「これはこれはおそろいで」 原稿を届けに来た夏樹に向かって篠原付きの編集者が放った第一声がそれだった。いったいどこの飲み屋だ、と夏樹は思う。隣で真人が笑いを噛み殺した気配がした。 一人、編集者がはしゃいだ声をあげていた。茶を持ってこいだの、菓子はどこだだの、うるさいと言ってしまっては可哀想だが、体調が優れない夏樹にとっては癇に障って仕方ない。 それに気づいただろう真人が編集者そっちのけで夏樹を来客用のソファに座らせた。気づいた編集者が慌てて真人にも勧める。煩わしくなった夏樹は茶が出てくる前に本題に入った。 「原稿です」 普段から多弁ではない篠原ではある。が、ここまで端的に物を言うこともまた少ない。多少は違和感を覚えただろうけれど編集者は目の前に出された原稿に気をとられて気づかなかった。 「いつもわざわざすみません。お加減は――」 先日、夏樹は風邪を引いた。たかが風邪だ。けれど夏樹が引く風邪だった。それも酷い風邪。軽い風邪ならば頻繁に引いているけれど、酷いものとなれば年に二度ほど。 ただ間が悪かった。数日で原稿の期限がきてしまう、と言うときに熱が出た。滅多なことで締め切りを延ばしてもらう夏樹ではなかったが、今回は真人の嘆願、あるいは脅迫に負けて延ばしてもらった。 「もうだいぶ」 実のところほとんど完治している。そうでなければ外出など決して許してもらえるはずがない。 「水野先生は、どうされました。あ、担当を呼んできましょうか」 今にも腰を上げそうな編集者に真人は手を振って笑った。横からそっと差し出された茶に真人は軽く目礼する。夏樹も気づいて礼だけはしたけれど、口をつける気はなかった。 「けっこうですよ。今日は篠原さんの荷物持ちですから」 編集者の訝しそうな顔も当然だろう。荷物と呼べるようなものは持っていない。せいぜい先ほど渡した原稿だけだ。今はほぼ手ぶら。だからそれは真人の言い訳だった。 「荷物持ちと言うより、病人の付き添いですよ」 渋い声で夏樹が言う。殊更に機嫌が悪いわけではない。通常の外出時に伴う不機嫌程度のものだ。それなのに編集者は慌てた様子を見せる。 「あの、まだお加減が」 それなのに原稿を届けてくださったのか。感動もあらわに言う編集者を夏樹は一瞥する。単純な礼儀の問題だった。 「締め切りを延ばしていただいたので。ご迷惑をお詫び方々」 「そんな、とんでもないことです。期限はずらした程度でしたし、なんら問題はなくですね、はい」 「いずれにせよ、ご迷惑をおかけした。申し訳なかった」 篠原忍に目の前で頭を下げられたら、どうするだろうか。編集者は思う。返答などとてもできたものではないし、硬直してぎこちない礼を返すだけだろうと。だからそのとおりになる。 「いえ、その。水野先生から、早めにご連絡をいただきましたし、問題はありませんでした。どうぞ頭をおあげください、先生」 最後は悲鳴になった。夏樹としては自分が悪かったのだから謝っているのだが、これではかえっていじめているような気がしてしまう。 「今後は体調管理に更に気を配ることにしますが……」 無駄だろうな、と夏樹は思っている。元々丈夫な質ではない。努力しようが体調が崩れるときには崩れる。 「いやはや。それにしても水野先生は八面六臂の大活躍でしたよね」 額の汗を拭って編集者は話題を変えたつもりだろう。だが自分であれ、とばかり首をかしげているのだから世話はない。 「琥珀がどうかしましたか」 「えぇ……、それは、その。水野先生が、あちらこちらにご連絡にまわってらっしゃって。看病もなさっていたんでしょう、大変でしたね」 「いえ。慣れてますから」 真人は笑って首を振る。本当は慣れたくなどない。今すぐにでも夏樹には健康になってほしいものだけれど、無理なものは無理。ならば夏樹に負担をかけないために、さらさらと仕事をするより他にない。 「これはあれですねぇ」 不思議なことを言って編集者は一人でうなずいた。嫌な予感がして夏樹は真正面を見続ける。編集者を越え、つまりは壁を見ていた。 「篠原先生も、そろそろ是非ご結婚なさらなくっちゃ」 「風邪を引いたことと私の結婚に何の関係が」 「奥方がいらっしゃったら体調管理をしっかりしてくださることでしょうし。いえいえ、その、責めている訳ではありませんから、その辺はですね」 また滲んできた汗を拭うくらいならば、そのようなことは言わなければいいのだ、と夏樹は思う。隣の真人の顔がとても見られない。また熱でも出しそうな気がした。 「結婚したからと言って風邪を引かないというものでもないでしょう」 「そこはですね――」 言い募ろうとした編集者を夏樹は見つめる。眼差しに射止められて編集者は口をつぐんだ。さほど鋭い目でもなかったというのに。 「例えば結婚したとしましょうか」 少し悪寒がした。口にしただけでぞっとしたのか、と思った。が、これは悪寒ではない、と気づく。隣から、冷ややかな気配。内心で許せよ、と呟いた。 「昨日今日嫁にきたばかりの女が、琥珀に敵うとでも。