書きかけの原稿から顔を上げ、真人はくすくす笑い出す。そんな彼を訝しげに夏樹が見やった。こちらもまた、仕事をしていたものと見え、手には万年筆を持ったままだ。 「どうした」 「ん、ごめん。邪魔しちゃったね」 「いや……ちょうど」 「だったらお茶にしようか」 真人が立ち上がるとき、夏樹はいつも骨がないのではないかと思ってしまう。それほど滑らかで美しい所作だった。おそらくそれは若い時分に体を鍛えたせいもあるのだろう。 「はい、夏樹」 彼好みのぬるい茶を差し出せば不思議そうな顔をした。当然だった。湯飲みに入っているのは緑茶ではない。ほうじ茶でもなければ番茶でもない。平たく言えば紅茶だった。 「お前な」 「変なのはわかってるけど、この家にティーカップなんていう洒落たものはないじゃない」 「まぁな」 来客用のものはあるがわざわざ出すのは面倒だったのだろう。それにしても、なぜ紅茶なんだ、と夏樹の目が問いかける。それに答えて真人は茶菓子を出した。 「珍しいな」 「頂き物だよ」 「いつ」 「昨日。言わなかったかな」 聞いていない、とは言わず夏樹は箱の中を覗き込む。見事に可愛らしい小さなケーキが幾つも入っていた。 「プチフールって言うんだって」 ほんの一口で食べてしまえそうな洋菓子の数々に、春真でもいれば歓声を上げて喜んだのだろうが。だがしかし夏樹は顔を顰める。 「男所帯にこんなものを寄越してどうしろと言うんだ」 「まったくだよね、なにを誤解したのか」 溜息混じりながら真人は笑っていた。昨日、と言ったのだから間違いなく編集部からもらってきたものだろう。確か真人は仕事の用事で外出していた、と夏樹は考える。それにしてもこんなものを寄越す編集者が思い当たらない。 「たぶんね、僕のせいだと思うよ」 「お前の。何かしたか」 言外にお前は何も悪くなどない、と話も聞かないうちに夏樹は言う。その心が嬉しいようなくすぐったいような気がして真人は笑う。 「ほら、百人一首もそうだけど、僕はあっちこっちであなたのことを書かせてもらってるじゃない」 本業は文筆ではない真人だ。本人は不得手であるし不本意だと言っているが、最近では歌人の仕事よりも多いこともままある。本人としては、苦手で苦手でどうしようもないのだろう。新しい仕事のたびに、書かせてもらってもいいかな、とお伺いを立てに来る。夏樹はそんな彼が好もしい。一度許したのだから二度も三度も同じ、とは真人は決して思わないらしい。おかげで水野琥珀の文章の中には篠原忍が散見する、と言う有様だ。もっとも、夏樹自身、自分の随筆の中では琥珀琥珀と言っているのだからあまり人のことは言えない。 「それで、篠原先生は甘いものがお好きらしいって思い込んじゃってるみたい」 「なんだ、それは」 「よく食べてるって書くからだと思うんだけど……」 困り顔の真人に夏樹は呆れて笑う。無論、真人を笑ったのではない。編集者を、だ。文章に関わる玄人が書かれていることすべてを信じてどうするのか、と思う。 「これも人柄、かね」 「どういうこと」 「お前は嘘をつくようには見えないってことさ。俺はいくらでも適当なことを書くがな」 「それこそプロだし。当たり前じゃないの。僕だって必要なら筆は濁すんだけどな」 肩をすくめて真人が言う。百人一首をはじめた当初には考えられなかった言葉だな、と夏樹は思う。あのころは毎回毎回飽きることなく戸惑い怯えていたようにも思うが、最近ではいい意味で開き直っている。 「夏樹、もらっちゃったんだし。どれ食べるの」 「どれでもいい。わからん」 「僕だってわかんないんだけどなぁ」 文句を言いつつ真人はふたつばかり皿に取ってフォークを添えた。茶色いのはチョコレートだろう、と夏樹は見当をつける。とすればもうひとつは赤いから、果実の味だろう。それも酸味の強い。真人は真人で白いのと淡い桃色のを取っている。 「そう言えば――」 茶色いのを一口含めば、やはりこれはチョコレート味だった。さほど強烈に甘くもなく、夏樹としてはありがたい。 「ん、なに」 「さっき、なにを笑ってたんだ。原稿書きながら」 「あぁ……。ねぇ。鹿ってなんで鳴くと思う」 「なぜと言われてもな」 「ほら、鹿って――」 「伴侶を求めて鳴き交わす、と言うな」 さすがだ、と真人がうっとりと彼を見詰める。夏樹はその目をいつも正面から見られない。教養として叩き込まれたことではあったが、こうして真人と楽しく会話ができるのならばありがたい。