薄雪が積もり始めた庭にふと目を留めた真人は小さく笑みをこぼす。懐かしい時間を思い出していた。まるで今このときに春真が積もった雪にはしゃぎ声を上げているかのように。
 まだ春真が小さかったころのことだった。久しぶりに降った雪が庭をうっすらと白く染めたのは。それにも幼い春真は大層に喜んだものだった。
「ねぇ、ねぇ。真人さん、ほら、見て」
 両手で雪をすくえば、所々に土の色が混じってしまう。それでも春真にとってはきっと「物凄い大雪」なのだろう。
「あぁ、本当に。すごいねぇ」
 真人の声に夏樹が小さな笑い声を立てた。おそらく彼は幼い者に調子を合わせた、と思ったのだろう。だが違った。真実、真人は綺麗なものとして雪を見ていた。
 あるいはそれは雪を見ていたのではないのかもしれない。薄い頬を寒さに赤く染め、眼をきらきらと輝かせた春真。小さな手は雪のせいでもう真っ赤だ。それなのに心から嬉しそうに楽しそうにしている子供。それをこの上もなく美しいものとして真人は見ていた。
「雪だるま、作ろうよ。真人さん」
 こんなときに伯父を誘っても無駄だと知っている春真は明るい声で真人を呼ぶ。
「どうかな、作れるかな」
「あんまり雪、ないかな。足らないの」
「どうだろう。試してみようか」
 うん、と春真はまた目を煌かせた。そうして二人で作った雪だるまは、せいぜい雪だるまの生まれたての孫、くらいのものではあったけれど、春真は真人と作ったそれがいたく気に入ったらしい。
「ここにおいといたら、溶けちゃうかな」
 心配そうに庭の靴脱ぎ石の上に置いた雪だるまを見やっていた。その手には熱々の甘酒が入った湯飲みを握って。
「はい、夏樹」
「あぁ――」
「あなた好みにしてあるよ」
 言われる前に真人は言い、夏樹に向かって笑みを見せる。そこに春真が振り返っては、なに、と尋ねた。
「伯父様はね、甘酒にたっぷり生姜を入れるのが好きなんだよ」
「えー。生姜。嫌い」
「ぴりっとしたところがいいんだってさ」
「せっかく甘いのに……」
「子供にはわからん」
 恨めしげな春真に夏樹が言えば、よりいっそう春真は恨めしそうな顔をした。そんな甥に珍しく夏樹が吹き出す。
「いいさ、もう少し大きくなったらお前にもわかる」
 まるでそのときのことを楽しみにしてでもいるような夏樹の言葉だった。真人は目頭が熱くなって、瞬きをした。
「どうしたの、真人さん」
 逸早く気づいたのは、春真。そのことに夏樹がいやな顔をするのを目顔でたしなめ、真人は笑みを作る。
「ん……。ちょっと雪の歌を思い出しててね」
 咄嗟の言い訳であったはずなのに、脳裏には歌の情景が早くも展開されていた。深々と降り続け、積もり続けていく真っ白な雪。吉野の深山。
「ふうん、どんな歌なの」
「そうだね……。まだ朝早く、もうちょっとで夜明けかなってくらいの時間にね、庭を見たら物凄い月の光なんだよ」
「あれ、雪の歌なんでしょ」
「そうそう。月の光かと思うくらい明るい、雪だったんだけどそれは――って言う歌。それはきっとすごく綺麗だっただろうねぇ。ハルにも、そんなところで遊ばせてあげたいなぁと思ってね」
 小さな小さな雪だるまを作った春真。両手にかき集めた雪を持った春真。吉野の歌の雪ほどになれば、いくらでも大きな雪だるまが作れることだろう。かき集めなくとも両手いっぱいに雪があることだろう。
「うん、それって楽しそうだね……でも……」
 口ごもった春真は甘酒を一息に飲んだ。すぐそこで伯父が同じように甘酒の残りを飲んでいる。奇妙によく似た仕種に真人は笑みをこぼし、けれど首をかしげる。
「どうしたの、ハル」
 何かを言いかけて、そしてやめてしまった春真のそばに真人は行き、まだしっとりと湿ったままの髪に手を滑らせた。
「ねぇ、怒らないよね」
「ハルが悪いことしたんじゃないのに僕が怒ったこと、あったかな」
「……あったなどと言ったら説教をくれてやるからな」
 ぼそりと夏樹が言い、伯父の態度に春真は大きく笑い声を上げた。なんということを言うのか、と険しい目で彼を見たけれど、真人はふと気づく。もしかしたら夏樹のそれは戯言であって、春真をくつろがせようとした言葉だったのかもしれないと。
「夏樹」
「なんだ」
「あなた、冗談は下手なんだから。わかってるの」
「生憎と本気だったがな」
 大人二人のこそこそとしたやり取りを聞きつけて春真はまた笑った。今度は口許を覆って体を折っているのだから、手に負えない。上目遣いに見上げる目が、それでも可愛いと思うのはどうしてだろう、と真人は呆れつつ笑ってしまった。
「あのね、真人さん。僕ね、この庭の雪、とっても楽しかったよ。どっか遠いとこになんか行かなくっても、とっても楽しかったよ」
 幼い子供の足らない言葉。それでも懸命に、自分がなにを思っているのか伝えようとしている言葉。真人は胸を打たれて春真を抱きしめたくなってしまう。
「ねぇ、真人さん。さっきの歌、続きがあるっぽかったよね。どんな話なの」
