うっとりと庭を眺めつつ、真人が何かを呟く。抑揚を伴っていたからすぐさまに夏樹にはわかる。歌を詠んでいた。
 こんな見飽きるほど見続けた庭を、こんな当たり前の日に眺めてもまだ真人は詠むことがある。それが羨ましいような快いような、なんとも言えない心地がする。
「なにを――」
 詠んだのだろうか、彼は。思ったときには言葉が口から滑り出てしまっていて夏樹は苦笑する。真人が面白そうにこちらを見ていた。
「ん、なに。夏樹」
 問いの内容まですでに知れているような声音。それなのに真人は問う。会話そのものが楽しいのかもしれない。これほど長く共にあってもまだ。
「なにを詠んだんだろうな、と思っただけだ」
 むつりと言うのは、そんな真人に照れたせいだった。いまだに夏樹にはわからないことがひとつある。
 なぜ真人は自分を選んだ。性別だとかその手の面倒な問いはすべて飛ばして、なぜ自分だったのか。夏樹には確信がある。万が一、自分が女性だったとしても、あるいは突拍子もなく年齢が離れていたとしても、真人は必ず自分を選んでくれたと言う確信が。
 さすがにそれは口にはできなかった。誰がどう好意的に解釈したとしても、疑問ではなく惚気にしか聞こえない。
「なにって言われてもねぇ……。一言で済ますなら、あなたなんだけど」
 からからと真人は笑った。確かに、と夏樹も納得してしまう。月を見ても花を見ても、結局のところ真人が歌うのは自分だ、とわかっている。
「そうだね……。なんて言うんだろうね。僕はさ、こういう、言葉にできない思いがあるから、歌があるんだと思うよ。もどかしくて、どうしようもなくて、それでも何かを言いたいから、歌うんじゃないかなぁ」
「お前なぁ」
「言いたいことはわかってるけどさ、あなたの言い分は」
「別に俺はいいさ。俺は、お前がなにを言いたいかは、わかってる。だがな、真人。人には言うな。誤解を招くぞ。お前が和歌至上主義で、小説他散文は下に見ている、なんて言いだす輩がいないとも限らん」
「夏樹――」
「ちなみに。俺にはお節介でお人よしで鬱陶しい編集者がいくらでも付いている。その手の話題がどこかで出たら、お前より先に俺の耳に聞こえてくるぞ」
 自分の耳に聞こえていないのだからまだ何もない、と夏樹は言う。もっとも、聞こえてこないからと言って誰もそう思っていないとは限らないところが人間の怖いところだ。
 仮にも水野琥珀と言う歌人を知っていたら、間違ってもそんな問題は起こらない。加賀真人でなくていい、水野琥珀で充分だ。そのどちらも知らない人間がああでもないこうでもないと知った口をきくのだから、夏樹としてはうんざりとする。
 作家同士の懇親会などで、夏樹は何度言われたかわからない。篠原は琥珀に甘すぎると。そのたびに適当にあしらってはきたが、ならばその相手は彼を知っているのか。否だった。
 言い分も、わからなくはないのだ。琥珀は文章家としては稚拙で、随筆の体をようやくなしているに過ぎない。篠原の目で見れば、そういうことになる。
 同時に、篠原の目で見たとしても、琥珀は好みの文筆家でもある。たどたどしいような、困惑の深い文章がとても好きだった。だから決して日常を共にしているからとか、かつて書生だったからなどと言う理由で琥珀を買っているのではない。
 そして琥珀の批判者は「現代の文豪・篠原忍」が、そんな子供の作文に毛が生えたような文章を綴る男を本気で買っているなどとは認めない。勝手に決めるな、と夏樹としては言いたい。言っても無駄だから、言わないが。
「ねぇ……」
「本当に、その手の噂話は聞こえてないからな」
「他には聞こえてるって顔だね、それは」
「……まぁな」
「篠原さんが僕なんかを贔屓するのが気に入らないって人は多いだろうからねぇ」
 朗らかに真人は言うが、夏樹の表情は厳しくなる。それをなだめるよう、真人はそっと微笑んだ。
「それって、ずいぶんと失礼な話だと思わないの、あなた。あなたは、贔屓するような男だと思われてるんだよ。篠原忍が、自分の身内同然だからって引き上げてやってるように思われてるんだよ。僕にはそっちのほうがよっぽど腹立たしいけどな」
「お前なら、そう言うと思ってたさ」
「そう思われないよう精進するって言いたいところだけどね、僕は歌人で文章家じゃないからね。こればかりは努力してもどうにもならない」
 どことなく突き放すような口調。だが夏樹は間違わない。なりたくてもなれないもの、あるいはなりたくもないのにやれと強要されているものにたいする蔑みではなく、真人の声にあったのはただひたすらな和歌への憧れ。歌だけを追いかけて、極めることなど叶わないと知っていて、どこまでも走って行きたいとの思い。
「そう言えば――。前にもそんなこと、忠告してくれたよね。百人一首のとき。久方の、だったかな」
 小首をかしげて真人は言う。そこにまた同じことを言わせてしまったかとの後悔があるのならば夏樹は話題を切り上げるつもりだった。だが、意外と頑固な自分だな、と真人は己を笑っていただけだった。
「あぁ、確かそうだった。あのときもお前、結局そのまま書いただろう」