そうとでも思わなければ、とても恥ずかしくて正気を保っていられない。それほどの目を彼はする。 「どんな風に鳴くのかなぁ」 「趣があるもの、と言うが」 「聞いたこと、あるの」 「いや」 次にいう言葉が、夏樹には想像できた。だから残りのチョコレートケーキを口に放り込む。 「いつか、聞いてみたいね。一緒に」 夏樹は返答せず、もうひとつの赤いのも口に運んだ。一口食べてから、気づく。順番が間違っている。 「これは、ずいぶんと酸っぱいな」 「よかったら交換、しようか。これ、桃みたいだよ」 半分食べかけの薄桃色のケーキをフォークに乗せて差し出し、真人は今までの会話など忘れた顔をして笑う。そうされると、照れて返事をしなかったのが急に酷くすまないことをした気になってくる。 「あ――」 真人が差し出したままの小さな洋菓子を、夏樹は彼の手から食べた。そっと目だけを上げれば、赤くなった真人の頬。 「おい」 赤い菓子の残りを同じように有無を言わせず真人の唇に押し込めば、ケーキのよう真人が赤くなった。 「照れるな。俺まで恥ずかしくなってくる」 「あなたが先にしたんじゃない」 「言うな」 ふい、とそっぽを向いてしまった夏樹に真人は声を上げずに微笑んだ。彼の横顔を見ているだけで幸せだ、などまるで冗談のようで笑えてしまう。しかしこれが今ここにある現実。 「ねぇ、夏樹」 横顔に向けて呼んでみれば、こちらも向かない。そのまま庭を眺めている、ふり。長い付き合いだ、彼が本当はどこを見ているのかなど、真人には知れている。 「……なんだ」 ぼそりと言うのは、まだ照れているのか。はじめから素直に一緒に聞きに行こうと言えばこんなに恥ずかしい思いをしなくとも済むのに、とは真人は言わない。 たまに見せる夏樹の矛盾した態度から滲み出すものが真人はたまらなく好きだった。なにをしても彼は真人だけを見ている、と体で語っているようで、わかってはいるのだけれどたまには確かめてしまいたくなる。 「真人。呼んだだろう、いま」 「うん。呼んだ」 「で。何の用なんだ。言いたいことがあるんだろうが」 「――鹿もね、こんな風に呼ぶのかなって思って呼んだだけ。用事って言うのかな、それが用事」 「お前ねぇ」 眼差しが戻ってくる。本当はただそれが見たかっただけかもしれない。そうも思いつつ、真人は鹿もこうして応えてくれる伴侶を待っているのかもしれない、とも思った。 「なぁ」 「ん、なに」 「――真面目に答えるな。お前の真似をしただけだ。鹿の真似、と言ったほうが正しいのかな、この場合は」 にやりと夏樹が笑う。自分で先にしたくせに、真人は真っ赤になった。突如として、自分たちがいい年をしてまったく、何をしているのかと気づいたのだろう。 「夏樹――」 「呼ぶのはいいがな、繰り返すなよ。きりがなくなるから」 「そんなことはしないに決まってるじゃないッ」 珍しく声を荒らげて言うけれど、それも頬を赤らめていてはどうやら威力半減だ、と面白く夏樹は眺めていた。 「それで」 淡々と、遊びはもう仕舞いだ、と態度で言えば途端にしゅんとする。それから夏樹の文机の上を見やれば、そこにはまだ書きかけの原稿用紙が乗っている。 「……ん、そっか」 諦めのいい真人を叱りたくなって、理不尽だと夏樹は内心で自らを嘲う。 「真人」 「ん」 「……原稿、締め切り」 「だよね、僕もそろそろ仕事に戻らなきゃ」 「あのな」 素直すぎる真人の腕を引いた。驚いて夏樹を見上げたまま、真人はその腕の中に倒れこむ。 「締め切りはまだ先なんだが、と言おうとしたところだったんだが」 「……先に言ってよ」 「最後までちゃんと聞けよ」 互いに言い合って、顔を見合わせたままくすりと笑う。夏樹の胸元に真人はことりと頭を預けた。 「――秋になったら」 奈良にでも行こうか。鹿を見に、あるいは声を聞きに。言いかけた夏樹の言葉を真人は仕種で遮った。 「いい。聞きたくないんだ、本当は。想像しているほうが、ずっと素敵だ」 「――わかる気がするよ」 この手で確かめたいものはここにある。この目で見たいものはここにある。真人の言葉にしなかった声に夏樹はなにを言うべきか、わからなかった。ただわかるとしか。自分も同じだ、と彼ならば理解してくれるだろう。 「もう、秋かな」 「気が早いだろ」 「人生の、だよ」 腕の中、真人が呟くように言い、けれど笑っていた。出逢った頃は春か初夏か。人生の半分近くを共に過ごしたことになるのか。不思議と長いとは微塵も思わなかった。 |