春真を寝かしつけて、ようやく真人は座敷に戻ってきた。時々振り返るのは、それでも春真を気にかけるせいか。
「どうした」
 何か気がかりでもあるのか、と夏樹が問いかければ真人は笑って首を振る。
「なんでもないよ」
 だがそうは見えなかった。それでも夏樹は黙っている。さすがに原稿に手を付ける気にはなれなかったけれど、ただそこにいた。
 それで、真人が言うべきこと、聞いて欲しいことがあるならば言う、と知っていた。それでもなお口を開かないのならば、いまはまだ告げないと真人は決めている。それも知っていた。
「真人、茶」
 言ったそばから、茶が出てきた。驚いて見やれば、とっくに支度をしていたのだろう、くすくすと笑っていた。
「それと、これだよね」
 頂き物の栗の菓子だった。栗きんとん、と言うのが一番近いのだが、餡の部分までいまどき珍しくきちんと栗で作ってある。甘いことは確かに甘い。だが夜の菓子にするのはちょうどいい。二人きりになってほっと一息つくには、本当に。
「あぁ――」
 言いつつ夏樹が茶菓子を口に運んだ。ねっとりと甘い菓子は、いつもの彼ならば好まない。少しばかり疲れているのかもしれないとも思う。
「お前、よく」
「これがいいってわかったか、不思議かな」
「まぁな」
 夕方から疲れていた顔をしたから。そんなことを言えば夏樹の顔はもっと曇ってしまうだろう。だから真人は言葉を濁す。それなのに夏樹は苦笑した。
「なるほどな」
「なにも言っていないじゃない」
「言わなくても、わかる」
 戯れめいた短い言葉。だが真人は動けなくなった。菓子を口に持って行ったまま、ひくりと止まる。
「おい」
 夏樹こそ驚いたのだろう、手を伸ばして膝を打つ。軽い音がして、はじめて打たれたと気づいた真人は仄かに笑った。
「どうした」
 不安そうな夏樹の目。真人は首を振り、それでは彼の懸念が消えないとばかり言葉を探す。簡単にはみつからなかった。
「なんて言ったらいいのかな……」
 すぐそこの部屋で眠る春真の寝息が聞こえるような気がした。夏樹のぬくもりが離れているのに感じられる気がした。
「なんだか……」
 言ってわかるのだろうか。わかってくれると思う反面、理解されなかったならばどうしようとの思いに揺らめく。
「一夜の夢、そんな気がして」
 ぽつりと呟けば夏樹が声をあげて笑った。小さいそれではあったけれど、確かに彼は笑っていた。真人はまじまじと彼を見る。このあと、なにを言うかと。
「邯鄲の夢か。それとも――」
「難波江の歌のほうだよ」
「そっちだったか。ぬかったな」
 からりと夏樹は笑った。確かに夏樹は間違えた。けれど、あっていた。真人の思い浮かべた物と彼が想像したもの、違ってはいたけれど、思いは同じ。
「なんだかね」
「おい、真人」
 真人が言いかければ、夏樹が遮る。何事か、と首をかしげれば、ぬっと湯飲みが出てきた。おかわりが欲しい、とのことらしい。
「あのな、真人」
 茶を淹れなおすその背中に夏樹は声をかける。どうやらこちらを向くな、と言うことらしいと真人は心得てそのままうなずいた。
「夢のような、と思ったんだろうがな、真人」
 自分がいて、春真がいる。その今となっては当たり前の生活に、真人はなにを思うのか。慣れない、まして自分の子でもない子育てに、真人が大変な思いをしていることは夏樹とて知っている。
 それなのに彼は。いまのこの時間を夢のように感じている。夢ならば覚めるな。当たり前すぎてとても使えないほど陳腐な言葉。今の真人にはこれ以上ないほどしっくりとくる言葉。
「これが夢なら、俺たちが過ごした時間は全部夢だぞ」
 少しばかり、と言うにはだいぶ色のついた夏樹の声。照れてどうしようもないくせに、それだけは伝えておきたいとの彼の言葉。
「そうだね、時々僕は思うよ。目が覚めたら、まだ戦後何年と経ってなくて、雨の中で僕は死にそうになってるのかな、なんてね」
 あのとき、夏樹に見つけてもらえた。あるいは自分が彼を捉まえた。どちらでもあって、どちらでもない。
 真人にはそれが夢であってもいい、そう思う気になるだけの時間だった。本当に、これ以上ない幸福だった。
 その上、今は春真がいる。夏樹の子でも自分の子でもない。彼の甥ではあるけれど、こうして手元に置いてみれば何より可愛い。
「よく覚えてたな」
「え――」
 ゆっくりと淹れなおした茶を持って真人は彼の元へと戻る。湯飲みを受け取った夏樹はそのまま小さく笑った。
「夏樹、なにが。覚えてたって、なにを」
 不思議そうに問いかける真人に夏樹はうつむいて笑う。くつくつと、それは楽しそうに。春真が起きてしまうのではないか、そんな要らぬ気遣いをするのはたぶん、この時間を二人きりで過ごしたいせいだった。
