだろう。真人には見なくともそれがわかる。彼の手が、腰の辺りで遊んでいた。それすらも、気づいていないのだろうと思うとおかしくてならない。
「篠原先生、ご昼食も召し上がっていないので。大丈夫でしょうか」
「あぁ……」
 そういうことだったか、と真人は思う。慣れてしまっていて、気にしていなかった。彼の背中に目を向けて、いまはまだだめだと思う。
「いいんですよ」
「ですが」
「作家にとって、何より厭うことはその集中を乱されることです」
 真人の言葉に彼女は顔色を変えた。どうやらすでに昨日、何かをやらかしたらしい。
 ただ、彼女本人に遺恨はないので、さすがに若く経験の少ない編集者には酷な話だ、と真人は思う。
 ただでさえ偏屈として有名な篠原だ。彼がなにを望み、なにを嫌うか。そんなものをすぐさまわかれ、理解しろといったところで無茶な話だと思う。
「いま篠原さんは――」
 夏樹の背中が少し遠くなった。ずっと歩き続けているのだから当たり前だ。が、普段ならば真人の声に少し歩調を緩める。いまそれをしないと言うことは、彼には現実の声などまるで聞こえていないと言う証だった。
「ここに居て、居ないんです」
「……え」
「篠原さんは、自分の頭の中を歩き回っている、と言ったらいいんでしょうか。目に入ってくるものを頭の中でもう一度作り上げているんだと思いますよ」
 本当のところは真人にもわからない。真人は最近でこそ多少の文章を書きもするが、作家ではない。自分は歌人で、歌人以外のものになれるともなりたいとも思っていない。
 だからわからない。彼がどうやって小説を書いているのかなど、想像するしかない。その想像ですら、あっている保証などどこにもない。
 それでも、少しはわかる。それはたぶん、長年を共にしてきたからだ。庭に佇み、あるいは座敷のいつもの場所で微動だにせず。そんな夏樹をずっと見てきた。
「だから、邪魔されたくないんです。こういうときには」
 自分の中に没頭していたいと彼はいま望んでいる。何もわからなくても、それだけは真人にもわかる。特にあなたには待つことができますか、と言う問いは含ませなかったにもかかわらず、彼女はうつむいて唇を噛んだ。
「なにか、私がいじめているみたいですね」
「いえ、そんな。とんでもない――」
「昨日少し篠原さんから伺いましたが、普通の作家さんは、あなたのような熱心さを好むと思いますよ」
 彼は異例中の異例ですから。真人は彼の邪魔をしないよう、かすかに笑ってそう言った。
「ですが、お邪魔をしてしまいました」
 しょんぼりとする彼女が少し、わずらわしくなってきた。夏樹と違って真人は決して女性が苦手と言うことはない。だからこれは相性、というものだろう。あるいは、もう若い女性の考えなど推し量るのが面倒な年になった、と言うことかもしれない。
「二度繰り返さなければいいことです」
 ぴしりとした厳しい声。夏樹が振り返っていた。どうやら少し前に現実に帰ってきたらしい。
「お帰りなさい。お腹は、空きませんか」
「いや……まぁ、多少は」
 要らないといいかけたときの真人の眼差しに夏樹は怯む。もっとも、こうして怒ってくれる人がいるから毎日を元気で過ごせるのだと知っている夏樹はそれを嫌がるほど恩知らずではなかった。
「では少し早めに戻りますか」
「いや――」
「……あぁ、そうですね。だったら篠原さん」
「なんだ」
「羽織。着たほうがいいですよ」
 彼女には、なにが起こっているのかちっともわからなかったことだろう。夏樹はもちろん、真人も解説してやるほど親切ではなかった。
「わざわざ持ってきていたのか」
 真人の手にある自分の羽織に夏樹は驚く。道理で真人の着物と色が合わないものを持っているはずだ、と今更に気づく。
 真人は何も言わず、夏樹の肩に羽織を着せ掛けた。無造作に、けれど優雅に袖を通す彼の姿に、真人は見惚れる。真人だけではなかったが、そちらを夏樹は完全に無視した。
「あの、先生。どちらに……」
 宿に戻るのではないのか。彼女の声に含まれた戸惑いに夏樹は振り返りもしなかった。だから結局、真人が話すことになる。
「夕陽が見たいようですよ」
 彼女は真人の顔をまじまじと見上げていた。そんなことは一言も言っていなかった。夕陽のゆの字も出ていなかったではないか、いまの会話では。
「ここまできたなら、せっかくの夕陽ですから。見ない手はないでしょう」
「あの。水野先生は、作品の内容をご存知なんですか」
