持って歩くにはいささか多すぎる本に、夏樹は少しばかり困った。ある出版者の作家同士の親睦会なるものに向かう途中だった。ぐずぐずと古書店街に寄ってしまったのが運の尽き。だからこうして大量の本に頭を抱えることになる。 要は夏樹、行きたくなかったのだった。だからと言ってこのまま帰るわけにも行かない。諦めて底が破れそうな紙袋を提げて歩く。 「クロークにでも預けるか……」 幸い、親睦会はホテルの宴会場ですると聞いている。まずはこの本を持って帰ること、持って帰って読み耽ること、中の数冊は真人に貸して彼の感想を聞くこと。それを楽しみに乗り切るしかなかった。 立食式の親睦会は、宴会といったほうが正しい様相だった。作家同士が集まる機会など中々ないから、楽しんでいるもの、虚勢を張っているもの、色々と見ていると面白い。 もっとも、そうでも思わなければそのままこの場で回れ右をして帰りたくなるから、なのだが。 「篠原先生、こちらでしたか」 親しげに呼びかけてきた男に見覚えがなかった。ちらりと辺りを見回しても、教えてくれそうな人が誰もいない。 「書評をしているんですよ、自分」 まるで知己のような口をきいた割りに、どうやら初対面だったらしい。男は名乗り、そのまま夏樹の耳を素通りする。 「作家さん方の集まりなんて、どうもばつが悪いんですけどねぇ」 言って、ボーイからグラスを受け取る。洋酒を格好つけて持ち、夏樹に向かって掲げて見せた。ほら、わかるでしょう、とでもいうところか。 「自分、書評をしてるじゃないですか」 そう言われても、何しろ初対面でいま聞いたばかりだが。と夏樹は思う。どんな書評をしているのかなど、知りもしない。そもそも、書評に興味がない。確かに作品を好意的に評価されれば嬉しくもあるが、一人の書評家に盛大に褒めたり貶されたりするよりは大勢に読んでもらえるほうがいい。大勢に読んでもらえるより、真人一人が読んでくれるほうがずっといい。だから夏樹は書評に興味がない。男は夏樹のことなど気にした素振りもなく話し続ける。 「色々と書いちゃった方もいるもんで、ちょっとねぇ。あ、やべ。あの人、この前。目いっぱい悪く書いちゃいましたよ」 あはははは、と男は笑った。薄っぺらい笑い声と話の内容。つまり、と夏樹は気づいた。男は、自分は売れっ子の書評家で色々と書いているのだぞ、と言いたいのだろうと。 「最近はやっぱ、軽やかな文体って言うんですか、昔風の重たい話って受けませんよねぇ」 うなずくでもなく夏樹は聞き流す。夏樹も職業小説家の一人なのだから、売れ行きは気にすべきこと、ではある。だが、売れるかどうかよりも自分に書けることかどうかのほうがずっと気になる。それに、人間と言うのは多種多様。篠原忍の小説が好きだと言う人がいれば嫌いだと言う人もいる。当たり前で、だから流行には惑わされたくない。 「受けないと思いませんか、篠原先生」 どうやら男はやっと夏樹が無言でいることに気づいたらしい。そのままずっと適当に喋ってくれていたほうが夏樹としては楽だったのだが。 「そうなんですか」 だから適当に相槌を打つ。ふと傍らのテーブルに目が留まる。そこはデザートばかりを乗せてあるらしい、果物が華やかに盛り付けられた中、小さな林檎のパイがあった。ひとつ皿にとり、食べてみればなんとも言いがたい味だった。粉っぽいと言うべきか脂っぽいと言うべきか、悩む。林檎も香りがなく、何を食べているのかよくわからない。 「へぇ、篠原先生もそういうものお食べになるんですねぇ。甘いもの、お好きなんですか」 「特には好みませんが」 「またまた。ここのアップルパイ、けっこう有名なんですよ、目敏いですね、先生。うん、今日もうまいなぁ」 テーブルからつまみ上げ、男はそのまま口に運ぶ。思わず夏樹は目をそらしたくなった。 「篠原先生って、水野琥珀と同居してらっしゃるんでしょ、あの歌人の」 歌人、と言ったとき、奇妙に顔が歪んだ。何か歌人に意趣でもあるのかと思うような目だった、とは後になって気づいたことだったが。 「短歌なんて、あれですよね。古臭いっていうか、時代遅れでしょ。まして水野琥珀は現代短歌でもないですもんね」 同意を誘うような語尾にどう答えろと言うのか、と夏樹は思う。しかし気づいた。これはこの男の単なる話し癖だ。苛立つことに違いはなかったが。 「普通に書けばいいのに、わざわざめんどくさい回りくどい言い方するのってなんの意味があるんですかね。意味ないでしょ、短歌」 通りかがったボーイから、飲み物を受け取る。このような場ではあまり飲まない夏樹だったが、さすがに何か欲しくなってきた。 「そう思いませんかね、篠原先生」 「思いませんが、何か」 「なにかって――やだなぁ。時代はあれですよ、スピーディーでライトなのがいいんですよ。短歌なんてだめですよ、だめ。ぐちゃぐちゃしてて、ああいうのを書く人間ってのは気が利かないって決まってるんですよね」 これはこれで、ある意味では幸運だったかな、と夏樹は思う。夏樹は自分の書き癖を知っている。得手不得手もいい加減、よく理解している。 だから、貴重だった。