「よう、春真。いいものを持ってきたぞ」
 明るい露貴の声がした。いつものように庭先から。珍しく夏樹より先に春真に声をかけた、と思って真人はちらりと顔を覗かせる。それもそのはず、大荷物を持っていた。
「なんだ、それは」
 不機嫌を装った夏樹の声。ここにいる誰もがそれを知っている。だから夏樹はただ遊びにきた露貴が嬉しいのだと真人にはわかる。あからさまにそう言うのが色々とはばかられて、そんな声になる。
「露貴おじさん、こんにちは」
 もう幼いという年ではないせいか、昔のように飛びついたりはしない。それが嬉しいような寂しいような複雑な目を露貴はする。
「はい、こんにちは。春真君にお土産ですよ」
 茶化して彼は言い、大荷物を座敷に下ろした。上がれと言われるまでもなく上がり、当然のように夏樹と相対している露貴に真人は腹を立てはしない。少しばかりなんとも言いがたい気持ちにはなるけれど、それはどことなくくすぐったさを覚えるような感覚だった。
「露貴」
 短く呼んだのは、先ほどの答えを待っていると示すためだろう。だが露貴は黙って首を振る。春真が土産を広げるのを楽しそうに見守っていた。
「わぁ、すごい。これって双六だよね。露貴おじさん」
 出てきた大きな箱を開けば双六と言うにはいささか不思議なもの。真人は目顔で露貴に挨拶をし、茶を勧める。
「新発売の、アメリカ製のゲームさ」
「へぇ、なんかよくわかんないけど、すごいな」
「どうだ、かっこいいだろう」
「うん。すごいよ、おじさん」
 頬を紅潮させる春真を、露貴は目を細めて見つめていた。夏樹もまた、黙ってそれを眺めている。
 真人は時々、いつか春真は知るべきではないのだろうか、と思う。制度上も道徳上も確かに問題はあった。けれど二人が愛し合ってできた子が、雪桜なのだ。露貴はいまだ春真を孫とは言えずにいる。言うつもりもないのかもしれない。
「なんだ、せっかくの新しいゲームなら、息子にやればいいだろうに」
 夏樹は露貴をからかうようにそう言った。彼もまたわかっているのだろう、顔の前で嫌そうに手を振る。
「あいつはもう大人だからね。父親とゲームなんかしちゃくれないのさ」
 露貴の息子、勇人は幾つになるのだったか。咄嗟に思い出せなくて真人は考えてしまう。そして勇人の存在に思いを馳せた。彼は父の不義の娘をどう思うのだろう。
 春真にとって露貴は祖父だ。が、勇人にとっては父親だ。不意にごく当たり前のことに気づく。春真一人の、あるいは春真と露貴だけの問題ではないのだと。
 だからこそ真人は迷う。どう考えても自分が春真に教えていいことではない。これは夏樹と冬樹が考え、冬樹と雪桜が決めるべきこと。春真も春樹も志津も露貴の孫なのだから。そこに真人は入ってはいかれないし、入るべきでもないと心得ている。心得てはいるけれど、この家にきて春真と遊ぶ彼を見ているとやはり、迷う。
「どうだ、真人君」
「え。ごめんなさい、全然聞いてなかった」
「そうだろうと思ったよ」
 からりと露貴は笑い、土産を指差す。一緒にやらないか、と勧めてくれた。そんな露貴を春真がきらきらとした目で見つめていた。
「ごめんなさい。いま、ちょっと手が放せなくって」
 春真が楽しそうにしている。露貴が嬉しそうにしている。だからだった。真人は邪魔をしたくない。彼らは決して邪魔だとは思っていない。それはよくよくわかっている。
 これはたぶん、よけいな気遣いなのだと真人は思う。ほとんどお節介の部類だ。それでも、口にすることができない孫との時間を真人は邪魔したくなかった。
「なんだ、仕事か」
 夏樹がわかっているよ、とでも言いたげな目をして小さく微笑む。
「ううん、台所で五目豆、煮てるの。遊んでたら焦げちゃうよ」
「やった、五目豆、僕好きなんだ」
「変わった子供だなぁ、春真は。普通はああいうものは嫌いだろうに」
 露貴の言葉に春真はぷん、と頬を膨らませた。それからいかに真人の作る五目豆が美味かを語って聞かせる。
「わかったわかった。真人君の料理上手は私もよく知ってるからね。さぁ、夏樹。一緒に遊ぼうじゃないか」
 どことなくそれは春真の口上から逃げる風でもあって、夏樹は大きく声を立てて笑った。珍しいそれを横目に見つつ真人は立ち上がり、台所へと戻っていく。
 俎板に向かって野菜を切りつつ、ほんのりと笑みをこぼす。実は嘘だった。五目豆は煮あがっている。仕事、と言うよりこちらのほうがもっともらしく聞こえるだろう。それだけのこと。
「まったくな」
 一家の主婦ではあるまいに、料理をしているというほうが真実味があるというのはいかがなものかと笑えてしまう。
「僕にも仕事はあるんだけどねぇ」