「いいえ。知りませんよ。いまなにを書いているのかも知らない」
 からりと真人は笑う。行ってしまった夏樹を追いかけながら。それでも並んで歩きはしない。また彼が幻想の中に戻って行ったのを感じている。
「作中に、夕陽が出なくとも、見たいんじゃないんですか。もしかしたらどこかでその印象を使うことになるかもしれないから」
「印象、ですか」
「別に現実のそれを描く必要はないでしょう。そのものを写実として欲しければ写真を撮ればいいんです」
 それはそれで写真家に怒られそうな言ではあるが、真人としてはそう言うしかない。こればかりは真人にもわかるのだ。作家ではない、けれど歌人だ。目の前にあるものを現実としてではなく詠む。現実を詠みながらも、そこに自分と言う幕が一枚ある。彼がしているのも、そういう作業なのかもしれない。
「琥珀」
 田舎町の寂れた港だった。小さな漁港、と言うもはばかられる風情。そこに夏樹は立って真人を呼ぶ。振り返りもしないのは、わざわざ「琥珀」と呼ばねばならない苛立ち。
「はい、篠原さん」
 真人はわざと、彼を呼ぶ。今ここに、自分たちだけではない人がいる。しかたのないことだとでも言うように。夏樹は黙って前を見たまま、うなずいた。
 夕暮れが、迫ってきていた。見ている間にも、陽が落ちていく、海の中へと。ゆっくりと、ゆっくりと。けれど確実に。
「あぁ」
 しばらく経ってから漏らされた声は、真人への返答だったのか、それとも彼にだけ聞こえる何かへの言葉だったのか。夏樹の手が、また腰の辺りで遊んでいた。
「そんなにいじると、夢を見られますよ」
 二人の背後に立っている彼女には、この声をかけていい時といけない時の区別はつかないのだろうな、と真人は思う。
「夢。なんの話だ」
「蛤。蜃気楼は、大きな蛤の見る夢だって、言いませんか」
 真人の眼差しが、彼の腰へと向けられる。そこにある、蛤の根付に。昨日、真人がこの町の骨董店で求めたものだった。真人の腰には、彼が買ったと言う鮑の根付がある。
「あれは、蜃と言う貝だ。蛤じゃないだろう」
 自分の仕種に気づいたのか、夏樹は真人のほうをちらりと見て、目だけで微笑んで見せた。彼にとって煙草入れは必需品だ。中には多少の文房具が入っている。それを下げるための根付もまた、日常の道具だった。それは真人にとっても同じこと。
 お互いに見つけたから、と言って自分のものではなく相手のものを買ってしまったところに、そこはかとない幸福とおかしみを覚える。
「僕は蛤だって聞きましたけどね」
 ちらりと根付を見つつ、別の蛤を話題にすれば夏樹がまた目だけで笑った。蛤は決して他の貝とは貝殻が合わないのだ、と言う。だから相愛であり和合の象徴ともなる。真人に贈られたそれがよほど嬉しかったと見え、夏樹は煙草入れの根付を付け替えていた。気に入りのものに頻繁に付け替えるから、そのぶん煙草入れ自体はあっさりと細工のないものにしている。そのあたりも彼の趣味のよさだ、と真人は微笑みたくなる気持ちを抑えていた。
「まぁ、似たようなものか」
 小さく、けれど篠原忍が声をあげて笑っていた。そのことに彼女は驚いたのだろう、声を出さないよう口許を覆っていた。
「大陸では――」
「あぁ。海市と言うらしいな」
「出典、なんでしたっけ。僕も何かで読んだな」
「さぁな。志怪小説の類じゃないのか」
 言葉を交わす間にも、ゆるゆると陽は落ちていく。まるで食べられそうだ、と真人が思ったときに彼が口を開いた。
「でかい蜜柑みたいだな」
 あろうことか、それが作家の言葉か、と思えば頭を抱えたくなる。こんなに綺麗な夕陽を眺めて、言ったのが蜜柑ときた。
「篠原さん、お腹空いているんでしょう」
「まぁな」
「だからそんなことを言う」
「お前なら、どう言う」
 言葉にする、それは歌を詠むことだと夏樹は思っているらしい。あながち間違いではない、と真人は思う。けれどそっと笑って首を振った。
「僕に、これは詠めないな。あんまりにも……言葉がない」
 口にしてみて、夏樹の思いがやっとわかった。なにをどう表現してもしきれない。だから蜜柑だなどと言った彼の気持ちが。こんな気持ちのときには寄り添いたくてたまらない。それなのにやはり、背後には邪魔者がいるのだ、と真人は小さく溜息をつく。そんな彼を夏樹が笑った。



※参照・琥珀篇外伝「磯の鮑」




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