床の間を背に座したまま、夏樹は口を引き締め、瞑目までしてむつりと腕を組んでいた。その傍らで編集者があれやこれやと用をしている。
 取材旅行だった。編集者が同道するのも珍しいことではない。殊にこの編集者はそうだった。夏樹の気に入り、と言うわけでもなかったが、さほど気に障らない人物だ。
 だが今日はだめだった。なにをしても苛立つ。話しかけられても返事をする気になれない。根本的に存在そのものに嫌気がさしている。
 編集者のせいではない。それを夏樹は理解していた。自分自身に由来していた。旅先では珍しいことではなかったが、多少熱がある。発熱している、と言うほどではなく、ほとんど気のせいと言ってしまってもいいほどの熱だ。
 けれどそのせいだった。人がそこにいる。そう思っただけで席を立って逃げ出したいほど。編集者は気づかず、静かに用事をしている。
「先生、明日はどういたしましょうか」
 いつもならば気に障らない声が、癇に障って夏樹は目を閉じたままうなずきもできなかった。少し彼がたじろいだ気配。それがまた、苛立ちを誘う。
「失礼します」
 風が吹いたかと、夏樹は一瞬とはいえ錯覚した。五月の薫風といえばいかにも陳腐。けれど今の夏樹にはそうとしか思えないほどに爽やかな。
「――水野先生、いかがされました」
 編集者の驚く声も途端に気にならなくなった。ゆっくりと目を開ければ、すぐそこで真人が微笑んでいた。
「少し早く仕事が片付いたので、篠原さんの身の回りのお世話をしようかと。大変でしたでしょう」
 朗らかに言う真人の目の下にわずかな影を夏樹は見つける。すまない。突然に後悔の念が沸きあがってくる。
「篠原さん、お茶を淹れましょうか」
「あぁ――」
「水野先生、自分が。どうぞお座りになって」
 慌てふためく編集者を真人は笑っていなしていた。自分が好きですることだから是非やらせて欲しい、と冗談めかす声。
 夏樹の心身から薄皮がはがれるように苛立ちの澱が消えていく。真人の一語一語に、そのたびに。
「水野先生、ご自宅からお持ちになったんですか」
 頓狂な編集者の声に夏樹はそちらを見やり、彼もまた仄かに笑う。真人は今のいままで荷物を漁っていたと見える。
「えぇ、篠原さんのお気に入り」
 にこりと笑ったその手に持っていたのはただの茶筒。普段家で飲んでいる茶をわざわざ持参したらしい。すまないよりもありがたくて夏樹は軽く眼差しを伏せた。
「お茶が入りましたよ」
 目の前に出てきた湯飲みに黙って手を出せば、真人が編集者にも茶を勧める声。好みのぬるい茶に淀みが落ちていく。
「これも。いかがです」
「――お前、わざわざ持ってきたのか」
「わざわざ、と言うほどじゃないですよ、軽いものですから」
 す、と差し出された干菓子に夏樹は目を細めた。疲れているだろう、気遣って持ってきたくれた心の尊さ。
「和三盆か」
「えぇ、お好きでしょう。あなたもいかがですか」
 少しばかりを茶托にとりわけ編集者の前に出す。行儀が悪いけれど、など言って笑う声に熱まで下がった気がした。
「琥珀」
 呼びつけてはいけない。彼はもう、かつての名の知れぬ歌詠みではない。篠原忍の使いを務めてくれた青年ではない。その人あり、とその世界では知られた歌人だ。
 わかってはいた。しかし、どうしようもなかった。許してくれる、と知っていて甘えるのはいい気分ではなかった。それでも。
「帳面の整理を頼む」
「承りました」
 何事もなかったかのような真人の声。こんなことはいつものことで、当たり前の日常なのだから気にするようなことではない。そう編集者に言ってでもいるような彼の声。
「その間に少しおやすみになったらいかがですか。まだ夕食まで間がありますから」
「……そうさせてもらう。悪いが」
 ちらりと編集者を見やれば、心得て彼は頭を下げてさがっていった。ぴたりと襖が閉てられた音に、ようやく夏樹は深い息を吐く。
「疲れてるね」
 頬に真人の手が伸びてきた。指先で撫でられれば、そこからも体にたまった濁りがはがれていく。
「すまなかったな」
「本当に。電報が来たときには何事かと思ったんだからね」
 真人は笑いつつ顔を顰めるなどと言う器用な真似をして見せる。実際、本当に動揺したのだ、真人は。仕事のせいで留守番をしていた真人のもとに電報が来たのは昼のこと。そこにはただ一言「ライエンコウ」とだけ。電報なのだから字数を節約するのは当然のことではある。が、それにしても。
「いきなり来援を請う、だもの。本当に何事かと思ったじゃない」
「……すまん」
「おっとり刀で駆けつけて、あなたの無事な顔を見てやっとほっとしたよ、僕は」
「……悪かった」
「ねぇ、夏樹。謝らないで、驚いただけだから」
 真人の手が頬から髪へと移った。ゆっくりと撫で、梳かれる髪。細かになった疲労がぱらぱらと落ちる心地。
「少し、熱っぽいかな」
「いや……たいしたことはない。むしろ」
