座敷の定位置で原稿を書いていたら、ふらりと春真が遊びにきた。相変わらず学校帰りの制服のままだった。
「なんだ、来たのか」
 ぶっきらぼうに言ってもさすがに甥だ。編集者のようにひるむことはない。
「来ちゃ悪いわけ」
 むつりと言うけれど、どことなく顔が笑っている。一度そのまま縁側に腰を下ろしかけ、ふと心づいたよう家裡を見回す。
「真人なら留守だ。残念だったな」
「別にそんなんじゃないから。可哀想な伯父貴が一人寂しく仕事してるんじゃないかと思って見にきてあげたんじゃんか」
「別に寂しくはないが」
 互いに言い合って、けれど春真が吹き出した。くつくつと笑いながら勝手知った家に上がりこみ、茶の用意をする。真人がいないときには自分がするもの、と心得ているらしい。
「はい、お茶」
 可愛い甥が顔を見せに来たんだから休憩くらいしなよ、と言い添えて春真は湯飲みを差し出す。夏樹は何も言わずに受け取った。むしろ、何も言えなかった、と言ったほうが正しい。
 決して可愛くないと思っているわけではないのだが、いささか手に余ると思うことも多々。
「まずい」
「うるさいな。真人さんみたいに行くわけないじゃんか」
「練習しろ」
「うちじゃ、みんな日本茶はあんまり飲まないんだよ」
「……そうか」
 夏樹はなにを言っていいものか、わからなくなる。口に慣れた味を春真が恋しがっていることは素直に嬉しく思う。同時に実家を「うち」と言ったことも嬉しいと思う。同じくらい、ここはすでに彼の家ではないとの思い。
「ほんと、帰ってきたくなっちゃうよ」
 けれど春真は伯父の思いなど気づかず、からりとそう笑った。真人がここにいれば、今度茶を含んだ夏樹は満足そうだ、と思うことだろう。
「ねぇ、それって。根付だよね」
 ふと春真の眼差しが文机の上に向く。そこには夏樹が外出時に愛用している煙草入れと、根付があった。
「あぁ。そうだ。どうした」
「ん、学校で、国語の時間に先生が雑談で話してたんだ、根付のこと」
 ほう、と夏樹は首をかしげつつ面白く思う。もっとも、現役の歌人を講演に呼ぼうと言う学校だ。中学生の授業とはいえ、雑談ならばその程度のことは話すのかもしれない。
「それ、伯父貴のお気に入りだよね」
 春真がよく見せて、といわんばかりにして手を伸ばした。その手を夏樹はぴしゃりと打つ。
「痛いな、なにするんだよ」
「触るな」
「壊さないって。子供じゃないんだから」
「そう言う意味じゃない」
 ぼそりと言って夏樹は自分の手で煙草入れを引き寄せた。そして春真の前に置いてやる。とことん触るな、と言うことらしい。
「ふうん、これって花だよね。なんの花。なんか伯父貴に花って……」
 変だ、あるいは似合わない、かもしれない。けれど春真はその先を飲み込んでおかしそうに笑っていた。
「梔子の花だ」
 夏樹はただそれだけを言う。まるでそれでわかるだろうとでも言うような態度だった。当然、春真は首をかしげる。
「あのな、春真。真人の最初の歌集、なんていうか、知ってるか」
「あぁ……えーと、耳成山の梔子」
「だからつまりそういうことだ」
「なに、真人さんの歌集の記念だから触るなっていうことなわけ」
 たかがその程度のことで機嫌を損ねるな、と言いたげに春真は伯父に厳しい目を向ける。
「そうじゃない」
 なんと言ったものか、と夏樹は悩む。無論、真人がこの場にいたならば、断固として言わせないだろうとは思う。
「あのな、春真。歌集の名前。ゆっくり大きく口に出してみろ」
 なんなんだ、と言いたげな目をしたけれど、春真は素直に何度か復唱しはじめる。音の一つ一つを確かめるように。そのうちにふと首をひねった。
「耳なし、口なし――ってことなの」
「古い和歌だ。他人の耳がないんだから耳成山、人の噂する口がないんだから梔子の花、そこに咲くそんな花が手に入れば思い切りあなたと恋ができるのに、とでも言うような意味だ」
「……なるほどね」
 まるで他人事のような口調だったけれど、これはだから伯父と彼の恋の思い出なのだ、と春真は納得する。出版記念、などと言うのはあるいはだから言い訳のひとつでしかないのかもしれない、と。だからこそ、伯父は触れられるのを嫌がるのだと。
「他、ないの」
「なんだ、急に」
「先生の話し聞いてたら、すごく珍しい過去の遺物みたいな感じだったから」
「失礼な」
「珍しいんだろうとは思うけど。同級生も見たことないって言ってたし」
「お前には見慣れたものなのにな」
「だよね」
 するすると会話の呼吸が合っていく。真人の前では仲が悪いふりをしてみたりもするけれど、実は本当の父より伯父のほうが気があう、と春真は思っている。実のところ、夏樹もそう思っている。
