夏樹が深い安堵の息を吐く。胸に手まで当てているから、よほど驚いたのだろう。思いつきで尋ねてしまった真人は少しだけ後悔をした。
「いきなり……長生きをしたいかなんて聞かれたら、驚くだろうが。まったく」
「ごめん」
「念のために聞くが……。体調に不安はないんだろうな、本当に」
 上目遣いで盗み見る、など夏樹がしたことはない。真人はその仕種に夏樹の不安を読み取って、今度こそ本当に申し訳なく思った。
「うん。僕は元気だよ、心配なのは僕じゃなくてあなたじゃない」
 軽く言えば、嫌な顔をした。自分でも丈夫とは言いがたい自覚があるのだろう、夏樹にも。そんな彼をくすりと笑い、真人は新しい茶を淹れる。
「ちょっと、珍しかったかな」
 湯飲みを差し出しつつ、真人は一人ごちる。それに夏樹が訝しげな顔をした。なんでもない、と首を振っても、彼の目がさっさと言ってしまえ、と語る。
「普段はね――」
 自分のための熱い茶をすするのは、時間を稼ぎたいせいか。思った途端に笑ってしまった。別に言いにくいことでもないはずなのに、と。
「あなたがなにを考えてるか、だいたいのところではわかるんだよ」
「まぁな。こっちも似たようなものだ」
「でしょ。でも、さっきはどうして急に黙ったのか、わからなくって」
 それほど不安がらせてしまった、と言うことだと今はもうわかってはいる。それが、新鮮だった。長い間を共にすごしてきても、まだまだわからないことがある。
「俺もだ」
「え――」
「お前が急に長生きなんてどうして言い出したのか、わからなくなった」
 理解できなくて、だからこそ募る不安。想像はとめどなく、そして悪い方向ばかりを向いてしまう。それがまた新しい恐れを呼ぶ。だからこそ、言葉がみつからなかった。
「なんだか、久しぶりだよね、こういうの」
「ん――」
「前に、大喧嘩したことがあったじゃない」
 それだけで夏樹は苦笑した。それこそ長い時間を共にしてきている。喧嘩のひとつやふたつ、いくらでもしている。
 それでもなお、真人の言う大喧嘩が夏樹にはすぐにわかった。これもまた時間と言うものだろう。
「春真か」