「機嫌が悪かっただけ、かな。夏樹」
 真人の眼差しが夏樹を絡める。その名のとおり、琥珀色の目が夏樹の奥底まで見通す。
「僕はここにいるよ。もう大丈夫だよ」
 息が、詰まった。夏樹は言葉を吐けずに瞬きをする。否、瞬きすらもできなかった。ただ微動だにせず真人を見ることしかできなかった。
「ここにいるよ、夏樹」
 再びの声に、夏樹はゆっくりと動いた。ゆるゆると首を振る、横に。
「急に呼びつけて、悪かったと思ってる。どうしても……耐え切れそうになかった。だが」
「いいんだって、夏樹」
「よくはないだろう。お前にはお前の仕事がある。お前は一人前の歌人で、俺の書生じゃない」
「わかってないな、あなた」
 怒ったような言葉なのに、真人は笑っていた。目の前で、殊の外に嬉しそうに真人は笑っていた。今度こそ夏樹は目を瞬く。意味の通じなさに、あるいは真人を切望するあまり彼がきてくれた夢でも見ているのではないかと疑ったほど。
「僕はね、夏樹」
 するりと立ち上がり、真人は勝手に布団を敷いていく。あとで係りの者がきちんと敷きなおすだろうけれど、など呟きつつ、それでも手際よく。
「夏樹」
 手を引いて問答無用だとばかり横にさせられてしまった夏樹は苦笑する。それは苦笑ではあった。けれど笑った自分に夏樹は気づく。それがどれほど心安らぐことだったか、真人はわかっている気がした。
「寒くないかな。もう一枚、布団かけようか」
「いや。……それより、なにを言いかけた」
 ぽんぽんと子供にするよう真人は布団を軽く叩いていた。以前、春真を寝かしつけるときによくしていた仕種だ、と気づいて笑いたくなる。今の自分は真人にとって子供のようなものなのかと思えばこそ。けれど嫌な気分にはならなかった。
「あぁ、そのこと」
「はぐらかすな。言えよ」
「どうしようかな」
 笑いながら真人は旅行中に夏樹がとりどりの紙に書き付けたものを持ってくる。さすがに長い付き合いだった。来たばかりでもどこになにがあるか、夏樹の癖を知っている。
「本当に整理することもないだろうに」
「昔とった杵柄ってやつだよ。たいした手間でなし。喋りながらでもできるしね」
「……すまんな」
「また気にしてる。僕が好きでしてることだ、あんまり何度も謝られると、やりにくいじゃない」
 言いつつ真人はぱらぱらと紙を繰り、あるものは書き写し、順番を整え、見やすいように整理していく。確かに慣れたものだった。
「それで、真人」
 ちらりと横になった夏樹を見やった真人の目が笑っていた。まだ気にしているのか、と。当然だ、と夏樹は目顔で返す。
 ふとそれに。横浜の家に戻った気がした。真人がいて、いつもの座敷で、怠惰に寝転がった自分がいる。煮炊きの匂いまでかいだ気がした。
「僕はね、夏樹。嬉しかったんだよ――」
 忍び込んでくる真人の声に、夏樹は目を閉じる。もしも自分に和やかな幼少時代というものがあったとしたら、それはこんな心地なのだろうかと思った。真人の手が布団を肩まで引き上げていく。
「なにがだ」
 彼の手を捕らえることはせず、夏樹は見上げただけだった。そこに真人がいると確かめたくなったのかもしれない。
「あなたが僕を頼ってくれたことが」
 即答に、夏樹は苦く笑う。頼られたいのは自分だと思う。それなのにいつも手間ばかりをかけている。男として、いささか情けなくもなってくる。
「僕はね、あなたが自分をどう思ってるかは知らない。でも、僕が見るあなたはね、夏樹。僕は、あなたほど毅然とした人を知らないよ」
「……みっともなくって情けなくって自嘲する気にもなれんのにか」
「それはあなたの問題」
 からりと笑って真人はあっさりと夏樹の言葉を退けた。自分の見ている夏樹こそが正しいのだといわんばかりの言葉に少し自信が戻ってくる。そんな自分を夏樹はまた嘲いたくなってくる。
「そのあなたがね、僕を頼ってくれる。こんなに嬉しいことはないよ。あなたほど端正な人が、僕には弱みを見せてくれるんだなって思うとね、やっぱり嬉しい」
「みっともない――」
「そうやって嘆くあなたも、僕は好きなんだよ。知ってたかな」
 とんとん、と帳面を整える音がした。きちんと揃えていつでも見られるようになったそれが、こんな短時間で整理されたものだとは誰も思わないだろう。
「すま――」
 またも詫びかけた夏樹のことを真人は軽く悪戯に睨み、そのまま体をかがめた。掠めるように触れる唇にほっと息をつく。
「少し眠ったらいいよ、本当に。疲れてるときのあなたは妙に自虐的だからね」
「そうなのか。知らなかった」
「僕はなんでも知ってるんだ。その僕が言うんだよ、夏樹。眠ったほうがいい。僕はちゃんとここにいるから」
 それがまるで子守唄ででもあったかのよう、夏樹は唐突に眠りに引き込まれていく。枕元に座す真人が、目覚めたときも変わらずそこにいることをもう夏樹は確信していた。




モドル