春真がはしゃいだ声をあげていた。もうずいぶん前になる。近所に住む年上の子供から春真が野球のボールとグローブをもらったのは。両方ともずいぶんとくたびれていて、その子は新しいものを買ってもらったからあげる、と言ってくれたのだそうだ。
 春真は取り立てて運動が好き、と言うわけでもなかったけれど、もらったボールでキャッチボールをするのは楽しんでいた。
 そのグローブがついにだめになったのは先日のこと。気に入って遊んでいるのだから、と春真に甘い真人は新しいものを買い与えたのだった。
「ねぇ、伯父さん。キャッチボールしようよ」
 庭できゃっきゃっと声をあげている。狭いながらも、子供の春真と夏樹がキャッチボールをする程度の広さは充分にある。
「真人に――」
 だが夏樹は一度は渋い顔をして呟いた。そもそも彼は運動が得意ではない。むしろ真人は彼が運動を最後にしたのはいったいいつだろうと首をひねるくらいだ。
「いや……。わかった」
 だが夏樹は言い直す。決して普段、春真の世話を真人一人に任せきりだ、と言う後悔からではない。ただ春真の笑顔だった。
 満面に浮かべた純真無垢な笑み。ただひたすらに伯父と遊びたいと望む顔。さすがの夏樹もこれには負けたらしい。
「珍しい。よかったね、ハル」
 夏樹をからかい真人は微笑む。彼の内面の感情が手に取るようにわかって、春真のために嬉しかった。
「……少しだけだからな」
 言いつつ庭に降り、彼は片褄を取って裾をからげた。無頼めいた男がすれば色気があるのだろうが、彼には似合わない、と真人は苦笑する。ほんのりと白い足が見えてしまって、目のやり場に困る、と言うのが正直なところだったが。
「そんな格好してないで、ちゃんと着替えたらいいのに」
 いくら日頃から着物で生活しているとはいえ、夏樹にも洋服の持ち合わせくらいはある。せっかく春真と遊ぶのだから出してやろうとしたのを夏樹が眼差しで止めた。
「よせ」
「どうして」
「そんな真剣に運動ができるか。倒れるぞ」
「……納得できるところがまずどうかと思うよ、僕は」
 毎日毎日机に向かう日々だ。たまには運動のひとつも、と真人は思わなくはない。だが彼にそんなことをさせようものならば熱を出して倒れるに決まっている。わかっているだけに勧めにくい。
「はい、伯父さん」
 見れば春真が新しいグローブを伯父に差し出していた。真人はどうするのだろう、と彼を見つめる。と、夏樹は黙って春真の古い、いい加減壊れかけのグローブを手に取った。
「せっかく真人が新しいのを買ってくれたんだろう。お前がそっちを使えばいい」
「……うん」
 含羞む春真の頭を珍しく夏樹が撫でていた。真人は無言で二人を見つめる。なぜか涙が出そうだった。奇妙なほど、当たり前の家族の姿がそこにある。
「行くよ、伯父さん」
 はしゃいだ春真がボールを投げる。まだ幼い春真の手から離れたボールは上手に夏樹の元まで飛びはしない。それなのに夏樹はそんなことなどなかったような顔をして受け取っては投げ返した。
「……意外」
 運動が嫌いで下手だと公言している彼なのに。子供相手だからと言って手加減する人でもできる人でもないのに。
「失礼なことを言うな。聞こえたぞ」
 ちらりと夏樹が座敷を見やって笑った。真人は肩をすくめて答えない。その間にもう一度春真が投げた。
「あぁ、やっぱり」
 先程のはどうやらまぐれ、だったらしい。受け取り損ねたボールはとんでもない場所まで転がっていき、夏樹が慌てて拾いにいく。そんな姿も実に珍しくて、真人は笑い声を上げた。
「笑うなよ」
「ごめん」
「伯父さん、下手っぴだよねー」
 くすくすと笑う春真に夏樹はボールを投げ返す。少なくとも真人には投げつけた、と見えたが、それでも多少は加減をしているのだろう。春真は器用に受け止めてまた投げた。
 何度も繰り返すうち、夏樹も少しは上達したらしい。そう思って真人はそっと笑う。まるで春真の練習ではなく、夏樹の練習のようだった。
「春真」
「ん、なに」
「もう勘弁してくれ。疲れた」
「えー。伯父さん、運動不足だよ」
「ほっとけ。真人、代ってくれ」
 這々の体で夏樹が座敷に上がってくる。そのとき少しばかりよろめいて、真人は咄嗟に手を出した。
「……すまん」
 大丈夫か、とは聞けなかった。春真が見ている。ここで体の痛む伯父を見せれば、春真は後悔するだろう。
「はい、もらうよ」
 まるでグローブを受け取っただけ、とでも言うよう真人は笑って見せる。とっくに淹れてあった熱い茶は、彼にちょうどいい温度に冷めていた。