琥珀にできないことが、新妻にできるとは思えませんね」 真人はそっとうつむいた。笑いを噛み殺した、とでも思ってもらえれば僥倖と言うもの。本心は、照れていた。彼が結婚、と口にしただけで冷ややかになった自分の心を察して、そのようなことを言ったのか。穿ってしまった自分が嫌になる。 「それは違いましょう、先生。奥方と言うものはですね――」 「同じですよ。迎えたばかりの妻にあれこれと言いつけるのは面倒です。一から全部教えなくてはならない。長年苦楽を共にした琥珀ならば、私がなにを考えているか、掌を指すように知っていますからね」 肩をすくめて夏樹は言う。その拍子に軽く咳き込んだ。本当はまだ、多くを喋りたくないのだ。結婚などと馬鹿なことを聞かされなければ、黙って帰ったものを。 「篠原さん」 そっと琥珀が何かを寄越す。見れば、飴玉だった。夏樹は苦笑して口の中に放り込む。ほんの小さな飴玉は、舐めながらでも会話ができるほど。 「まだ、喉が痛いようなんですよ」 やり取りに目を丸くしていた編集者に真人は苦笑いをして見せる。が、夏樹はどうだとばかり微笑んで見せた。 「よく知ってたな」 「いまご自分でおっしゃったじゃないですか。それこそ長年、篠原さんのおそばにいますから。体調ならば見ればある程度は」 からりと笑って真人は言った。見てわかるようなものではないはずだった。現に編集者は、すっかり治ったのではないのですか、などと言っている。 「琥珀は、こういう男ですよ。私をよくよく知り抜いて、気も利く。そもそも身の回りのことだけをしてもらうのに結婚と言うのは解せませんね」 「奥方は家政婦ではないですからね」 「それだと私がお前をいいように使っているように聞こえるじゃないか」 「篠原さんは私の恩人ですよ。いいようにお使いになればいい」 これが刺々しいやり取りならば、いたたまれなかったことだろう。だが実際はあの気難しい篠原が笑いながら、微笑む琥珀相手に会話をしているのだから編集者は呆気に取られるより他に何もできなかった。 「いやぁ、そのぅ」 ごにょごにょと言い出した編集者を笑った途端、また咳き込んだ。わずかに真人の眉根が寄せられる。早く帰ろう、と言っているようだった。 「この調子だと、今夜もまた喉の通りのいいものですよ、篠原さん」 「いい加減におじやも粥も飽きたぞ」 「ならば早く治すことです。とはいえ……そうですね、だったら今夜はとろろにしましょうか。体にいいですしね」 「粥にかけるなんて言ってくれるなよ」 「言いませんよ、そんな気色悪い」 その代わり、ご飯は柔らかく炊きますけどね。言い足して琥珀は笑う。迂遠な会話に真人は少し、疲れてきた。自分がそうならば、夏樹は更に。目顔で尋ねれば大丈夫だと返ってくる。信用ならなかった。 「はぁ、食事も水野先生がおやりになるんですねぇ。噂は聞いていましたが」 「私以外できませんからね」 「いや、女手を頼むとか、なさってらっしゃるんだとばっかり」 「篠原さんは家に人が来るのを好みませんから」 ご存知でしょう、と琥珀が笑う。その通り、と篠原がうなずいていた。 「琥珀は――」 やはりまだ熱があるのかもしれない、ふと思った。たぶん平気な顔をして笑っていられるのもそのせいだ。面倒だから、今後二度と再び結婚話など持って来る気に、話題に乗せるだけですらならないようにしておこうとしたのも。 「元々家事が嫌いではないのでしょう」 言って篠原は琥珀を見やる。なにを今更、とばかり不思議そうに琥珀はうなずいていた。 「とはいえ、家の中のものをどうするか。私が仕事をしているときにして欲しいこと、欲しくないこと。食事の好みは量から味付けまで。こういうことはね、一朝一夕に覚えられることでもない」 小さく小さくなってしまった飴を口の中で噛み砕けば、苛立ちが治まるような気がした。真人の気配がはらはらとしているのも感じている。 「私が妻を迎えれば、安心だですって。冗談ではない。妻に琥珀が教えるのもおかしな話だ。私が一から仕込むよりない。面倒が増えるだけですよ、そんなものは。余計なものは必要ない。琥珀がいてくれれば、それで充分です」 「それでは水野先生が……」 果敢だ、と言うべきだろうか。真人は首をかしげてしまう。いい加減また熱でも出てたきたのだろう。苛立っている夏樹相手に反論するのは愚の骨頂と言うもの。 「私は好きでしていることですし。それに、滅多な方に篠原さんをお預けはできませんね、私も。何しろ恩人ですから。風邪でも引かせようものなら、責めてしまうかも」 「自分を棚に上げて言うなよ」 「おや、そうでした。では自己嫌悪で落ち込まないうちに、帰りませんか。せっかくずいぶんとよくなったんですから」 笑って真人は言い、立ち上がりしなに手を差し伸べる。夏樹は内心でおや、と思った。苛立っているのは自分だと思ったはずが。真人もずいぶんと腹を立てているらしい。思えば当然のこと。夏樹は小さく笑って彼の手をとる。唖然としたままの編集者が曖昧な言葉にもならない声をあげるのを尻目に、二人は編集室をあとにした。 |