「ねぇ、夏樹。この家って――」
 ふと問いかけてしまってから、真人はぬかったとばかり口をつぐんだ。振り返ってしまったから、目をそらすこともしかねる。そんな真人の前で夏樹が密やかに笑っていた。
「変に気を使うな。この家がどうした」
「ん……」
 真人は問おうとしていた。夏樹の父のことを。逸早くそれと悟った彼が微笑んでくれたからこそ、ためらってしまう。
「いいから言え。気になるだろうが」
 まるでなんでもないことのようだった。彼は言う。もういい年なのだ、いつまでも子供の頃の心の傷がどうのなど言うつもりはない、と。
 言えば言う分、真人は彼の傷を思う。いまだに体の古傷ですら痛む人なのに。心に負ったそれが痛まないはずがない。
「真人」
 更に促され、真人は重い口を開く。すでに後悔していた。
「いまさ、河原院のことをちょっと考えてて、それで」
「あぁ、源融の屋敷か」
「うん。持ち主が変わって、色々あってって。そんなこと思ってたから、ついね。ごめん」
「気にするな。それで、どうした」
 ただの他愛ない日常の雑談だ、夏樹はそう笑う。真人はここまできてしまったからには致し方ない、自分の軽率が招いたことだと覚悟を決める。
「あなたの――お父様の家だったんだよねって、思って」
 自分たちが住み暮らすこの家。一時は春真の家ともなったこの家。かつてここには彼の父も暮らしていたのだと思うと、時間の流れを感じた。
 けれど夏樹は小さく驚いた声をあげる。それから珍しくからからと笑った。
「違うぞ。父の家、じゃあない」
「え。そうなの。でも――」
「お前には、ちゃんと話したことがなかったな……」
 夏樹の眼差しが書棚へと流れる。そこには蔵書に混じって一冊の日記帳が納めてあった。革表紙の、重たい本と言ってもいいものだ。彼の父の、手記。夏樹に宛てた、読ませるつもりがあったのかどうかもわからない、遺言。
「ここは、薫さんの家だよ」
 夏樹の父がただ一人愛した人だという男の名を彼は上げた。それから辺りを見回す。改めて、ここにその人が住んでいたのだと思いを巡らせているのだろう。
「そうなんだ……。その、いつごろなのかな。聞いても、よかったら」
「だから一々と気にするな。別にかまわん」
 言ってから、夏樹は首をかしげる。時間に思いを馳せているのだろう。その間に真人は彼のために茶を淹れた。嫌なことを話させてしまう代り、と言うわけではないけれど、上等な羊羹も切って出した。それを彼がそっと笑う。
「二人は、親父殿の結婚の前から付き合っていたらしいな、と言うより――」
 薫は夏樹の母、千尋の従兄であったのだと夏樹は言う。そして二人を引き合わせたのもまた、千尋であったと。
 いつかそれだけは聞いたような気がした。はっきりとではなかったかもしれない。あの時の夏樹の重たい口調を思い出しそうで、真人は強いて今に集中する。
「そんなわけで親父殿は薫さんと引き離されて、水野の本邸に軟禁だ。薫さんも同様だったらしいがな」
 夏樹の目は、日記帳に据えられたままだった。まるで読んでいるようだ、と真人は思う。あるいは、覚えてしまうほど繰り返し読んだのかもしれない。真人の知らないところで。
「父を軟禁から解放する、と言うより二人がもう一度会えるようになるには、なにが必要だと思う」
「必要って……そんなの、わからないよ」
「簡単だ。俺だよ」
「え――」
「正確には、俺、と言うより水野の跡取りだな。薫さんは、父にそれを薦めた。跡取りさえいれば、親族どもも文句は言うまいとな」
「そんな」
 真人は絶句する。言葉がなかった。愛する人に他の女との間に子供を作れという薫の気持ちもわからなければ、作ってしまった夏樹の父の気持ちもわからない。あえて、彼の母のことは考えたくない。
「跡取りができるまでは会わない、と言って薫さんが姿をくらました先が、この家だ」
 話がやっと戻って、真人は本題を思い出す。こんなことをうっかり尋ねたりしなければよかった。つくづくと悔いた。
「そんな顔をするな。今は、俺たちの家だ」
 夏樹の声にはっとして顔を上げる。彼は、心からそう思っていた。父のこと、母のこともいまは遠い昔のことだと彼は眼差しで語る。痛みがないわけではない。それでももう、昔のことだと。
「うん……」
 それでもまだうつむき加減の真人の髪を夏樹は指で梳き、小さく微笑む。父にもまた、こうして案じてくれる愛する人がいた、と。
「それにしても、薫さんと言う人は諧謔の趣味でもあったのかな」
 朗らかな笑い声に、真人は顔を上げた。夏樹はと見れば、実に面白そうな顔をして家裡を見回している。
「ん、なんで」
「よく考えろ、と言うより、思い出せ。お前、はじめてこの家を見たときにどう思ったんだ」
「そりゃあ、まぁ。どこから見ても囲われ者が住んでるような――」
「だろ」