 春真がこの家に来てそう時間が経っていないころのことだった。真人は決して甘やかすつもりはなかったし、夏樹に至っては子育てそのものが無理だった。
「だから、その程度は自分でやらせろ」
 きっかけは、なんだったか。着替えを一人で全部させろだったか、食事中にかまいつけるなだったか。いずれにせよ、その程度のことだった。
「僕は春真ができないことをやってるだけ。できないことを手伝うのが大人ってものでしょう」
「手伝っていたらいつまで経っても春真ができるようにならん」
「だったらほっとけって言うの。そんな無茶な」
「どこが無茶だ。俺は自分で勝手になんでも覚えた」
 真人としては、夏樹に自分の昔を持ち出されると言うべき言葉を失うしかない。根本的に、自分と夏樹とは生まれた階級が違う。昔はそういう差があった。一介の庶民の、母を早くに失いはしたものの、ごく当たり前の家庭に生まれた真人。華族と言う特権階級に、両親の愛憎の末に生まれた夏樹。育ち方が違うのだから、土台無茶な話ではあるのだ、子供の面倒を見るなど。まして、二人とも男だ。どうしても女性のするようにはいかない。
「こんなことは言いたくないけどね、夏樹」
 春真が風呂に入っている隙だった。さすがに子供の前で声を荒らげるなどと言う大人気ないことをするつもりは二人ともない。
「あなた、自分の子供時代が幸福だったと思ってるの」
「な――」
「幸福だと思ってるなら、僕はあなたに従う。あなたの甥だ。あなたの家族だ。でも、幸福だったと胸を張って言えないなら、僕は春真を泣かせたくないんだってことだけ、覚えてて。あなたの意に添わないことをしてるんだろうけど、僕は子供を泣かせたくない。春真が大人になったとき、家の事情で伯父のところに預けられて、あんなにつらいことはなかった、なんて言わせない、僕は絶対に」
 そのまま真人は背を返した。ぷい、と台所に行ってしまう。夏樹は、その背中を追えなかった。
 いまだかつて、真人がこれほど辛辣な言葉を放ったことはない。
「馬鹿か、俺は」
 ようやく理解した。今まで、真人にどれほど労わられてきたのか。どれほど大切にされてきたのか。真綿に包まれるよう、この家だけは、この場所だけは、真人のそばだけは、夏樹にとって何より居心地のいいところだった。
 その晩、夏樹はなにを食べたかさっぱり覚えていない。おそらく風呂場まで言い争いの声が聞こえていたのだろう、春真がどことなく怯えていた顔をしていたのが気にかかった。真人はいつにもまして春真を可愛がる。猫じゃあるまいし、と苦々しく思ったのだから、目が見えていなかったとしか言いようがない。
「夏樹」
 春真を寝かしつけ、真人が戻ってきた。寝る前に本を読んでやる、などと言うのも甘やかしすぎだと夏樹は思っていた。読みたければ自分で読めばいい。そう思っていた。だが。
「あぁ、すまん」
 差し出された茶に軽く礼を言えば、真人はその場に膝をそろえて座り込む。
「どう――」
「昼間はごめんなさい。言い過ぎた」
 夏樹になにを言わせることもなく、真人は手までついて頭を下げた。ぎょっとして、真人の肩に手をかける。無理に頭を上げさせても目をあわせようとしなかった。
「真人。お前に先に詫びられると、俺が謝りにくい」
 苦笑とともに言えば、驚いた真人がようやく目をあわせてくる。瞬きをして、詫びられる覚えがないと表情が語る。
「お前に言われたことをな、よくよく考えた」
「それは――」
「春真を甘やかすな、なんてよく言えたもんだ。甘やかされてるのは、俺だな」
「それは、いいんじゃないの。だって、その」
「まぁ、大人二人のことだしな、甘やかされているぶん、甘やかしている気もするしな」
 にやりと夏樹が笑う。それに力が抜けたのか、真人は少し膝を崩す。
「要は、春真が羨ましかったんだろうな、俺は」
 ぽつりと夏樹は言った。どこでもない場所を見て、あるいは自分の過去を見て。春真の影に重ねるのは、幼い自分か。
「お前が春真をかまうのを見ていると、どうしても子供の頃を思い出す。馬鹿馬鹿しい限りだがな」
「だったら――」
「気にするな。言いたくはないが、つまりは春真に妬いていただけだ」
 そっぽを向いて、ぬるい茶を一息に夏樹はあおった。唖然とする真人の目の前に、空っぽの湯飲みが出てくる。慌てて茶を注ぎ足せば、手の中でいじる夏樹。
「僕の目が、春真にばかり向くのが嫌だったの、あなた」
「なにを馬鹿な。そうじゃない。こう……かまわれなかった子供時代と言うものを思い出してだな、春真もそれなりに大変だろうが、お前がいると思うとだな、そのな」
 実に珍しくしどろもどろになった夏樹の肩先に真人は額を当てた。途端にぴたりと黙る。夏樹の呼吸を額で感じ、真人は目を閉じる。
「すまなかったな、真人。俺には、子供のことはやはり、わからん。否応なしに、昔を思い出す。だから、お前に頼む。春真を可愛がってやってくれ」
 夏樹の言葉に真人は黙ってうなずいた。後悔してもいた、真人は。自分が春真と戯れるたびに、夏樹は自分の一人ぽっちの子供時代を思い出していたのかもしれないと思えばこそ。
「ずいぶん一緒にいるな、真人」
「そうだね。何年になったかな……」
「それなのに、まだわからんことが色々あるな。お前が意外と子供好きだったのも、知らなかった。まともに結婚していたら、今頃は孫の一人もいたか」
「いくらなんでもまだ孫はいないと思うけど」
「――欲しかったか」
「馬鹿な。ただでさえ手がかかるんだ。僕は充分だよ」
「春真はそれほど手が――」
「違う。あなた」
 額を離し、真人はすぐ目の前の夏樹を見つめた。なにがきっかけだったのか、もういつもの真人だった。それが不思議で、また面白くも夏樹は思う。まだまだわからない。どれほど時間を過ごしても、知らないことがいくらでもある。それが、たまらなく楽しい。
「俺か」
「そうだよ。――あのね、夏樹。僕はあなたが大変だったころ、まだ生まれてもいなかったからね、小さな子供のあなたを助けてはあげられなかった。でも、いま僕はここにいる。春真に文句を言うくらいなら、僕に話して。僕は、あなたを支えてあげられると、思うよ」
 それで充分だ。そう言ってくれただけで充分だ。言葉に出したつもりだった。けれど気づけば黙って真人を腕に抱いていた。抱いているのか、抱かれているのかもわからずに。

「きっかけは、あの大喧嘩だったかな。あれで俺は春真と真正面から向き合う気になった」
「どこがなの」
「気になっただけで、できたとは言ってない」
 むつりと言い、夏樹はとっくに冷めてしまった茶を飲んだ。わかっていて、からかった真人は笑いながら新しい茶を淹れてやる。
「あのときは、本気で参った」
「え、なにが」
「お前に怒られて、俺はなにを言われてるのか、最初はまるでわからなかったからな」
 初めて聞く話だった。真人はまじまじと夏樹を見てしまう。喧嘩をしたのが夕方だった。話し合いをしたのか、その晩だった。わかっていて、冷静になったのだとばかり。
「あなたのすごいところだよね」
 たった数時間で、自分を見つめなおした、彼は。その上で非を詫びた。自分にできることではないと真人は思う。
「なにがだ」
 不思議そうな夏樹に真人は微笑み、答えない。長い時間を共にしてきてわかること、わからないこと。ならばまだ不思議は残しておきたかった。これから先のために。




モドル