黄金色の海に、細波が立っていた。さやさやと、聞こえる波の音。言葉もなく真人は立ちつくす。隣で夏樹が同様に見惚れていた。
「わぁ、すごい」
 それなのに春真は走り出した。刈り入れまであと少し、と言う田に向かって走り寄り、間近で稲穂を眺める。
「すごい、綺麗だよね。真人さん」
 振り返って春真が笑う。自分はこんなにも綺麗だと思うのだけれど、大人はどう思うのだろう。期待と不安の交じり合った目に、真人は微笑む。
「本当に、綺麗だね」
 ぱっと明るくなった春真が田の周りを走りはじめた。駆ける春真の背に光があたる。稲穂を輝かせ、春真を煌かせる。
 ちょうど土日であるのを幸いに、夏樹の取材旅行に春真も連れてきた。自分が同行したかったから、春真も誘った、そんな引け目を感じていた真人だけれど、よかった、と心から思う。
 春真がこんなにも楽しんでいる。夏樹は取材の常でどこを見ているのかわからない表情で辺りを歩くことがあるけれど、今は春真を眺めて微笑んでいる。
 どことなく、本物の家族のような気がして、真人は嬉しくなってくる。息を弾ませた春真の額に浮かぶ汗。つい、と真人は駆け寄って春真を捕まえた。
「うわ、びっくりした」
「どうして」
「だって真人さん、足速いんだもん」
「着物きてるから、駆けっこなんかできないと思ってたでしょう」
 からかうように言って額の汗を拭えば、照れたような春真の目。光の下で彼の目は、伯父と同じ色合いをしていた。
「夏樹」
 不意に呼ばれたのに、こちらもまた照れたのだろう。無言のまま近づいてきた。その彼の目を覗き込む。
「……なんだ、急に」
「別に」
 やはり、春真は伯父とよく似た目をしているな、と真人はそっと笑った。夏樹もそれで気づいたのだろう、春真をちらりと見て笑う。
「なにさ、二人とも。僕がどうしたの」
「なんでもない。気にするな」
「気になるに決まってるじゃんか。意地悪伯父さん」
 真人を挟むと途端に他愛ない口喧嘩をして見せる二人だった。春真を引き取った当初はそれでずいぶん心配もしたのだけれど、今となっては二人して遊んでいるだけだとわかっている真人はまったく動じなかった。
「ハルの目が綺麗だなって思っただけだよ。気になっちゃったかな」
「……え。別に。気には、ならないけど」
 急に歯切れ悪くぼそぼそと言う春真だった。足元の小石を蹴ったりなどして見せるあたり、可愛いものではないか、と夏樹は思う。
「なにを照れている。おかしなやつだな」
 だからこそ、からかってしまうのは悪い癖だ、と真人に常々、それこそ耳にたこができるほど言われているのだが直らない。むしろ、直す気がさらさらない。
 真人は案じているようなのだけれど、気にすることはないのだと夏樹は知っているだけだった。春真は春真なりに伯父とのやり取りを楽しんでいるし、真剣に傷つくようなことは夏樹も決して口にはしない。
「別に、照れてなんか――」
 言ってから横目で真人を見てしまうのだから、まだまだ子供だ、と夏樹は内心で優越感を覚える。そしてこんな子供相手の優越に浸る自分と言うものに、多少は落ち込む。
「綺麗だね」
 ふ、と真人が口を挟んだ。彼の目は秋の田を見ている。まるで口喧嘩はここまでにしておきなよ、とでも言っているようだった。
「あぁ、綺麗なもんだな。こっちは町育ちだ、中々見る機会もない」
 それだけではないのを真人は気づいた。真人は幼いころ、畑のあぜで遊んだ経験がある。小川で魚釣りをしたことも。虫取りもした、蝶々も追いかけた。木登り、おたまじゃくしすくい、なんでもした。真人の子供の頃など、皆そういうことをしていたように思う。
 けれど彼は。外で遊んだことがあったのだろうか。遊んだことがあったとしても、こんな長閑な田園風景など懐かしいものではないだろう。美しいもの、ではあっても、郷愁を誘うもの、ではない。
「すごい綺麗だよね、海みたい」
 春真がはしゃぎ声を上げた。それでなぜか真人は救われたような気になる。ちらりと隣を見れば、気にするな、とでも言いたげに彼の目が笑っていた。
「……幸い、大人になってから遊び呆けているからな」
 春真に聞こえないよう、夏樹は言う。真人は微笑んで言葉を返さない。彼がそれでいいと言うのならば、真人はそれで充分だった。
「ねぇ、真人さん。お茶碗一杯分ってどれくらいなのかな」
 春真が稲穂を指して言っていた。首をかしげている彼と共に、なぜか夏樹を見れば同じよう首をひねっていた。吹き出すのをこらえ、真人は言う。
「さぁ、どれくらいかな。僕も町育ちだから、よくはわからないよ」
「きっとさ、すごいいっぱいだよね。だって、これ一つ一つがお米でしょ」
「そうだよ。一粒ずつとって、皮を剥いて、磨いて、やっとお米になる」
