座敷のいつもの場所に夏樹はいない。代わりに真人が座っている。そこから庭に射す月光の下、佇む夏樹を見つめていた。
 小説の構想を練っているのだろうか。じっと梅の木を眺めているようで何も見ていない彼の姿。その端正な佇まいを眺めるのが真人はたまらなく好きだ。
 それでも、いい加減に風が出てきた。彼を横目に見つつ真人は茶を淹れる。普段とは違う、熱い茶だ。す、と立ち上がり羽織を手に取り庭下駄を突っかけた。
「夏樹」
 いつまでも見ていたかったけれど、また彼の邪魔はしたくはなかったけれど。そんな真人の感情がありありと窺える声だった。
「あぁ……」
 だからかもしれない、夏樹がすんなりと現実に帰ってきたのは。真人の手にある羽織に目を留め、小さく微笑む。
「風が出てきたからね」
 彼の肩に羽織を着せ掛け、真人はお節介をしたかな、と呟く。応えて夏樹は首を振った。が、その目が浮かない色を宿している。
「どうしたの」
 やはり、邪魔をしてしまったか。真人の言葉にしない声に夏樹は首を振る。そして彼の頬に手を添えた。まるで何かを確かめでもするように。
「本当に。どうしたの、夏樹」
「いや……」
「ね、どうしたの」
 あえて何事もないのだ。なんの心配もない、そう言って笑う真人の声。いつもこの声に励まされる。夏樹はそう思う。
「……いや。妙に、顔色が悪く見えて。それで」
 急に心許なくなってしまった。呟く夏樹の声に胸打たれない真人ではなかった。頬に添えられた彼の手に、自分の手を重ねれば温かい。
「どうしたんだろうな、本当に。月光のせいかな」
 庭に射す月の光のせいにすれば、真人が笑う。ふと空を見上げ、梅の木に目を向ける。そして夏樹にも。
「僕には、なんだか暖かい色に見えるんだけどな」
「おかしなやつだ。月光は青白い、と相場が決まっているものを」
「どうして。僕にはそう見えるって言うだけなのに」
 決まりごとがなんだと言うのか。それでも作家か、と言われた気がして夏樹は目を瞬く。彼の言うとおり、改めて月光を見る。けれど夏樹の目にはやはり月の光は冷たく見えた。
「僕には――」
「なんだ」
「あなたがいるからかな。月の光の下に立つあなたがとても綺麗で。だから、温かくも見えるのかな」
 目を細め、まぶしいものでも見るような真人だった。さやかな光だと言うのに。
「おかしなことを言うやつだよ」
 ふ、と夏樹は顔をそむけた。真人がそれを密やかに笑う。照れたのだと、真人はわかっていた。
「もう少し……」
 彼の横顔に真人は言う。そこにも月光が当たっていた。青白いのに、真人の目には柔らかな色に見える。甘くすら見えて、とても不思議にも思う。
「なんだ」
「ん。もうちょっと、庭木の手入れをしたほうがいいなって、思ったの」
 多少のことならば自分でしてしまう真人であっても、庭木の本格的な剪定となれば手に余る。あちらを切り、こちらを整えしているうちに、ずいぶん枝振りが乱れてきたように思う。
「まぁ、風情があっていいさ」
 たぶん、庭師が入るのが嫌なのだ、彼は。編集者ですらこの家に来るのを嫌がる夏樹だ。目の前で立ち働かれるのはぞっとするのだろう。
「そうは言うけどさ。もうちょっと、なんとかしたいよ、僕は」
「月を見るにはこのくらいのほうがいい」
「そうかなぁ」
 夏樹が言うのも一理はある。確かにそれは認める。完璧に整えられた庭園より、少しばかり荒れた庭のほうが月には似合う。
 とはいえ、それは例えば旅先であったり、他人の家であったりするならば、のことだ。日常暮らす我が家となれば話は違ってくる。
「蚊が出るよ」
 ぼそりと言えば夏樹が盛大な溜息をついた。天を仰いで大袈裟なほどに落胆して見せるから、真人はつい笑ってしまう。
「まったく。情緒というものを解さん男だな、お前は」
「それは僕じゃなくて、あなた。蚊に食われたって嫌な顔をするのは僕じゃないでしょ」
「それは……」
「蚊取り豚は煙いからそばに置くのも嫌って言うくせに、食われたって文句言うんだから」
「あれは、煙いだろうが」
「まぁね」
 実は違う。夏になると縁側でぐったりと寝そべってしまう夏樹をからかって、真人は彼のすぐそばに蚊取り線香を置くのだ。あれでは煙くて当然だ、と思ってもいる。
「ほんと、多少はなんとかしないとね」
 天を衝くように梅の若い枝が伸びている。根方の水仙もずいぶん増えた。株分けしてやったほうがいいのかもしれない。
「ねぇ、夏樹」
「お前に頼む」
「まだ何も言ってないじゃない」
「俺にやれと言っても無駄だからな。お前がうちに来る前は、手入れなんぞしたことがない」
 それは胸を張って言うようなことではない、と真人は思う。もっとも、長い付き合いだ。彼に頼む無駄は疾うに悟ってもいる。