「そうたくさんはないぞ」
 言いつつ夏樹は立ち上がり、根付を納めた箱を持って戻った。蓋を上げれば歓声か溜息か。箱の中は細かく格子に区切られて一つ一つの根付が丁寧に納められていた。
「へぇ、真人さんだ」
「なにがだ」
「こうやって、箱の中をちゃんとしたの。間違ってるかな」
「……遺憾ながら」
 言い当てられてむっつりとした夏樹だった。そんな伯父を横目で見つつ春真は笑いを噛み殺している。
 真人はいまだに春真を幼い子供のように扱うことがたまにある。心配で、不安で仕方ない。そんな顔をする。それが心地良いときももちろんある。
 けれど伯父は違う、と春真は思う。若いけれど対等。そう思ってくれているのではないだろうか。過度に子供扱いすることもなかったし、不機嫌になったりもする。それもまた、嬉しいものだった。まるで一人前の大人のように感じられて。
「これ、貝殻かな」
 梔子の花を除いては、伯父も触るなとは言わなかった。春真は思う存分に根付をいじりまわして眺めている。
「いや、蛤だ」
 こんなに細かい細工物を目にしたことはなかった。否、この家に暮らしていたころは始終見ていたはず。けれど当時はあまりにも日常の物でありすぎて、目に留まっていなかった。
「蛤かー。なんか美味しそうだよね」
「お前ね。どうしてそう色気がないことを言うかな」
「中学生が色っぽかったら困ると思う」
 もっともらしく言ったけれど春真は笑っていた。むしろ口許が引きつっているから、それでも笑いを隠そうとはしているのだろう。
「……まぁな」
 そんな甥の表情を見てしまっては夏樹も中々呆れた顔をし続けるのが難しい。蛤の根付を手に取り、掌の上で転がす。
「雛祭りに、なに食うか知ってるか」
「姉さんがいるからね。雛あられでしょ、菱餅。白酒と――」
「そうだ、蛤の吸い物だ。なんでかわかるか。蛤は、自分自身の貝殻以外の貝とは、絶対に一つに重ならないんだ」
「へぇ、そうなんだ」
「だから蛤は夫婦和合のしるしとして、そうあれかしと願って雛祭りに食べるんだ」
「じゃあ……」
 それは。そう春真が尋ねかけたとき、伯父がにやりと笑った。おかげで尋ねる気がすっかりなくなるような顔だった。
「ちなみに、真人は鮑の根付を持ってるな」
「鮑ってなに。それもなんか謂れがあるんでしょ」
「あるよ。鮑は貝殻が一枚だろう」
 生物学的には巻貝かもしれないが、と夏樹は言い添える。文学的にはそれはどうでもいいことだと言って。
「だから相方になる貝殻を一人で思う。片思い、と言うわけだ」
「それを真人さんが持ってる意味がわかんないんだけど」
「俺がやった」
「それって最低じゃない。お前は一人だってわけ」
 むっとする春真に夏樹は決して真相を教えはしなかった。真人だけが知っていればいいことだ。自分が鮑の根付を贈ったこと。真人が蛤を返してくれたこと。いまでも身のうちがくすぐったくなるような思い出だ。
「あ、鳥だ。これはわかる。おしどりだよね」
 さすがに夏樹の甥、と言おうか。春真は伯父が言わなかった何かがある、それは決して真人を不幸にするものではない、とすぐさま気づいたらしい。気分を変えて箱の中に見入り、それを見つけていた。
「あぁ、そうだ」
 春真が取り上げてしげしげと見ていた。丁寧な彫りがなされているおかげで色がつけてあるわけでもないのにはっきりとおしどり、とわかる。材を彫っただけなのに、雄のおしどりの華やかな色彩も冠毛も目に見えるようだった。
「これはなんでできてるの、そっちの蛤と一緒なの」
「違う。蛤は象牙。これは黄楊だ」
「へぇ、すごいね、象牙とおんなじくらい硬そうだよ。つやつやだし、綺麗だよね」
 どうやら殊の外にそれが気に入ったらしい。手の中でもてあそび、感触を楽しんでいる。根付とはそうやって手遊びに触るものでもあるのだから、夏樹としては中々に嬉しくも思う。
「でもおしどりって……。やっぱいい。聞かなくてもわかる気がしてきた」
「そのとおり。対の雌は真人が持ってるよ」
 言って夏樹はくすりと笑った。さすがに雌のおしどりだ。真人はほとんどつけることはない。それでも大事に持っている。
「それって真人さんを女扱いしてるみたい。ちょっと酷いと思うけど」
「誤解するな、対で買ってきたのも雄をこっちに寄越したのもあいつであって俺ではない」
 どことなく自慢げだったのは気のせい、と言うことにしてしまいたい春真だったけれど、どこからどう見ても見間違いではなさそうだった。なにはともあれ真人が幸福ならばそれでいいか、と無理やり納得し、春真はとっくに冷めてしまった茶を飲んだ。




モドル