夏樹はふと夢想から覚めた。いつものよう、庭に立っている自分。目の前にある梅の木。何も普段と変わらない。
 それなのに何かある違和感。じっとそのまま立ち尽くす。そして気づいた。背中に当たる彼の眼差し。それだけがいつもと違った。
「どうした、真人」
 振り返れば、驚いたよう目を丸くする彼がいた。いつもならば真人はそこでふわりと笑うだろう。けれどいまはどことない苦さを滲ませて笑んだ。
「ん……ちょっと」
 それで誤魔化されると思っているのだろうか、真人は。夏樹は黙って縁側に腰掛ける。何も言わないうちにぬるい茶が出てきた。
「それで。どうしたんだ」
「そんなに……変だったかな」
「まぁな」
 どこがだろう、と首をかしげる真人に夏樹は微笑む。わかっていない辺りが、愛おしくてならなかった。
「いつもと、目が違う」
「見てなかったくせに」
「わからないとでも」
 眉を上げて殊更めかして言ってのける。やっと真人が朗らかに笑った。それで、深刻な話題ではないのだ、と夏樹は内心でほっと息をついた。
「今度の百人一首、良暹法師の歌にしようと思っててね」
「さびしさに宿を立ち出でてながむれば――か」
「うん、そう」
 夏樹には、平易な歌のように思える。だが歌人の真人には違う感想があるらしい。思えば自分にとってわかりやすい歌ほど、真人は悩む傾向にあるらしいということに夏樹は気づいていた。
「なんだかねぇ」
 言って茶をひとすすり。それから茶菓子に出してあった餡団子を一口かじる。どうも悩んでいるようにも見えない真人だった。
「自信、失くしそうだよ」
 言葉を待つ間に同じよう、餡団子を食べていた夏樹はうっかりむせて喉に詰まらせるところだった。慌てて真人が背中を叩いてくれる。
「おい」
「ごめん。……でも、どうしたの」
「お前が自信を失くす、なんて言うから驚いたんだろうが」
 その剣幕にこそ、真人は微笑んだ。こんな風にあるかどうかも自分ではよくわからない歌の才能を認めてくれている人がいる。頼りない心持ちになっているいまは、何よりもありがたかった。
「でもね、本当なんだ」
「どこがだ。良暹法師の歌はそれほど難解と言うわけでも――」
「そこだよ、夏樹」
 やはり、深刻さには欠ける。また真人は団子を口に運んだ。唇の端に餡がついているのを指先で拭って笑えば、照れて真人がそっぽを向く。
「だから、どこがだ」
「真面目に聞いてくれないの、あなたじゃない」
「どうもそれほど悩んでるように見えなくってな」
 眼差しで団子を示せば、お腹が空いて、などと小さく呟く。空腹を覚えるうちはたいして心配は要らないだろう、とやはり夏樹は安堵した。
「戻すよ。良暹法師の歌。すごいと思わないのかな、あなたは」
「例えば、どこがお前はすごいと思うんだ」
「ん……。秋って、寂しいものだって言うのは言ってみれば定型句だよね」
 それは夏樹にもよくわかる。単純かつ簡潔に寂寥を表現したいのならばただ秋、と書けばいい。実際はそうも行かないのだが、理解はできる。うなずけば、真人もこくりとうなずいた。
「言葉の問題として、だけど。寂しいってさ、言って伝わるものじゃないと思わない」
「例えば」
「ん、だから。あなたがいないから寂しいならさ、涙で袖が濡れた、とか言うわけじゃない。それも定型句だけど」
「あぁ、なるほどな。修辞の問題か」
「そうそう。あっさり言わないほうが、ちゃんと伝わったりするものじゃない」
 我が意を得たり、と真人が笑う。笑ってまた、団子を食べた。夏樹ももう一本、串に手を伸ばす。そっと微笑んで真人は言う。
「いまだったらね、あなたが二本も団子を食べたんだって言えば、どんなに僕が嬉しく思ってるか、伝わるじゃない」
「普段の俺の食の細さとともにな」
 幾分、不機嫌に夏樹は言う。これで健啖ではないことを多少は気にしているのだ。うら若き乙女でもあるまいし、食が細いというのは決して褒められたことでもない。
「まぁね。でもただ嬉しいって言うより、伝わるでしょ」
 夏樹は団子を食べつつうなずく。本当は、みたらしのほうが好きなのだが、真人はよく餡団子を買ってくる。
「それなのにさ、良暹法師の歌は最初っからさみしいって言うんだよ。もう、信じられないよね。どうしてなのかな。あんなにあっさり言うのに、どうしてこんなに身に迫って苦しいほどなのかな」
 真人の眼差しが庭へと流れた。どこを見ているのでもないのだろう。あるいはそれは自分の歌を見ている、と言うべき目だったのかもしれない。
「お前の言うことは、まぁ。もっともだろうな」
「でしょ」
「だがな、真人」
 少しばかり強い声を出せば、ふと真人が帰ってくる。それまで思いをさまよわせていたことに気づいて、そっと笑って見せた。
