編集部に行っていた真人が機嫌よく戻ってきたのは午後のことだった。その手には大ぶりの封筒。中にはたくさんの手紙が入っている。
「はい、夏樹。これがあなたのぶんね」
 いわゆる読者からの手紙、というものだった。外出嫌いの彼のため、篠原宛の手紙を真人が預かってくるのもいつものこと。
「あぁ――」
「さすがだね」
「なにがだ」
「さすが篠原忍先生。手紙の量が多いよ」
 自分の分と比べて真人は笑う。が、その顔に僻みはない。小説と和歌と言う読者層の違いも真人は心得ていて、そして時々そのようなことを言って夏樹をからかうのだった。
「ずいぶん増えたな」
 ちらりと手紙を見やって夏樹は言う。それに真人は本当だね、とうなずいた。
「前は僕宛のなんて、半年に一度あればいいくらいだったんじゃないかな」
「それだけお前が頑張ったと言うことじゃないのか」
「別に頑張ってるつもりがないから、困るんだよ。僕は自分で好きなことを勝手にやってるだけなんだけどね」
 人に聞かれたらどれほどの誤解を招くかわからないことを真人は笑って言う。相手が夏樹だからだ。だからつい、夏樹も笑ってしまう。
 それから互いに別れて手紙を読みはじめた。夏樹も真人も自分の、あるいは相手のために書いて詠んでいるのであって、必ずしもそこに他者の介在を必要とはしない。
 そうは言ってもなにかしらの反応をもらうのはやはり、嬉しくも思う。時々夏樹がにやりとするのは、自分の仕掛けに気持ちよく騙されてくれた読者がいるせいだろう。
 突然だった。今この瞬間まで楽しそうに手紙を読んでいた真人が呻き声を上げたのは。そのまま机に伏せて頭を抱える。
「おい――」
 咄嗟に夏樹はなにをしていいものかわからなくなった。自分と比べるまでもなく、身体の丈夫な真人だった。だがもう若くはない。もしや何らかの発作か、急病かと焦ったのも致し方ないことだろう。
「うわぁ……。やっちゃったよ……。夏樹、ちょっと前の号、とって」
 突如として跳ね上がり、真人は百人一首の載った最新号を寄越せ、と言う。夏樹は確かに自分の口があぁだのおぉだの言ったのを聞いた気がした。
 その間に真人は物凄い勢いで資料を取りに行く。ばさばさと本をめくり、一冊を確かめてはまた別の本を見る。
「あぁ、ありがと。うわ、ほんとだよ。参ったなぁ――」
「あのな、真人」
「ん、なに。ごめん……夏樹、どうしたの。顔色が悪いけど」
 はたと気づいた真人が心配そうに夏樹の顔を見つめる。額に手を当て、首筋で脈を取る。夏樹は長く深い溜息をついた。
「夏樹……」
「お前だ、お前。突然、呻いて突っ伏して、かと思ったら跳ね上がる。何事かと思うだろうが」
「あ……」
 自分の振る舞いにやっと気づいた真人が頬を赤らめた。どうやら発作でも急病でもないらしいと見極めて夏樹はほっと息をつく。
「真人、茶」
 横柄に言えば、素直に詫び代わりの茶を淹れてくれた。ぬるいそれを一口飲んで、ようやく人心地がついた気がした。
「それで。どうしたんだ」
 だいたいのところはすでに見当がついていた。読者からの手紙、多くの資料。と来れば夏樹にもいささか覚えがある。
「やっちゃったよ、間違い」
「どれだ」
 言いながら最新号を手にする。長大な小説と言うわけではない、すぐに読み終えてしまったが、夏樹には間違いが見つけられなかった。
「で。どれだ」
「これだよ、これ。忠家は俊成の父親じゃない」
「……言っていいか」
「ん。なに」
「――そんなもん、わかるか」
 いつもの真人ならば、そうだよねぇ、とでも笑ったのだろう。だが今は情けなさそうな顔をしただけだった。歌に関する限り、真人は自分の過ちが恥ずかしくてならないらしい。
「原因もね、わかったんだけどさ」
「資料か」
「うん。百人一首一夕語ね、あなたに前に借りた本。周防内侍のところの小話にさ父親って書いてあったのをうっかり、そのまま」
「あぁ……なるほどなぁ」
「でもさ、ちゃんと俊成のところには祖父ってあるんだよ。調べなかった僕が悪い」
「まぁ……それはなぁ。よくある間違いとは言わんが、書籍化、するんだろ。そのときに訂正を入れるしかないな」
「それですまないよ」
 はぁ、と長い溜息を真人は吐く。自分の間違いがよほど悔しいのだろう。夏樹にも覚えがあるだけに、もう済んだことだとはとても言えない。書籍化するまでの間、間違いが世にさらされ続けているのかと思えば気も重いと言うもの。
「しかし、あれだな。よくこんな細かいところに気づいたな、その読者殿は」
「本当だね」
「忌々しいだろう」
 にやりと笑って夏樹が言えば、真人はきょとんとして目を瞬いた。それから首をひねって改めてもう一度先の手紙に目を通す。