「その過程を精米、と言う」
 茶化したよう夏樹が言う。事実で遊ぶのはやめて欲しいと思うのだけれど、今日は外に出ているにしては機嫌がいいらしい。だから、つい真人は許してしまう。
「それから真人さんが磨いで炊いて、ご飯にしてくれるんだよね」
 それを食べているのだ、と急に春真は実感したのだろう。目がきらきらと輝いていた。連れてきてよかったな、と再び思う。
 決して春真は雲の上の貴人として育てられているわけではない。確かに実家は旧華族ではある。が、何しろ育てているのは真人なのだ。どこにでもいる庶民の生まれの自分が育てていて、浮世離れしたものになるはずがない。
 そして実家もそれを望んでいる。冬樹は彼は彼なりに、自分の生まれ育ちというものに某かの思いがあるのだろう。まかり間違っても旧華族らしく、などとは彼は言わない。春真の兄姉も、春真と同じように育てている。
 だからこそ、子供のうちに真人はこういうものを目にするのはいいことだ、と思う。今となっては本当に春真は「町育ちの子」だ。日ごろ自分が口にしているものがどこからきたのか見たこともない、と言うのは考え物だと真人は思っていた。
「長閑に見えるが……大変なんだろうな」
 農作業の苦労などしたことがあるはずもない夏樹がぼそりと言えば、当たり前じゃんと、春真が笑う。これではどちらが伯父かわからない。
「大変だから、綺麗だと思うのかもね」
「あぁ……そうかもしれない」
「僕も、こんなに一面の秋の田って言うのは、ちょっと見た覚えがないな」
「子供のころでも、か」
「あのね、夏樹。僕も横浜生まれの横浜育ちなんだよ。畑も田んぼもいくらでもあったけど、こんなに広々とはなかったもの」
 なんの他意もない、と真人が笑って言えば、一瞬は引き締まった夏樹の口許が緩んでいく。
「真人さん、とんぼだよ」
「おやまぁ。ずいぶん気の早いとんぼだね」
 田の上をとんぼが飛んでいた。つい、ついと飛ぶとんぼの姿に、思わず童心に返りかける。その真人の目が空を見上げる。
「あ――」
「どうした」
「雨。ハル、おいで、雨が降ってきたよ」
 言い様に、真人は着ていた羽織を脱ぐ。なにをしているのか、と思う間もなく夏樹の頭に被せた。
「おい」
「濡れたら風邪をひくよ」
 走って戻った春真の手を引く。ついでに反対の手で夏樹の手をとる。また軽い抗議がしたけれど、真人は聞こえないふりをして駆け出した
「うわ、すごいよ。真人さん。すごい雨」
 春真が走りながら楽しげな声をあげる。こんな年頃は、なにがあっても楽しいものだろう。真人は小さく笑って見せながら目当ての場所まで走った。
「大丈夫、夏樹」
 土地の、小さな社だった。社を守るよう、大きな木が生えている。この大きさから見ればご神木、なのかもしれない。そこで雨宿り、と言うわけだった。
「あぁ……まぁ、な」
 けろりとしている真人と違い、夏樹は肩で息をしていた。頭に手をやり、羽織を返そうとするのを真人はとどめ、そのまま肩に羽織らせた。
「寒いでしょう」
「いや……」
「僕は、平気だから」
 にこりと笑う真人に、夏樹はありがたく羽織を借りた。真人は何もなかった顔をして春真を引き寄せている。
「濡れちゃったね」
「ぜんぜん。へっちゃらだよ」
 それすらも遊びであったように笑う春真の濡れた体を真人は拭いていた。社の大木は、充分に雨を遮ってくれている。時々ぽたり、と大粒の水滴が落ちてくるが、それも春真は楽しそうだった。
「ハル、おいで」
 真人は春真を片腕で包み込むように抱いた。袂を頭に翳して大粒の雨からも守ってやれば、照れたよう、子供は彼を見上げて笑う。
「わが衣手は露に濡れつつ、と言うところか」
 真人を見ては夏樹が笑う。袂から顔を覗かせた春真が不思議そうに伯父を見やった。
「百人一首だよ」
「ちょっと、夏樹」
「なんだ」
「苫をあらみ、はないんじゃないのかな」
「どうしてだ」
 言えば真人は渋い顔をして背後の社を振り返る。そしてわざとらしく雨宿りの木を振り仰ぐ。
「僕。ご神木だと思うけど、この木」
「だから。なんだ」
「苫は失礼じゃないのかなぁ」
 言った途端に夏樹が吹き出した。意味のわからなかった春真はきょとんと二人を見つめ、それからふくれっ面で袂の中にもぐりこむ。
「失礼……確かにな。あぁ、失礼だな」
 くつくつと笑う夏樹だった。真人が言い返そうとした正にそのとき。夏樹が飛び上がるようにして驚いた。
「どうしたの」
「……首筋から、雨粒が入り込んだんだ」
「ほらみてごらん。罰が当たったんだよ、罰が」
 今度は真人が鳩のように笑った。文句を言う夏樹の腕をそっと引き寄せる。それはまるで春真の体を冷やさないように、とでも言うようだったけれど、夏樹は真相を知っていた。




モドル