「あ」
 にんまりと笑う夏樹に、真人は呆気に取られる。この家は、どこから見ても確かに男所帯ではない。古い、風情のある家ではある。あるいは、風情がありすぎる。そもそも、なぜ黒板塀で囲うのか。どう見ても、芸者上がりの妾を住まわせている、と言うのが適当だ。確かに真人は思った、はじめてこの家を見たとき、見越しの松があれば完璧にその景色だ、と。
「元々あった古家を薫さんが買ったのか、それとも薫さんが建てた家なのか、そこまでは俺も知らない。どっちにしても、わざわざ黒板塀だからなぁ」
「でも、それって。その、お父様は」
「気づくような男か、あれが」
 蔑みの言葉ではある。が、明るく夏樹はそう言った。なんの遺恨もいまはない、そう声音で示すように。
「でもさ、あなたが知ってるお父様と、薫さんが知ってるお父様は、違ったんじゃないのかな……」
 ぽつりと漏らされた言葉に、夏樹はそっと微笑んだ。そのとおりだ、と思ってはいる。かすかに記憶がある。幼すぎて、はっきりとした覚えではない。が、確かにあれは薫なのだと今は思う。美しい人だった。共にいる父は、いつになく楽しげで、父まで美しく見えた。
「違っても、それでも下情に通ずる、とは行かなかったようだな」
「そっか、そうだよね」
「まぁ、子爵ご本人だからな。それを言えば、薫さんも華族の若君ではあったんだが」
 完全に、他人事のよう夏樹は言う。真人としては不思議でもある。彼自身、華族の若君であった時代があるし、いまでも所作の優雅さは充分に上流の出身を思わせる。
 もっとも、思い出したくないことなのかもしれないし、そもそも爵位を弟に継がせたい母に殺されかかったのだから、自身を旧華族の子弟と思いたくないのも当然かもしれない。
「不思議な人って言うべきなのかな。それとも、知っててやったのかな、あの塀」
「俺は知ってたほうに賭けるね」
 どうして、と首をかしげれば、夏樹が笑う。そして真人の強張った手を取り、両手の間に挟んで軽く叩いた。取られて真人はようやく知る。ずいぶん緊張しているのだと。苦笑して見せれば、肩をすくめて彼は笑って見せた。
「ねぇ、どうして知ってると思うの」
「特に根拠はない。強いて言えば、それくらい図太い神経をしてないとあの父とは付き合えんだろうな、と」
「図太いって、あなた。けっこう失礼じゃないの、それって」
「どこがだ。あの父のたった一つの幸福だ。感謝しこそすれ、貶める意図は微塵もないぞ」
 夏樹は言った、感謝と。さらりと言われた言葉だからこそ、真実を感じる。真人は自分こそ、感謝したくなる。すべてに。
「手記を読んでても、わかったことだがな。父は、薫さんがいても、夢の中で生きてるような男だった。世界は自分と薫さんだけで出来てると思ってたとしても、まったく何の不思議もないくらいに」
「それは……」
「恋と言う意味では、間違ってはいない。お互い、覚えがあることではあるよな」
 にやりとされて真人は頬が赤らむのを覚える。そっぽを向いても、手はまだ彼に包まれたままだった。
「だがな。生きると言うのは、そういうことではあるまいよ」
「日々生活はあるしね。食べるもの、着るものを買うにもお金はかかるしね」
「飯を食えば出るものも出る」
「ちょっと、夏樹。いくら僕相手でも、そういうことは口にしないで」
 ほんのりと頬を赤らめて言うものだから、いまどき珍しい乙女のように見えてしまって、夏樹は自分は目が悪いのではないだろうかと思う。
「口にしなくとも、お前は普通に知っているわけだ」
「当たり前じゃない」
「父にはたぶん、それがわかっていなかった」
 そんな馬鹿な、と言うことは簡単だった。生きていた、夏樹と言う子供を作った。身体の生理反応を知らないはずがない人。だが、しかし。
「生きている、と言うことが、わからない人だったんだろうと、俺は思うよ。そんな男をよくぞ薫さんは幸せにしてくれたものだと思う」
 改めて納得したのだろう、自身の言葉に夏樹は自分でうなずいた。
「たった一つの幸福の思い出を、お父様はあなたにくれたんだね」
 真人の言葉に、はっとして彼を見る。わかっていたことだった。手記を読んで以来、わかっていたことだった。が、真人に言われると、胸の中に痛いほどの温もりを覚えると知る。
「薫さんがいて、お父様がいて。あなたが住んだ。それから、僕が転がり込んで。ハルもちょっとここに住んだよね。――この家は」
「ずいぶん色々を見てきたわけだな」
 すう、と夏樹の眼差しが遠くなる。その顔に浮かぶのは、安堵か、それとも寂寥か。どちらでもあり、どちらでもない、真人はそう思う。
「近いうちに、この家を主人公にでもして、書くかな。俺の気持ちの整理にもなるだろうよ」
 真人は何も言わず、黙って冷めた茶を淹れなおした。ぬるい茶に夏樹が微笑む。




モドル