 自分で伝えようとしていたことに不意に春真は照れてしまったらしい。真人はもどかしい思いを抱えつつ、春真のために続きを話してやることに決めた。
 決めた途端に、理解した。なんということはなかった。春真はただ、今この瞬間。自分がいて真人がいて、伯父がそれを見守っているこの時間がたまらなく楽しかった、それだけを言っていた。大人ならば簡単にこう言うだろう、かけがえのない時間だった、と。
「吉野、と言う山に降った雪だったんだ、それは。そこは京都に都ができるより前、大昔にそのころの都人たちが遊んだ大事な山だった。神聖な山、霊山だ」
 舌を失くしてしまったかのような真人に代って話したのは夏樹だった。わずかに春真はきょとんとし、すぐに歌の続きだと理解したのだろう、聞き入っている。
「この歌を詠んだ歌人は、そのころよりずっと後の時代の人でな。雪はあのころと同じなのに、昔の人々はもういない、雪よ、覚えているか、あのころの素晴らしい日々を。時代は移り変わってしまったけれど、歌人の自分の目にはあのころが見えるようだ。そうだ、実際に見えている。だからこそ、吉野の山は自分にとって、故郷だ。いくら時が流れ過ぎ去って行こうとも」
 言葉を連ねるに連れ、夏樹の声は朗唱のようになって行く。本当に、そうなのかもしれないと真人は思う。夏樹はいま、自分の中に生まれた文章をただ読み上げているのかもしれない。
「すごい、伯父さんってすごいんだね。なんか、すごい山が見えたような気がしちゃった」
 ふるり、と体を震わせた春真は、本当に吉野の深山にいたかのようだった。その場で、雪の深さ寒さを体験したかのように。
「ハルの伯父様はとってもすごい人なんだよ、本当にね」
「お前に褒められると、褒められてる気がしないのはどうしてだ」
「それはあなたが疑り深いからじゃないかな」
 文句を垂れる夏樹に真人は軽く言い返す。単に夏樹が照れているだけだと知っていたから、強いものだった。
「そっか、ほんとじゃないけど、ほんとの故郷、か」
 春真が呟き、そしてそっぽを向いた。どこかで見覚えが、と思えばどうと言うことはない。照れた夏樹がよくしている態度だった。それに小さく微笑んだのも束の間、真人はまた言葉を失う。
「だったらさ、僕の故郷って、伯父さんちだよね。ここが、どんなことがあっても、僕の故郷だよね」
 答えられない真人に代り、夏樹はどう返事をするのだろう。見やれば、意外なほどに優しい顔をして夏樹は春真の背中を見つめていた。
「お前がそう思いたいなら、ここはお前の故郷だ、春真」
 突き放すような言葉だった。けれどこの上なく柔らかい声をしていた。向こうを向いたまま春真はこくりとうなずく。
 寂しいはずだった。実家には両親と暮らす兄がいるのだ。いくら姉の病気とはいえ、寂しくないはずはなかった。春真は一度たりとて言ったことはない、どうして自分だけが、とは。
 頑張っているのだと思っていた。春真は春真なりに、やはり頑張ってはいるのだろう。それでも。真人は耐え切れなくなって席を立つ。台所に逃げる前、春真の頭を軽く撫でていった。
「あ、真人さん」
 もう座敷から出る直前に春真が振り返る。いつもと同じ子供らしい笑顔をしていた。
「ん、なに」
 真人はその場から動かずわずかに春真を振り向くのみ。今この顔を見られたくなかった。
「やっぱりさ、そんなすごい雪も、見てみたいな。伯父さんと、真人さんと一緒に」
「どうせだったらお前の家族と行けばいいだろうに」
「そんなこと言わないで一緒に行こうよ、伯父さん。ね、真人さん。約束だよ、いつか一緒に行こうね」
 真人は息すら詰まった気がして返事ができなかった。そう思っていたけれど、約束はしたようだった。約束、約束、と春真がはしゃぐ声がしていたから。
「約束、したのにねぇ」
 庭の薄雪にそんなことを思い出して真人はあのころの春真の声を聞いた気がした。
 自分では覚えていない約束だった。けれど春真はあんなにも喜んでいた。だから真人にとってこれは大事な約束だった。
「どうした、真人」
「ん。ハルとした約束、まだ果たしてないなって思って」
「あぁ……吉野か」
「うん。吉野の雪を一緒に見に行こうって言って、結局連れて行けないままハルは帰っちゃったでしょう」
 いかにも心残りで仕方ないとばかりの顔の真人に、夏樹はそっと微笑む。手にはずいぶん前に真人が作ってくれてもう冷めた、あのころと同じ甘酒。
「今度誘うにしても……いい加減に雪だるまと言う年でもないか」
「あっという間だよね、子供が大きくなるのって」
「所帯じみたことを言うやつだな。――真人、おかわり。生姜をもう少しきつく」
「まったく。どっちが所帯じみてるんだか」
 言いつつ笑って真人は立ち上がる。甘酒は栄養のあるもの、おかわりをしてくれるならこんなに安心することはない。そう思った途端、やはり所帯じみているのは自分のほうかと思ってまた、笑った。




モドル