「あれはねぇ。いいことじゃないと思うんだけど、苛々してたんだよ、僕は」
 気がつかなかった、と夏樹が今度は首をかしげる。毎日同じ空気を吸って生きていても、心の襞の一つ一つがわかるわけでもない。それでも何かが癇に障っているときくらいは、わかるつもりだったが。
「あれはね、だから僕の八つ当たり、なのかな」
「――なにに」
 苛々としていたのか。まっすぐに尋ねかねて夏樹は言葉を濁す。くみ取ってくれる真人だと知ってはいるが、時折そんな自分に嫌気が差す。それをたしなめるよう、真人の手が夏樹のそれに重なった。
「そうだね。強いて言えば、紀友則にかなぁ」
 わざと謎めかしたことを言い、真人は口許で笑みを作ってみせる。どうだわかるか、とばかりのその顔に夏樹は笑みを返した。
「現代語訳のしにくい歌をよくも詠んでくれたな、と言うところか」
「なんだ、残念」
「正解か。だったら――」
「はいはい、お茶を淹れますよ。茶菓子はなにがいいかな。あぁ、露貴さんが持ってきてくれた芋羊羹があるよ、食べる、夏樹」
 勝負事など、意味がない。買っても負けても真人は茶を淹れてくれる。だからそのようなことを言うのは、どことなく浮かない顔をしていた夏樹のためだった。読まれていたか、と夏樹はこっそり笑みこぼす。せめてありがとうの一言でも言えればいいのだけれど、これもまた素直には出がたい。
「僕はさ――」
 厚く切った芋羊羹を口に運び真人は言う。夏樹は同じ店のあんこ玉のほうが好きなのだが、露貴はいつも芋羊羹を持ってくる。
「あの現代語訳にまだ、納得していないんだ」
 ただ、いまの僕にはあれ以上はどうにもならない。真人は呟くように言い添える。この言葉を琥珀の批判者――と言うよりも篠原が甘すぎると思っている輩――に聞かせたならば、いったいどんな反応をするのだろうと夏樹は思う。
「つくづくと僕は歌を詠む人間で、訳す人間じゃないと思ったね。語句を追うことなら、誰でもできるんだ。辞書があれば事足りる。でも、訳ってそういうものじゃないものね」
「必要なのはむしろ文章力だろうな」
「本当だよね。僕にはそれが足らない。まったくないとは言わないけどね」
 最後だけは茶化すように言って真人は肩をすくめた。
「いまだに恨んでるよ、僕に百人一首の話を持ってきた編集者。自分ひとりさっさと異動しちゃってさ。こういうのは歌人じゃなくて、古典の素養がある小説家がするべきだよ」
 ちらりと夏樹を見て、真人は笑った。あなたのほうが本当は得意なんじゃないの、とでも言っているようで夏樹は首を振る。
「古典の素養がないとは言わん。そもそも元は国語の教師をしていたわけだしな」
 子供のころに叩き込まれた、とは言わない。真人にはそれで通じる。言葉面だけを受け取ったふりをして、真人は微笑んでうなずいていた。
「だがな、こればっかりは好き好きだ。俺はたぶん、現代語訳をするのが好きじゃないんだ」
「自信があるよねぇ」
「どこがだ」
 不思議そうな夏樹に真人は笑いながら首を振る。その仕種に苛立った風を装って、夏樹は芋羊羹を口にした。久しぶりに食べるとこれはこれで旨い気がした。
「古語をね、普通の日本語と同じように理解できるってことじゃない。だから現代語訳は要らない。むしろあなたにとっては邪魔になる。だって、同じ日本語であったとしても、古語と現代語とでは決定的に意味に齟齬があるからね。古語で言えることが、現代語では言えなかったり。そんなのがたくさんあるじゃない」
「まぁ、だから現代語訳ってのは冗長にならざるを得ん、と言うところが無きにしも非ず、と言うところか」
 お前のことではないぞ、と慌てたように夏樹は言い足す。心得ているから、と真人は顔の前で手を振った。
「だからね、僕としては思うんだよ。冗長になりがちな現代語訳を美しく纏め上げるのは文章に長けた人だってね」
「とは言うがな。作家と言うのは、基本的に自分の頭の中に住んでいるようなものだ。外から入ってきた文章をひねくっている間に、まとめているはずが自分の文章になってる、なんてことになりかねん」
「あぁ……そうか。そういうことにもなるんだ」
「自分の中にこれ、というものがあるからな。気づけば歌人が詠んでないことまでいけしゃあしゃあと言いかねんな」
「それは僕もやってるよ。そうでもしないと纏めるなんて、絶対無理」
 顔を顰めて言うものだから、真人の四苦八苦ぶりが窺えるというもの。夏樹は笑いを噛み殺し損ねて、彼に悪戯にではあったが睨まれた。
「ねぇ。あなただったらあの歌、どう現代語訳したの」
 他愛のない興味だから聞き流すならばそれでいい。真人の口調にそれを聞き取り、夏樹はしばし庭へと眼差しを投げる。
「留まることなく花が散る。いとけなくも長閑な春の陽射しに。――ふむ。まずいな、やっぱり巧くはできん」
「どこがさ。そういうのが咄嗟に出るのがまず僕としてはすごいなぁと思うんだけどな」
 いかにも呆れた、と真人が目で笑う。夏樹は言い返そうとした。真人のどこが立派で、なにを心から尊敬しているのかを。だが、やめた。どう考えても、互いに惚気ているだけだと、寸前に気づく。そんな夏樹を、真人は目を細めて見つめていた。




モドル