歌集出版の打ち合わせで遅くなることはわかっていた。だからと言って気が休まるわけでもない。春真には腹の虫をなだめるおやつを用意してやれない代り、夏樹から小遣いを渡してくれ、と言ってある。
「……覚えてたかな、あの人」
 出版社を出て帰り道を急ぐ真人は一人ごちる。自然、早足になりがちだった。
 午後から夕方にかけて、夏樹は仕事をしていることが多い。気が乗れば、であるのだが、習いと言うのは恐ろしいものでたいていは気が乗っている。
 春真もそれを心得ていて、仕事中の伯父には近づかない。邪魔だから、と言うよりは黙ってその背中を見ているのが好きなのかもしれない、と真人は思っている。
 そう思えば小さな笑みが口許に浮かぶ。日ごろ、何かと諍いばかりを繰り返している伯父甥だった。本人たちは盛大に罵りあったあとけろりとしているものだから、真人の方が胃が痛くなる。
 それなのに、黙って原稿に向かっている伯父の背を、春真はじっと見ている。なにを思うのか、真人も知らない。
 二人の後姿をこちらも黙って台所から窺っているだけだった。なんとも言えず美しくて、とても声などかけられない。
「やっぱり、急がなくっちゃ」
 ならば春真はきっと腹を空かせているだろう。育ち盛りの子供が待っている、と思えば嫌でも足は速くなる。
 忸怩たる思いを抱えつつ、真人は惣菜を買って帰る。特別に手料理を、と心がけているわけでもない。夏樹が、あるいは春真が喜ぶから作っている。
 それを作ることができない、と言うのがなんとなく嫌だった。もっとも、真人にも真人の仕事があるのだから、そちらを優先するように、と夏樹からは言われてはいるのだが。
「お帰りなさい、真人さん」
 家に入った途端、春真が飛びつく勢いで出迎えてくれた。これは相当に空腹か、と思えばつい笑ってしまう。
「ただいま、ハル。すぐご飯にするよ」
「うん、あのね――」
「ん。どうしたの」
 座敷を見やれば、案の定、夏樹は一心に原稿用紙に向かっている。真人が見たのを確かめてから春真がこくりとうなずいた。
「あの調子でしょ。だからね、僕がご飯、炊いておいたよ」
 驚いた、などというものではなかった。真人は春真に家事を仕込んではいる。夏樹のようになってはいけない、と笑いながら躾けている。
 夏樹は知らない。真人が若い頃、どれほど苦労をしたのか少しも知らない。彼ははじめから真人は家事ができるもの、と思っている。
 違うのだ。夏樹ができないから、できるように見えているだけだ。さすがに母を早くに亡くしたから一般的な男性よりは多少はできる。その程度だった。その後、曲がりなりにも軍に所属していただけあって、身の回りのことは当然にできるようになった。そこから少しずつ色々覚えていったのだ、これでも。
 だから春真にはそのような苦労はさせたくない。米の炊き方惣菜の作り方、掃除洗濯は言うに及ばず。真人がそばについて一からすべて教えた。だが。
「どう、ちゃんとできてると思うけどな」
 胸をそらして春真が言う。見れば、炊飯器からきちんと保温器に移されたご飯があった。ふっくらと水加減もよろしく炊けている。
「すごいよ、ハル。立派だね」
「そうかな」
「だったらあとで食べ終わったあと、伯父様に聞いてごらん。僕が炊いたのと区別つかないから、きっとね」
 明るい顔をした春真に真人は微笑む。そしてそのとおりになった。

 食後、早々に春真は寝てしまった。一人でご飯を炊いてよほど気を張っていたのだろう、疲れたらしい。
「さすがだね、夏樹」
 彼の好みのぬるい茶を差し出して真人は笑う。ちらりと真人を見やって夏樹は苦笑した。
「なにがだ」
「気がついてるくせに」
「……まぁな」
「ハルが炊いたご飯だって、わかっててよく、とぼけてくれたね、あなた」
「言ったら怒るだろうが、お前が」
「まぁね」
 くすりと真人が笑う。真人から見てもよく炊けているご飯ではあったが、食べてみれば確かに自分が炊いたのとは違う。まずいわけではないが、何かが違うとしか言いようがない。
「同じ米を同じような手順で炊いてるはずなのに、おかしなもんだな」
「そこはそれ。年季と言うものでしょう」
 先ほどの春真のよう、胸を張って真人が言うのに夏樹がそっと笑った。
「そうそう、春真と言えば。今日、出版社で面白いこと言われたよ」
 思い出し笑いをする真人を夏樹は不思議そうな目で見ていた。くつくつと笑い続ける真人に、夏樹が目顔で早く話せ、と言う。
「僕の歌は全部、写実ですかってさ」
「まさか」
「ほんとね、あなたはすぐさまそうやって否定してくれるでしょ。面白いよねぇ」
「まさか、編集者が言ったんじゃなかろうな」
「そのまさかだよ」
「おい……」
 そのような編集者に出版を任せて大丈夫なのか、と夏樹の目が不安に翳った。真人は恬淡としたもので、平気な顔のまま茶を飲んでいる。