「一言で告げて伝わらない。これはもう嫌と言うほどよくわかる。だからそこに表現と言うものが生まれる」
「うん……」
「あの手この手で言葉をひねくり回して、なんとか伝えようとするのが物書きだろうな」
 夏樹は言う。真人には、夏樹が言わなかった言葉が不思議とわかる。二人の過ごしてきた時間というものが生む共通理解だった。
「僕もね、あなたにだけ、伝わればそれでいいとも思ってる。でも、たまに不安になる」
 真人の手が伸びてきた。軽く夏樹の指先に触れ合わせ、それ以上は触ろうとしない。
「本当に、僕のこの思いが伝わってるんだろうか。あなたに、僕の思いを余すことなく伝えることができてるんだろうか。もしかしたら、良暹法師のように単純にあっさり言ったほうが、より伝わるんじゃないだろうか。そんな風に思うこともある」
 言葉を尽くせば尽くすほど感じるもどかしさに、真人は身悶えした。いまこの瞬間の言葉すら、完全に伝わっているとは言い切れないその不安。
「真人」
 だからなのだろうか。夏樹はごく単純に名を呼んだだけだった。それなのに真人は、はっとする。
 声の響きだろうか。抑揚だろうか。それとも別の何かだろうか。たしなめられた。きちんと通じていると請合ってくれた。限りない愛情を伝えてくれた。この自分にだけは、誰に通じなくともわかっている。そう言ってくれた。ただ、名を呼ぶだけで。
「ほんと、自信なくなっちゃうよ」
「おい」
「ん……。僕は歌詠みだからね。たった三十一文字の中に、どれほどあなたへの思いをこめられるのか、いつも思う。それなのに、あなたときたら」
「そりゃあ、まあ。こっちはいくらでも字数は使えるからな」
「そうじゃないよ。いま、あなたは何をしてくれちゃったわけ。僕の名前を呼んだだけ。それなのに、あなたときたら」
 本当は、わかっているだろう。とぼけて見せてくれただけだろう。呆れ顔の中、目だけが笑い真人は言う。そしてその目が開かれる。
「……なんだ」
 いま自分は彼と同じことをしたではないか。そして間違いなく、通じているではないか。夏樹を見ればわかる。
「通じてるよ」
 あえて励ますよう言ってくれた。真人はうなずく。それでも良暹法師への羨望はなくなりはしなかったけれど、自分は自分の生き方しかないのだということが、今更ながらにわかった気がする。
「ほんとは、たまにちょっと羨ましいのかも」
「ん、なにがだ」
「あなたが。たくさんたくさん言葉を使って色々なことを言ってくれるあなたが、ちょっと羨ましいなって思う」
 その真人の言葉に夏樹は大きく笑い、ついで渋い顔をわざわざ作って見せる。身を乗り出して、真人の顔を覗き込む。
「お前ね、わかってないな」
「え。なにが」
「小説ってのは字数をかければいいってもんじゃないぞ。ほとんどどれだけ削るかが勝負みたいなもんだ」
「え、そうなの」
「少なくとも俺はな。何でもかんでも文章にするのは、野暮と言うものだ」
「野暮、ねぇ」
「花がないと言ってもいいがな」
「秘してこそ花ってやつなわけ」
 首をかしげてもっともらしく問うて見せれば嫌な顔をされて、真人は笑う。
「わかってるなら聞くなよ」
「今わかったんだよ」
 ゆっくりと、真人は深く息を吸う。庭木の匂いがする気がした。家の匂いだ、と真人は思う。土の匂い、葉の匂い。どこからか漂ってくる、夕飯の匂い。
「カレーが――」
「カレー、食べたいね」
 二人同時に言って顔を見合わせ、笑ってしまう。どうやらご近所の夕飯はカレーらしい。
「今度、あなたの好きなカレーにしようか」
「俺の。なんだ、それは」
「ほら、ちゃんとご飯とカレーが別れてるやつ。あなた、好きじゃない」
 ずいぶん前のことのように思う。ふと子供時分の思い出に唇をほころばせた自分をいまだに真人は覚えていたのか。その思いにこそ、夏樹は微笑む。
「今日は」
「鯖の焼いたのとほうれん草のおひたし。あぁ、そうだ。こないだ作った烏賊の塩辛がそろそろいい具合かな」
「じゃあ」
「ん、ちょっと飲もうか」
 すらりと真人が立ち上がる。すっかりと落ち着きを取り戻したのだろう。
「なぁ、真人」
 台所に行く間際に呼び止めた。不思議そうな顔をする彼から眼差しをそらし、夏樹は庭を見て言う。
「あんまり悩むな。お前自身がどう思おうが、俺はお前の歌が好きだよ」
 真人は答えなかった。答える言葉がないのだと夏樹にはわかっている。今ここで、歌を詠めたならば真人はそうしたことだろう。それすらもできなくて、ただ息を吸う。
「……塩辛に、初物の青柚子。落としてあげるよ」
「食い物で釣るな」
 台所に立ち去る真人の足音が、弾んで軽かった。夏樹は庭を見つつ、小さく笑う。




モドル