 人参を切り、牛蒡を笹がきにする。金平を作るつもりだった。ある意味では、ちょうど具合のいいところに露貴はきた、とも言えた。時々真人は常備菜の作り置きをする。食の細い夏樹が少しずつでも食べられるように、と思ってのことだ。今日は偶然にもその日に当たっていた。
 野菜を切り、鍋の具合を見、胡麻をする。その間にも座敷からは賑やかな声が聞こえていた。
「あ、待って。伯父さん、ちょっと待ってよ。もう一回」
「だめだ、待ったはなしだ」
「厳しい伯父さんだよな、春真。よし、六つ進んだ。なんだって、子供が生まれただってさ。面白い双六もあったもんだよ」
 自分でアメリカ製のゲームだと言ったくせにすっかり双六になってしまっている。騒ぎ声を聞きつつ真人はくすくすと笑いをこぼしていた。その耳がふと玄関先の物音を捉える。
「はい――」
 慌てて手を拭って出てみれば、なんとも間も悪いことに夏樹の編集者だった。
「大変申し訳ありません。篠原先生は――」
 できればご在宅でなければいいのだが、とありありとその顔に書いてあって真人は笑いを噛み殺す。某かの用があってきたものの、篠原が訪問を好まないのは心の底から承知しているらしい。
 そこに聞こえてきた声に、編集者はぎょっとしたよう固まってしまった。真人はそっと笑いをこらえる。
「待って、伯父さん待ってってば。今のなし、ね。もう一回、もう一回だけだから」
「だから待ったはなしだって言ってるだろ。男らしくないぞ、春真。そんなんじゃあ、お前が目指すいい男はずいぶんと先のことだな」
 どこからどう聞いても篠原忍の声だった。編集者がまさか、とでも言いたげな顔で真人を見つめる。どうか否定してくれと言うような目を真人はあっさり退けてうなずいた。
「伯父さん優しくないよなぁ、春真。どうだ、露貴おじさんちに来るか」
「ほんと、おじさんちに行っちゃおうかな。ね、伯父さん。僕がいなくなっちゃったら寂しいよ、だから待った一回、ね」
「誰が寂しがるか。寂しいのはお前だろうが。露貴のところには真人はいないぞ。いいのか」
 甥相手にむきになって言い返しているような声。言葉面はそうだったけれど、多分にからかいが含まれていて、真人はこらえきれずに吹き出した。
「あの……今のは……」
 それ以上見開いたら目玉が地面に落ちる。真人は編集者を見てそう思った。これを笑うのはさすがに失礼だろう。なんとかこらえきって真人は微笑む、頬の辺りは引きつったが。
「篠原が甥と遊んでいるんですよ」
「……篠原先生が、ですよね」
「そうですよ」
「あの、篠原先生ですよね……」
 いったい彼は篠原忍をなんだと思っているのだろうか。偏屈で人嫌いで、家にくれば怒鳴られるとでも思っていかねない。
 その篠原が、笑い声を上げて甥と遊んでいる、らしい。それがどうにも編集者には飲み込めないらしい。彼の顔に真人はそれだけのものを読み取っては目を伏せる。顔を見続けていては吹き出しそうだった。
「篠原先生でもお笑いになるんですねぇ」
 なぜか感に堪えたよう彼は言い、改まって一礼した。あまりにも不自然なものを耳にして、自分でもわけがわからなくなっているのだろう。
「失礼しました。以前、先生からご依頼がありました資料です。遅くなってしまったので、郵送よりは、と思いまして。お渡し願えますでしょうか」
「承りました。頃合を見はかって、渡しておきます」
「どうぞよろしくお願いいたします。それにしても――」
 資料の入った封筒を真人に手渡した編集者はよほどほっとしたのだろう。額に滲んだ脂汗と思しきものをようやく拭った。
「どうしました」
「いえいえ、その。水野先生がご在宅でよかったなぁ、と」
「私はたいていは家にいますよ」
 朗らかに笑って言えば、そうなのですけれど、と編集者は苦笑する。
「遅くなってしまったと気に病んではいたんですが、かと言って訪問するのも気が引けて」
「あぁ、なるほど」
 真人はやっとのことで笑いの衝動が去り、ようやくのことで当たり前に微笑むことができた。
「篠原さんは、そういう心遣いのできる方なら、それほど邪険には扱いませんよ」
「はぁ。ですが――」
 彼には篠原忍は怖い作家、なのだろう。真人の言葉を疑うわけではないのだが信じがたい、そんな顔をしていた。それから一くさり、何事かを言い、会社へと戻っていく。その間にもずっと春真のはしゃぎ声に露貴の笑い声が聞こえていた。無論、夏樹の楽しそうな声も。
「いま持っていくと、きっと機嫌が悪くなっちゃうよねぇ。せっかく遊んでるんだし」
 後にしよう、と真人は家裡に戻って小さく笑う。いずれにせよ、どんな急ぎの資料かは知れないが、露貴と春真と遊んでいるうちは夏樹は仕事はしないのだ。露貴が帰った後に渡してもなんら問題はない。そう決めて真人は台所に戻った。常備菜が出来上がったら、少しずつ詰めて露貴に持たせようか、そんなことを思いつつ。




モドル