「僕の歌を写実と思う人が半分。残る半分はまったくの幻想と思ってる。どっちも正解、どっちもはずれだけどね」
 その答えに本心から納得するのは夏樹くらいのものかもしれない。ある意味では創作者たるもの、すべからく賛同するべき、と夏樹は思う。だが似たような思想を違う言葉で表現するのが言葉を操る創作者だと言うのならば、違う言葉が出てくるのも当然とも思う。
「ん……だったら、あれはどうなる」
「どれ」
「子供の歌。小さな子供を詠んだのが、いくらでもあるだろうが。あれなら水野琥珀の恋歌は写実か、と問う意味が無きにしも非ずだな」
「あぁ、あれね。ほとんど歌集には載せないし、そもそも編集者には見せてないの、多いしね」
 なぜだ、と夏樹が首をかしげた。それに答えて真人は密やかに微笑む。わかるか、と問うように。
「わからん」
「ハルだよ」
 短い問いに短い答え。それで互いに納得した。春真を詠んだ歌ならば、多く発表したくない、と真人は言うのか。
「そうでもないよ、少しは世に出してる。完全にハルだってわかるのを出したくないだけ」
「春真が気にするからか」
「あんまりにも生々しいからね」
 それが真人の、否、水野琥珀の美学なのだろう。それには夏樹も篠原として大いに賛同できる。
「でもね、今日あってきた人、ハルを詠んだ歌も幾つかは知ってるんだけどね。それでも写実、なんて言うんだから、おかしいよね」
「それだけ実感があったってことか」
「さぁね、どうなのかな。僕はね……前、あなただけを詠んでいたころは写実も幻想もなかったんだよ。どっちも同じだもの」
「春真がお前を変えたか」
「と言うより、ハルは僕にとって現実そのものだからね。それに、なんて言うかな……金銀真珠も子供に勝る宝はないって歌、ハルと暮らして僕ははじめて実感したし」
「山上憶良か」
「うん。ちょっとね、生々しすぎて、俗だなって思ってた時期もあるんだけど。ハルを見てると本当にそうだよなぁって思う」
 自分の子じゃないのにね、と言い添えて真人は笑った。夏樹は言葉がない。夏樹にとってすら、春真は己の子ではない。確かに血が繋がってはいる。だが夏樹にとって血の繋がりとは忌むべきものであって、喜ぶものではなかった。
 冬樹と露貴、かろうじてこの二人だけが血の繋がりを超えて、夏樹には親しい人物だった。夏樹にとって彼らは「血は繋がっているけれど、それでも」親しい人間なのだ。そこに春真はまだ、入っていなかった。
「お前は……」
 真人にとって血縁とは親しみがあるものであって、嫌悪の対象ではない。それは理解してはいたけれど、ならばなおのこと、春真は真人にとって赤の他人だ。けれど真人は。
「ん、なに」
 無邪気、と評する年ではない。何冊も歌集を出版した、立派な歌人だ。それなのに彼の笑みはそう言いたくなる。作家に比べて知名度が足らないのは短歌であるからであって、その世界では著名でもある。もっとも、賛否両論ではあるらしいが。
 だが、創作活動と言うものは、いずれそのようなものだろうと夏樹は思う。自分の作品も、賛同者ばかりでは気色悪いばかりだ。思いきり良く貶されるの腹は立つけれど、それもまた正しいあり方だと夏樹は、思う。
「僕はね、夏樹。ハルを詠んだ歌だけ、まとめてあるんだよ」
「なんだ、私家版か」
「そんな大層なものじゃないよ。ほんとにちょっとまとめてあるだけ。いつかハルが大きくなって、自分で見つけたら、読めばいいな、と思ってまとめてあるだけ」
 いつか、本当にいつか春真はあの歌の数々を目にすることがあるのだろうか。読んでもいい、気づかなくともかまわない。真人はそう思う。
「そこに――」
 にやりと夏樹は笑った。ほんの少しばかり感傷的になった真人の背筋が伸びるようなことを仄めかそうと言うように。
「俺の歌は入ってないだろうな」
「どうかな、混ざってるかも」
「気をつけて探しとけよ。とんでもないのが混ざってたら、ことだろうが」
 にんまりと夏樹は笑み、真人の髪に手を伸ばす。忙しさのあまり、髪があちこちに跳ねていた。
「あぁ、みっともないね。ごめん」
「いいや。みっともないとは思わないが……乱れてはいるな」
 ぴんときた。咄嗟に顔をそむけるのも遅く頬が赤らむ。王朝の女ではあるまいし、「寝乱れる」ほどの長さがある髪ではない。それでも、頬に血が上る。
 すいすいと夏樹の指が仄めかしを確かなものにするように髪を梳く。毛先の乱れなど、もうとっくにないというのに。
「万が一、春真のための私家版に、後朝の歌なんぞが紛れ込んでいたら、と思うとなぁ。さすがに俺もちょっとぞっとするぞ」
「あなたにそんな歌あげたことないじゃないッ」
「だからと言って詠んでない、と言い切れないのがお前だな」
 それには真人も絶句した。返す言葉がない、と言うより正に真実を夏樹が言い当てていたせいで。口ごもった真人を前に、夏樹が珍しく大きく笑っていた。




モドル