この男のような登場人物を描くのが苦手だと知っている夏樹にとって、またとない取材の機会と言ってもいい。 そう思うだけ、自分はいま、腹を立てている。それもわかっていた。つくづく物書きと言うのは便利な生き物で、こう書こうああ書こうと思っているうちは、下手に怒りはしないものだった。何しろ、ただ怒ってしまうだけではもったいない、と思うのが物書きの性だ。 「それにあれでしょ、歌人なんて、一日中ぶつぶつ言って、短歌のことばっかり考えてる変人じゃないですか」 「知人がいるんですか」 「歌人なんて……え、あぁ。知人ですか、えぇ。知人ね。まぁ、知人と言っていいのかな、うん」 なるほど、これは琥珀がどうのではなく、歌人と言う生き物に対する私怨、と言うところか。夏樹は納得して頭の中の帳面に書き付ける。 「まぁ、自分の知人なんて、どうでもいいんですよ、問題は時代遅れのどうしようもない歌人ですよ。頭おかしいんじゃないですかね、なんにもできないくせに芸術家ぶって、みっともないと思わないんですかね、歌人ってやつは――」 まだ続けそうだった男の言葉が遮られた。考え事をしていた夏樹はぼんやりとしていた目の焦点をあわせる。男を羽交い絞めにした編集者がいた。顔面蒼白、立ったまま死んでいると言われても違和感がない顔色をして。 「篠原先生、申し訳ありません。ご無礼のほどは平にご容赦を」 夏樹は首をひねってしまう。書評家がおかしなことを言っていたのであって、編集者は関知していないはずなのだが。 「実は――」 ずい、ともう一人の編集者がどこからともなく現れる。耳許に口を寄せてくるのに思わず体を引きそうになった。 「ある有力な財界のお方の、ご子息でして」 なるほど、社員ではないから縁故採用と言うわけでもないのだろうが、浮き世のしがらみ、というものだろうと夏樹は納得する。 「離せよ、なにするんだ。無礼だな」 編集者を振り切った男は夏樹に向かって愛想笑いをして見せる。何か妙なほど気に入られているようなのだが、夏樹には理由がわからない。 「座が乱れてきましたね。そろそろ失礼しますよ」 いつものことだった。酒が入って騒ぎが大きくなってくるころになると、篠原忍は退席する。編集者が平身低頭しているところを見ればあとになって厄介が自宅に襲い掛かってきそうな気はしたが、座の乱れのほうが気になる。静かなところで、せっかくの取材の成果をまとめたい。 「あぁ、篠原先生、お帰りになるんですか。だったら自分も」 よせだのやめてくれだの言う編集者をなぎ倒す勢いで男がついてきた。夏樹は取り立てて拒まない。拒むほど、意識に残っていなかった。 宴会場を出るまでも出てからも男はずっと喋り通しだった。歌人に対する悪口雑言がとめどなくあふれてくるのだから、これはこれでたいしたものだと思う。これもまた、登場人物に組み込もう、と夏樹は考える。 宴会場の熱気に当てられていた体にロビーは涼しすぎるほどだった。ほっと息をついて何気なく辺りを見回す。驚いた。同時に向こうも気づいて立ち上がる。 「お迎えに上がりましたよ、篠原さん」 にこりと笑う真人だった。さすがの夏樹も一瞬は呆気にとられて立ち尽くす。 「お前……どうした」 「ですから、お迎えに。古書店街に寄り道をなさったんじゃないかな、と思って。荷物持ちがいるんじゃないですか、篠原さん」 「さすが琥珀。気が利くな」 にやりと夏樹が笑う。真人の目に、彼はいつもの夏樹だった。構想を練っているとき、あるいは書きはじめる直前の集中している夏樹に見えていた。 だからぴんと来る。何かあったのだ。そもそも会合だの食事会だのを好む人ではない。はじめから気が乗っていないのだから嫌なことの一つもあろうと言うもの。そして夏樹の隣にいた男に目が留まる。 「篠原さん」 知り合いではないとわかっているのだから紹介しろ。真人の目はそう語る。が他人には、控えめにどなたですか、と尋ねたようにしか見えないのを夏樹もまた理解していた。 「書評家だそうだ。歌人が――」 「いやいや、はじめまして。嬉しいなぁ。水野先生ですよね、自分、ファンなんですよ、ファン」 欧米風に握手を求めてくるが、真人はにっこり笑って取り合わない。夏樹の態度を見ていれば、先ほどまで正反対のことを言っていたのは容易に察せられる。そもそも握手と言うのは目下から求めるものではない。明らかな若造相手に、真人は穏やかに微笑むだけだった。 「琥珀。会場に、アップルパイがあったんだが。口にあわなかった。こちらの人が、有名だと言っていたが……お前のほうが旨い」 「光栄です。明日にでも作りましょうか」 篠原忍の言葉にも答えた琥珀の言葉にも男が目を丸くする。意外なことを聞かされて驚いた、と言うには余りある表情だった。 「焼き立てに、アイスクリームを乗せて。お前の好みだろう」 ここまで言われれば、真人にもわかった。よく言われることではあるのだが、短歌を古臭いのどうのと言われたのだろう。夏樹が男に軽く礼をして、歩きはじめたのに真人は従う。 「小説の種になるって顔をしてるよ」 こっそりと言った真人の言葉に夏樹はにやりと笑っただけだった。 |