「ほんと、僕が来る前はどうしていたんだかね」
 ちらりと夏樹を見て真人は言う。特に意味は持たせていないよ。そんな目をしていたにもかかわらず、夏樹はかすかに怯む。
「あぁ、そっか」
「なんだよ」
「そうだよね、うん」
「おい」
「別に露貴さんにしてもらってたのが悪いなんて僕は言ってない」
「いま言ってる気がするのは気のせいか」
「被害妄想って、知ってるかな、あなた」
 からからと真人が笑う。夜気の中に真人の笑い声が立ち上っていくのが見えるようだった。あんまりにも風情のある月夜に、なんという会話だろうと夏樹は頭を抱えたくなったけれど、真人は機嫌よく話してもいる。彼の示すとおり、他意はないのだろう。ない、と思いたい。
「まぁ……迷惑はかけていたけどな」
「露貴さんは――」
 ふと言葉を切り、真人は梅の木を見やる。自分が転がり込むより前にあった木だった。きっとあの梅の手入れも、露貴がしていたのだろうなと思えばなんとも言えない心持ちにもなる。
「なんだよ」
 少しばかり機嫌を損ねた夏樹の声だった。本当は、露貴のことを話題にされたくないのではないかと真人は疑ってはいる。
 が、真人も人の子だ。昔のこと、と割り切っていてもたまには何事かを言いたくもなる。夏樹の思いが彼にないことは重々承知。
 ただ、露貴が今でも夏樹一人を思っていることを真人は知っている。桜亡き後、他の人との間に露貴は子を持った。まったく世間的にはごく当たり前の男に見える。
 それでも、けれど。露貴にとって夏樹はただ一人。その露貴が、なぜ自分に彼を託してくれたのかが、真人にはいまだによくわからない。
 たぶん、と思わなくもないことならば一つある。夏樹が真人に心を向けたから。夏樹の意思を重んじて、露貴は真人を受け入れた。
 たったそれだけのことだと、真人は理解している。自分ではなく、夏樹が愛した者だから託した。そこに真人個人はいない。
 そこまで言ってしまっては言いすぎか、とも思う。いまはどうだろうか。多少は信用されていなくもないだろう。それでも最初はたぶん、そうだったのだと真人は思う。
「露貴さん、元気かな」
 度々この家に遊びに来る彼だけれど、ここのところ顔を見ていない。自分が留守のときに遊びに来ているせいだ、と真人は思う。
「まったく。お前と言うやつは」
 今度こそ本格的に夏樹は苛立った声を出した。ぷい、と背を返して部屋に戻っていくのを、真人は背中で感じていた。
 そして座敷に上がり込んでいつもの場所に座った夏樹。苛々しながら普段どおり湯飲みに手を伸ばし、一口飲んでから、ちょうどいい温度と気づく夏樹。そしてまだ庭に佇む影を見る夏樹。
 真人はすべてを背中で感じていた。前を向いたまま、小さく微笑む。こんなにも、手に取るように彼のことがわかる。
 だから、わかって欲しかった。露貴のことは気にしていないと言えば嘘になる。けれど、気になっているわけでもないのだと。
 同情ではない。譲ってやる気はさらさらない。それでも、夏樹にとって露貴が必要ならば、彼がここに遊びに来るのを止める気などないのだ。
「ねぇ、夏樹」
 梅の木を見たまま、真人は言った。夏樹が返事をしなくとも、自分を見ているのを知っていた。
「露貴さんに言っておいて」
「なにをだ」
「たまには会いたいって僕が言ってたって」
「……嘘をつけ」
 苦い声に真人は振り向く。この顔を、夏樹に見て欲しかった。自分のこの目が嘘をついているものなのか、彼に見て欲しかった。
「夏樹」
 彼は見た。いまだ苦い顔をしたまま、だからうなずいた。小さく笑い、真人は縁側に腰を下ろす。
「露貴さんのこと、僕は好きだよ」
 彼が自分をどう思っていようとも。彼がいなければ、夏樹は死んでいたのだから。夏樹を生かしてくれた人だから。露貴がいなければ、自分は夏樹に会えなかったのだから。
「気分が悪いな」
「なにが」
 苦さのいっそう増した声に、真人は驚いて振り返る。その顔に向けて、大きなものが飛んできた。よける間もなく受け止めればまだ温かい。夏樹が今のいままで羽織っていた、羽織だった。とても心地良いけれど、それも頭に被さっていなければ、の話だ。
「お前が俺以外にそう言うのは、意味が違っていても聞きたくない」
 顔に絡まりつく羽織に苦闘して、真人は夏樹の顔を見ることができなかった。そして気づく。見せないためにこそ、羽織を投げつけたのだと。
「あなたってば」
 笑った拍子に、ようやく羽織がほどけた。夏樹の羽織に包まって見せ、真人は微笑む。それ以上は何も言わず、ただ微笑む。夏樹は無言で茶をすすっていた。




モドル