秋風に季節の移り変わりを感じ、はてと夏樹は首をかしげる。何かを忘れている、そんな気がした。郷愁を誘う、儚いもの。それでいて華やかな。
「なんだか寂しいねぇ」
 不意に後ろから真人の声がして夢想が破れる。夏樹は振り返り、彼を見やった。
「どうした」
「ん……。ハルが帰っちゃってから、遊んでないなと思って」
「遊んで――」
「ほら。ハルがいた頃には、夏には毎晩みたいに花火をしたじゃない」
 太い蝋燭を靴脱ぎ石に立て、バケツいっぱいに水を汲み。色とりどりに吹き出す大仰な花火。ねずみ花火に蛇花火。それからもちろん線香花火。
 いまでも真人は夏の宵になるとハルのはしゃぐ声が聞こえる、そんな気がすることがある。靴脱ぎ石に垂れ固まっていた蝋などもうとっくに取れてしまったというのに。
「あぁ……。そういえば最近は花火をしてないな」
「大人二人だしね」
 真人の声に夏樹は庭を見やった。破れたはずの夢想が、真人の言葉で確かになる。彼の言葉で具現した夏の夜。
 その思いに夏樹は密やかに微笑む。なぜか奇妙なほどに気恥ずかしく、同時にこの上もなく嬉しかった。
「出かけてくる」
 それだけを言って夏樹はふらりと立ち上がる。外出嫌いの割りに彼は近所には、まめに出かける。出かける、と言うよりは散歩のついでに気に入りのおやつを買ってくる、と言う程度だったが。
 心得ていた真人は軽く行ってらっしゃい、と声をかけ、夕食の仕度へと立ち上がる。おやつを買ってくるのだったら、軽いものにしたほうがいいだろうか、そんなことを考えつつ。
 案の定、夏樹はなにかしらの袋を持って帰ってきた。なにを買ってきたの、と尋ねても笑って答えない。
「もう、夏樹」
「内緒だ」
「いいじゃない、教えてくれたって」
「黙っていたほうが、楽しいだろうが」
 他愛ない言い合いも、たぶん二人きりだから。春真がいたころには、こんな言い合いはしなかった。ように思う。
 大人二人になってしまって、どことなく寂しくなってしまった。二人きりで過ごす日々にただ戻っただけ、ではあるのだけれど、家の中にぽっかりと空虚ができてしまった気がする。
 たぶん。真人は思う。この空虚は歓迎すべきものなのだと。寂しいし切ない。けれどこの空虚は夏樹に「家族」というものを教えてくれた虚ろ。彼がはじめて持った家族がいた証。
「ごちそうさん」
 春真がいたころには、もっとたくさんの肉料理が並んでいた。夏樹と二人になっては、あっさりとしたものばかりが並ぶ。単に春真の好むものがなくなって、夏樹の好物が増えた、それだけ。
「お粗末さまでした」
 応えて真人は食器を片付ける。常に作り置いている常備菜も春真がいたころとは少し、変わっていた。夏樹の箸が進むよう、佃煮風のものが増えた気がする。
 些細で、決定的な差。真人はその寂しさを体中に取り込む。春真がいないのは、当たり前に寂しい。それでも寂しいと思えるだけ、自分たちは幸福だったと思う。幸福だとも思う。
 春真がこの家にきたばかりのころ。あの小さな子供は一生懸命に頑張っていた。それを悟らせまいと必死になって気を張っていた。幼い者のすることだ、大人には簡単に見抜けてしまえるようなことではあったけれど、その健気さ。だからこそ、真人は春真を可哀想な子供、とは決して言わなかった。
 いま、それが自分たちに返ってきている。二人して必死に春真がいない寂しさを埋めている。ならばまた、春真も。
 実家に戻った春真は、どうしているだろう。幼い時間を伯父の家で過ごした春真は、両親や兄弟に馴染めているのだろうか。あのころと同じよう、一生懸命に頑張っているのではないだろうか。
 頑張っているのだと思う。一人で懸命になっているから、一人きりだとわかっているから、後ろに伯父と真人がいると知っているから。だから春真はこの家に来ない。里心がつくから、などと言って前に遊びにきたときには笑っていた。笑顔に覗いた真実を真人は忘れない。
 春真はここを故郷と言う、里と言う。ならば親代わりとしては、大人になろうとしている我が子同然の子供を無言で見守ってやるだけ。お前の後ろには、僕たちがいる。安心して独り立ちすればいい。態度でそういうしかない。
「大袈裟だね、僕も」
 産みの親の元に戻っただけだというのに、まるでまったくの一人前になってしまったかのような。
「どうした」
 笑いを含んだ呟きに夏樹が訝しげな顔をした。真人は思い浮かんだことを思いつくままに徒然に語り聞かせる。時折うなずくだけの夏樹。長い時間を共にしたからこそ、彼がまた、自分と同じような思いでいたことは容易に感じられた。
「まったく」
「どうしたの」
「過ごしてきた時間が長いと、似たようなことを考えるものだな、と思って呆れた」
「なにも呆れなくってもいいじゃない」
「あんまり似てきて、驚くぞ。俺は」