「ううん。僕は――そうだな、強いて言うならありがたい、かな。悔しいし恥ずかしいしみっともない。それを指摘されるんだから、顔なんか上げられないとも思う。でも、それを言ってくれるのは、すごく嬉しいよ。言われなきゃ、僕は気づかなかったはずだからね」
 自分の思いを噛みしめるよう、真人はゆっくりと言葉を選んでそう言った。その姿に夏樹は莞爾とする。
「だったら、それで済ませちまえよ。出回っちまったもんは仕方ない。そもそもお前が気づかなかったところは編集者が見つけるものだろうが」
 だがあえて夏樹はそう言った。忘れろ、人のせいにしろ。普段の彼ならば決して言わないことに真人は驚く。まじまじと見やって、そして吹き出した。
「ありがと、夏樹」
「なんだ、急に」
 似合わない無頼めいた口調で、わざわざ不埒なことを言って見せた。真人が決してうなずかないと知っているからこそ。
 夏樹もまた、作家として数々の間違いはしでかしてきていることだろう。一部には真人も立ち会っていたし、その際の夏樹の振る舞いも見てきている。
 だから夏樹は間違いなく、その一つ一つを忘れてなどいない。思い出すだけで身悶えしたくすら、なるだろう。
「こうやって間違ってるよって教えてくれる読者さんは、本当にありがたいよねぇ」
 思えば真人はぞっとするのだ。自分では間違っていたなど少しも思っていないのだ。それならば書籍化するときにだって気づけたはずはない。
 真人は思う。文章を書く、と言うことの苦手な真人は、いまだに誤字というものが減らない。自分では何度も清書をして、直しているつもりだ。今度こそ完璧、そう思っても必ずひとつやふたつの誤字はある。
 それを開き直るつもりはないけれど、夏樹は言った。自分の文章と言うものは、自分の頭の中で読んでいるのも同然だから、どうしても間違いを見落とす、と。読んでいるのは目の前の文章ではなく、頭の中の文だ、と彼は言う。
 その言葉に真人はしみじみと納得したものだった。そして、だからこの過ちにも、気づいたはずはないと思う。こうして指摘されなかったならば。
「夏樹。励ましてくれて、ありがとう」
 ありがたいけれど、落ち込むことには違いがない真人を、種類は違うものの、創作家の同類として慰めてくれた夏樹。それがわかって真人は微笑む。
「お互い様、と言うやつだな」
 肩をすくめて夏樹はそっぽを向いた。きっと照れたに違いない。真人は小さく笑って茶菓子を出す。からからと、小粒のあられの音がした。
「干菓子がいい」
「落雁、嫌いじゃない」
「和三盆の」
 贅沢を言い、夏樹はあらぬ方を向いたまま手だけを後ろに突き出す。掌に菓子を三つばかり乗せてやれば、口の中に放り込む。
「はい、お茶」
 新しく淹れなおした茶は、菓子に合わせて少し渋くした。黙って飲んだから、気に入ったのだろう。口許に笑みを刷き、真人は手紙の束に目を戻す。
 横目で見やれば、夏樹もいつの間にか手紙に戻っていた。彼の手紙は真人の三倍ほどは充分にある。いったいどんな感想が書いてあるのだろう、と一読者として気になったが、読者からの手紙を見せ合ったことはない。これは一人ひとりが自分に宛てて書いてくれたもの、と心得ていた。目の端で、夏樹の唇が笑ったような歪んだような。
「どうしたの」
 真人が尋ねるのに夏樹は黙って首を振った。口を開けば笑い出しそうで、とてもこらえきれそうにない。
 夏樹の元には色々な手紙が来る。その多くは真っ当な読者からの手紙で、一部は偉い人か自分を偉いと思っている人からの叱責。通常は水野琥珀の傍若無人とそれをたしなめない篠原忍の甘さに関するもの。
 そして稀に、間違っても真人には見せられない類の手紙が来る。夏樹としては大笑いだ。いったいなにをどう勘違いしたらそうなるのか、と首をひねってそのまま寝違えそうなほど。
 言うに事欠いて水野琥珀が奥床しいはない、と夏樹は思う。極々稀に、真人を奥床しいと思うことはある。ただそれはそれ以外に表現のしようがないからであって、本心から慎ましい淑やかな男だとは思ってもいない。
「だいたい語義が矛盾だ」
 ぽつりと言えば、また真人がこちらを向く。それをなんでもないと手を振って殊更に当たり前のふりをして見せた。
 これもある意味では読者なのだろうか、と夏樹は思う。確かに突拍子もない勘違いと思い込みをしてはいるが、篠原忍の作品も水野琥珀の作品も丹念に読み込んでいるようには思う。
「なぁ、真人」
「ん、なに」
「世の中には不思議なことがあるもんだな。いや……手紙とは関係がないんだが、ふとそう思った」
 突然になにを言い出すのか、と笑う真人に夏樹は微笑み返す。
「それで。どうしたの」
 問われても今度はにやりと笑って答えない。不意に気づいた。勘のいい男だ、何かを察してしまわないとも限らない。世の中には明後日の方向に飛んでいったはずなのに、なぜかちゃんと答えはあっているということがあるものなのだな、とはとても言えなかった。




モドル