「よく覚えてたな、と思ってな」
「だから、なにを」
「あの日に雨が降ってたのを」
 間髪いれず夏樹は答え、真人は絶句する。覚えていたのではない。思い出したのでもない。ただ、忘れ得なかっただけ。
「あなたは――。覚えてたの。それとも」
「忘れられるか」
 即答し、夏樹は遠くに眼差しを投げる。あの日を見ているのだと真人には知れる。彼の目に、あの日の自分がどう映っていたのか、今更ながら疑問に思った。
「ぼろぼろだったな、お前」
「そりゃあ、まぁね。ろくな生活していなかったから」
「着てるものがどうのって言うんじゃない。目なんか、開いてるのに真っ暗だった」
「だったら、どうしてあなたは拾う気になったの」
 本当に酷い有様だったと繰り返す夏樹に真人は尋ねる。問うてしまう。思えば今まで聞かなかったことが不思議だった。
「さぁ、どうしてだろうな。自分でもわからんよ。よくこの俺が、見ず知らずの他人の面倒を見ようって気になったもんだ」
「本当だよね」
「お前じゃなかったら、たぶんそのまま放っといたぞ。家の前で死なれるのは業腹だが、外出しなければ気づかんしな」
「まったく。あなたって人は、そういう人だよ」
 わざとらしく悪ぶって見せる夏樹に真人は笑う。本当は、自分でなくともある程度は面倒を見てもらえたのかもしれない。一夜の宿くらいは、貸してもらえたのかもしれない。目があってしまったから。
 それなのに居つくことを許されたのは、もしかしたら。
「俺は、お前だから、お前に惚れたから、そばに置いた。と言うより、いて欲しいと思った。脱走されたときには心臓が止まるかと思ったからな」
「また古い話を蒸し返して」
「死ぬまで何度でも言ってやる。いまだに俺は恨んでるからな」
 じろりとねめつけて、夏樹の目はそれなのに笑っていた。だからと言って、言葉が嘘だともまた、思えなかったけれど。
「色々とね、僕にも思うことがあったんだよ、あのころは。若かったんだから。僕だって」
 露貴と夏樹と。緊張に耐えかねたのだと言っても二人にはたぶん、本当のところではわからない。それほど当たり前に親密な二人。割って入る若造の心的負担がどれほどのものだったかなど、露貴はともかく夏樹はわかっていない。
 わかっていないから、好きなのかもしれない。ふと真人はそう思う。今更だった。今更なのに、いまだにこうして新しく彼の好きなところが見つかるのはくすぐったくて、嬉しかった。
「ずいぶんだな」
「本当に、長いこと経ったよね」
「それなのに、邯鄲の夢、か……」
「一夜で人間の栄枯盛衰を体験して、目が覚めたらどうなんだろうね」
「なんだったかな。寝てる間に他の国に行く話があったな。似たようなのが」
「あぁ、蟻の国に行く話だ。南柯太守伝だったかな」
 答えれば、夏樹がうつむいて小さく笑った。照れ隠しのよう、菓子を口に運ぶ。ゆっくりと茶をすする。とっくに冷めてしまっているはずなのに。
「夏樹」
 促せば、彼は庭に眼差しを流した。とてもこちらを見ては言えないような、そんなことなのかもしれないと真人は心構えをする。
「すごいな、と思っただけさ」
「ん、なにが」
 構えたのに、肩透かしを食らった気分で真人はすぐさま問い返す。失敗だった。
「打てば響くというか、お前と話すのがこんなに楽しい。俺はつくづくすごいやつに惚れたもんだ」
 そのまま仰け反るかと思った。夏樹の額に手を当てようかとも思った。かと言ってできはしない。熱でもあるの、などと聞けば機嫌を損ねるだろう。
「おい」
「え、ごめん」
「お前、あのときもそうだったな」
 ぷ、と夏樹が吹き出した。こちらを向いて、真人の膝を軽く叩く。笑いが止まらないのかもしれなかった。
「人が一世一代の賭けに出たってのに、聞こえた風も見せずにきょとんとしてやがって」
「聞こえてたから、驚いてたんじゃない」
「嘘つけ。本当に聞いてたのか、あのとき」
「あのね、夏樹。聞いてたから、今ここに僕はいるんじゃないの」
「時々どうかな、と思うがな」
「ちょっと。それってどういう意味なのさ」
 鼻を鳴らす真人に夏樹は取り合わず、再び庭へと目を向けた。手の中で、冷たくなりはじめている湯飲みをいじる。
「それこそ、芦の刈り根の一節にもならん、短い一夜の夢。俺は、お前がいる夢を見ているのかもしれない。夢は、どっちだ。これは、現実か」
 真剣で、この上もない言葉。真人は彼の背に静かに手を置く。
「僕は、胡蝶よりも人のあなたがいいな。温かいから」
 そのまま肩先に頬を寄せれば、黙って抱き寄せられた。真人の言葉通り、温かくて心地いい。現実なのに、夢のよう。夏樹は思ってももう、言わなかった。




モドル