「僕はあなたほど悲観的じゃないよ」
 からかった言葉に、真人の真意が透けた。そうか、と思う。自分と夏樹はそれほどまでに考えまで似てきたかと。思えば思うだけ、体のうちが温かいもので満たされていく。
「真人」
 小さく笑って、笑みを浮かべた真人に夏樹は呼びかける。そのまま返事を待たずに庭へと下りた。どうしたの、真人の声が背中を追う。けれど夏樹は答えない。そうしていれば彼が追ってくるとわかっていた。
「本当に、どうしたの。急に。驚くじゃない」
 文句を言いつつ、すぐそこに真人がいる。それでもまだ、真人は座敷にいた。縁側に出て、夏樹を窺っているだけ。少しばかり不満を覚え、夏樹は振り返る。
「夏樹」
 背中に光を背負った真人の表情は見えにくかった。だからかもしれない、訝しげな声だけはよく聞こえた。夏樹は手に持ったものを掲げて見せる。それだけで、真人の気配が明るくなった。
「これだよ、これ」
「なに。さっき買ってきたのだよね」
「あぁ。花火だ」
「あなた、花火なんて買ってきたの」
「悪いか」
 からかう声に拗ねて見せる。大人二人と言うのも、悪くはないかと夏樹は不意に思った。春真がいたからこそしてきた色々なこと。二人きりだからこそできる、様々なこと。
「大人二人で花火をしても悪いことはないだろうさ」
「悪いなんて言ってないじゃない」
 からりと笑って真人が庭に降りてくる。その手にはもう蝋燭が握られていた。手早くバケツを用意して真人は蝋燭に火をつける。甘い蝋の溶ける匂い。
「夏の匂いだな」
 蚊取り線香の匂い、西瓜の匂い。花火の燃える匂いより、夏樹には蝋のそれこそが、夏の匂いだと感じられた。
「僕はこれにしようかな」
「おい、ずるいぞ」
「だめ。これは僕の。いつもハルにとられちゃってたんだもん。僕だってこれがしたい」
「子供と張り合うなよ」
「張り合ってない。いつもハルに譲ってたの。だから今度はあなたが僕に譲ってよ」
 くすくすと笑いながら真人は花火を蝋燭に近づける。火がついた。ぱっと散る鮮やかな青い火花。火花の先端が緑に煌き、赤も黄色も混じっていく。ついには白い閃光となり、花火は消える。ほんの束の間の火の絵画。
「こんなのがあるんだな」
 小さな箱の花火に夏樹は目を止め、火をつけては足元に置く。吹き上がった花火の勢いに、二人して目を丸くした。
「すごいねぇ。ハルがいたら、泣いたかも」
「まさか。もう中学生だぞ」
「僕は立派な大人だけど、すごくびっくりしたよ」
 きらきらと、言葉とは裏腹に目を輝かせる真人の隣で夏樹は花火に見惚れていた。明々と照らされた、真人の横顔を見ていたのかもしれない。
「今度はこれだ」
「あ、ずるい。それ、僕がしようと思ってたのに」
「今度は譲れ。さっき選ばせてやっただろうが」
 まるで子供二人の言い争いのようだ。思った途端に夏樹の口許が緩む。自分の子供のころには、こんなことをした覚えはさらさらない。
 ならば今してもいいのではないだろうか。不意にそんなことを思った。真人と二人で、二人きりだからこそ、子供のようにはしゃいでも、いいのではないだろうか。
「夏樹ったら」
 大きく声をあげて真人が笑っていた。両手に花火を持ち、夏樹は火花で円を描く。縦に振り、横に振り。青い火、赤い火。ぱちぱち飛びはぜる火花がまじり、そこらを照らす。いつもの家の庭が、まるで違う場所に見えた。
 縁側に腰掛けて、あるいは立ち上がって。あれこれと小さな子供のように花火を選ぶ。取り合いをして、我が儘を言い合って。互いの手元に見惚れた。
「あぁあ。もうおしまいだよ、はい、夏樹」
 真人が細い花火を手渡した。夏樹は渡されたそれをもてあそびつつ、縁側に腰を下ろす。
「夏樹」
「ん……どうした」
「それは僕の台詞。嫌いだったのかな、と思って。線香花火」
「いや……嫌いじゃない。が……寂しくないか、これ」
「僕は……それが好きかなぁ」
 聞かせるでもなく真人は言い、かがんで蝋燭から火を移した。すぐさま夏樹を促す。つられるように火をつければ、頼りないほどの仄かな火花。
「競争だよ」
「どうやって」
「最後の玉が先に落ちたほうが負け」
 笑って言うのは、夏の日が過ぎ行く寂寥か。もうとっくに秋風が吹くと言うのに。夏樹は黙って線香花火を見つめていた。
「火花の形は、三尺玉なんかと大差はないのにな。なんでこう寂しげかな」
「この……音、かな。ちり、ちり。じ、じ……って。花火なのに、僕にとって線香花火は、音かもしれない」
 言われて夏樹は耳を澄ます。頼りない細やかさから、段々と勢いを増す火花。少しずつ大きくなっていく火の玉。変わっていく音。不意に蝋燭の燃える匂い。
「夏の音だな」
 もう秋だよ、と真人は言わなかった。その代わり、夜風が冷たいとばかり、真人は夏樹の体に寄り添った。




モドル