 その夜。春真が眠ってからだった。さすがに目いっぱいに遊んで疲れたのか、今夜はいつもより早くに眠った。それがありがたい、と思う気持ちに心が痛む。が、本音だった。
「夏樹」
「――なんだ」
「僕にそんな顔をしても駄目だよ」
 軽く言えば、夏樹は密やかに微笑んだ。仕方ないな、と言うような、あるいは感謝をするような。
「布団に行こうよ」
 普段ならば、春真が早くに眠った夜は二人で少しばかり飲んだりもする。他愛ないことを話したり、黙って座っていたり。けれど今夜は。
「あぁ、そうだな」
 真人が手を引いて立ち上がらせれば、夏樹は顔を顰めて背を伸ばす。笑っては悪い、とは思うのだけれど真人の口許は緩んでしまう。
「お前な」
「ごめん」
 口先だけで謝ったのが知れてしまったのだろう。夏樹はむつりと口許を引き締めた。そんな彼を真人は布団の上に横たわらせる。
「おい」
 なにをするつもりだ、と夏樹の不審そうな顔。疲れたのだからさっさと眠れ、と言われたのだと思っていたらしい。
「違うよ、夏樹。うつ伏せになって」
「……なにを」
「あのね、夏樹。照れないで。僕まで恥ずかしくなるじゃない」
 言い捨てて、真人は口で言うより手早いとばかり彼の体を転がした。まだ戸惑う夏樹の背中に真人は掌を置く。
「あぁ……」
 ゆっくりと力をかければ、夏樹が溜息を漏らす。背中から腰へ、肩先は丁寧に。真人の手が夏樹の体をほぐしていった。
「うまいもんだな」
「上級生に仕込まれたからね。面白いよね、若いころに習い覚えたものって、忘れないものだね」
「……そうか。こんなことまで、するのか」
「やらされたって言ったほうが正しいと思うけどね。でも、今あなたの役に立ってるから、ありがたいかな」
 真人は笑って腰を揉みほぐす。慣れない運動に、体中が硬くなっていた。このぶんでは、と触ったふくらはぎなど、つつけば破れそうなほどだ。
「……痛い」
「ごめん。ちょっと我慢して」
「いや……」
 口ごもる夏樹に真人は手を止め、彼の顔を覗き込む。もしや何か不快なことでもあったかと。
「違う、悪いのはお前じゃない」
「でも――」
「悪い、と言うなら運動不足の俺だな」
 からりと笑って夏樹は横になったまま器用に肩をすくめて見せ、その拍子にどこかが痛んだのか顔を顰めた。
「丁寧にするから、ちょっと我慢ね」
 言って真人は着物の裾を持ち上げかけ、やめた。肌に触れてほぐしたほうが効果はあるが、とてつもない無体を働いているような気がしてしまった。
「おい」
「なに」
「あのな……照れられると、照れるんだが」
 それは先ほどのお返しだったのだろうか。見やった夏樹はにやりと笑っていた。真人は戯れめいた手で彼の腰を打つ。
「おかしなこと言うと、してあげないから」
 昼間目にした、陽光の下での白い足。男の足が白くても何も嬉しいことなどないはずなのに、真人の目には眩しく映ってしまって、こんな自分が手に負えない。
「いま笑ったか。どうした」
「ん……。あなたの足にときめく自分がおかしくて」
「おかしいことはない、と言いたいけどな。やっぱりおかしいぞ」
「うん、そう思う」
 喉の奥で真人は笑い、思い切って裾を持ち上げた。やはり、おざなりにほぐすのは嫌だった。裾を手にした瞬間、自分で息を止めたのがわかってしまって、本当に笑えてくる。
「俺の足なんぞ見慣れてるだろうに」
「……夜はね」
「……あのな」
「言わないで。自分で恥ずかしいこと言ったくらいの自覚はあるの」
 慌てて真人は言い、体をほぐす作業に戻っていく。そうでもしていないと、とても胸の動悸が治まりそうにない。
「そこ、痛い」
「あなた、すごいよね」
「なにがだ」
 言って夏樹は再びうめいた。よほど痛いのだろう。だからこそ、真人は手を止めない。今しておかなければ、明日はもっと酷くなる。
「だって、今日のうちに体が痛くなるなんて、若いころならともかくこの年じゃね」
「それはなんだ、嫌味か」
「そう聞こえたなら、そう思うだけのことがあるんじゃないの。僕は褒めたのに」
 枕に伏せたまま、夏樹は笑った。背中で真人が唇を尖らせたのが目で見るより確かに感じられていた。
「悪い」
 先程の真人のよう、上っ面で詫びれば、返事は戻ってこない。それでも丹念な手だけは動き続けていた。
 ゆっくりとほぐされているせいだろうか。それとも真人の手のせいか。つい夏樹はうとうととしかける。
「夏樹。気持ちよかったら、寝ちゃっていいよ」
 ことり、と頭が落ちては戻すの繰り返しをする夏樹の背中に真人は言う。夏樹は返答をしなかった。もう、半分眠っていたのかもしれない。真人はそっと唇に笑みを刻み、気が済むまで彼の体を揉みほぐしていった。




モドル