久しぶりに遊びに来た春真は、寝込んだ伯父と出くわした。すっかり布団に包まれて赤い顔をしている伯父に春真は呆れてしまう。 「ちょうどいいところにきたね、ハル。悪いけど、ちょっと伯父様、見ててくれるかな」 ここ数日、ろくに買物にもいけなかったのだ、と真人は笑う。その目許にうっすらと黒いくまを見つけてしまって春真は一も二もなくうなずいた。本当だったら看病は自分がするから、少し眠ったら。そう言いたい。 昔、まだこの家に住んでいたころ、そう言ったことが春真にはあった。だが真人は一蹴した。やんわりとではあったけれど、断固として拒絶し、看病をし続けた。 あのころにはわからなかったことが、今の春真にはわかっている。本当に、心の底から不安で心配でたまらなかった真人。 「代ってくれって言うんだから、そんなに酷くないのかな」 伯父の枕元に座りながら春真は笑う。真人は疲れた顔をしながら買物に行ってしまった。 「まぁな」 夏樹は甥の顔を見上げて苦く笑う。真人がいるべき位置に、甥がいる。不思議と言うよりは多少、不快だった。 「熱は」 「見ればわかるだろう」 「まぁね。それで、何しでかしたの」 何という物言いか、と普段の夏樹ならば言う。いまは軽く咳き込んだだけ。見た目よりも熱があるようだった。 「なに、全然よくなってないじゃん。何日目なの」 「三日目」 「うわ、それで三日目って。ほんと、何やったわけ、伯父貴」 間が悪かったのか、それともそもそも体調を崩していたのか。目顔で春真が問う。まかり間違っても真人が不注意だったのかもしれないだとか、春真は微塵も考えていないあたりに夏樹は内心で笑みをこぼす。 「次の話を考えてて、風にあたりすぎた」 「風にあたったって。そんな馬鹿な。それで熱出すってどれほど病弱なわけ」 「事実だから仕方ないだろうが」 布団の中で肩をすくめて見せたらしい伯父が咳き込む。春真は枕元に置いてあった吸飲みを器用に使って白湯を含ませた。 「すまん」 「別にいいけど。慣れてるし」 「慣れるな」 「だったら熱出さないでよ、真人さんが心配するじゃん。見たの、あのくま。酷い顔してたんだけど」 言われなくともわかっているとばかり夏樹は春真を睨みつける。自分が悪かったと思ってはいるのだ。思っては、いるのだが。 「ほんとさー、ちょっと気をつけなよ。伯父貴に万が一のことがあったら真人さんがどう思うか、わかってるの」 「それは……」 「伯父貴が死んだら、真人さんどうするの。わかってる、そこ」 実に偉そうに春真が嘯く。さすがに甥だった。それも身近で育てた甥だった。真人が決して口にしないことを、親族の誰もが間違っても言わないことをあっさりと春真は言う。無遠慮な物言いが心地良かった。 「わかってはいるつもりだがな」 「絶対にわかってないね。ちゃんとわかってたら、ネタを考えて風邪ひくなんて馬鹿なことしないはずでしょ」 憤慨する春真の正論に夏樹は微笑む。彼の言っていることは正しい。これはどう考えても、一般論として正しい。だが。 「なに笑ってるわけ。全然反省してないじゃん」 「わかってないな、と思っただけだ」 どこがだ、言いたいことがあるならば言ってみろ。そんな表情は血も繋がっていないのに真人によく似ていた。 「前に――真人に聞かれたことがある。長寿と才能、どっちを選ぶってな」 「真人さんはもちろん長寿を選んで欲しかったんだろうね」 春真の言葉に夏樹はそっと首を振った。意外と言うよりは、不機嫌そうな春真の顔。嘘ではないと彼の目を見ればそらされた。 「だったらお前は、真人がどっちを選ぶと思ってる」 夏樹と共に過ごす穏やかな長寿か。それとも歌人としての才能か。春真は一瞬口ごもり、目を閉じた。 「長寿。そっちだよね」 違うと知っていて、そしてそちらを選んで欲しいというような春真の声。夏樹は布団の中から手を伸ばし、甥の手を握った。なぜか、両親の不和に苦しむ子供の顔に見えていた。 「伯父貴――」 熱い伯父の手に春真はひくりと痙攣する。一度きつく握り、伯父の手はすぐ布団に戻った。真人にきつく言いつけられているのだろう、布団から出るな、と。それを思えば微笑ましかった。 「真人は歌うことだけで生きている。俺が書くことだけで生きているように」 「でも――」 「真人は、俺がいなくとも死にはしない。が、歌を失くせば死ぬぞ」 そうあれかし、と願っているのだと自分でも知っていた。自分を亡くした真人は、おそらく歌をも失くすだろう。わかっているのだから、ただの祈りだった。 「それって、なんかさ……悪いけど。なんか、言い訳っぽい。だって、真人さんのこと、好きなんでしょ。真人さんだってそうなんでしょ。だったらどうして相手が一番って言えないの。そんなの変じゃん。わかってるからね、それが大人なんだとか、それっぽいこと言わないでよ」 一息に言い、春真は目をそらして庭を睨んだ。伯父にあたるのは間違っていると子供ではない春真は理解している。わかっていても、きつい物言いになってしまうのは、まだ彼が生きると言うことに明るさを見ているせいだと夏樹は思う。 少しだけ、羨ましかった。自分の行く末が、そして今現在がきらきらと輝いているような気がするのは、どんな気分なのだろうかと夏樹は思う。 春真の年には、いつ殺されるかと張り詰めて過ごしていた。殺されなければ、殺してしまうのかもしれないと恐れてもいた。単純にそう思う自分の思考に怯えていた。 「なんか言いなよ」 むっとした春真の声に夏樹は返ってくる。夢想にさまよいがちなのは、熱のせいだろうか、それとも年齢のせいだろうか。 「お前には、言い訳に聞こえるだろうことを承知の上で言う。聞くか」 「聞いてあげるよ」 そっぽを向いたままの春真だった。編集者が見ればどんな顔をするかと思えばつい、口許が緩みそうになる。あの篠原相手にここまで横柄な口をきく人間はいないと驚くだろうか。 身内なのだから、当たり前だ。そう思って夏樹は、そう思えることそのものに喜びを見出した。真人が、いまの自分を作ってくれた。春真を育てる過程で、自分まで癒してくれた。そんな気がしてならない。 「書くこと、あるいは詠むこと。これがなければ互いに生きていけない。それはわかっている。お前には、想像もできないことだろうが……書けなくなったら、息もできない、そんな気がする」 実際、寝込んでいる時間が長くなればなるほど、息が詰まる。原稿用紙を夢にまで見る。普段は思いつかないような構想が次々と湧く。もっとも、本当に使えるものは数えるまでもないほどにしかなかったが。書きたくて、書きたくてたまらなくなる。知らず手が万年筆を探す。寝床から這い出して、そっと帳面を手に取る。そんなことをすればまた熱が上がるとわかっていても。 「おかしなもんだな、俺も真人も。文字を通してしか、生きられない」 「そんなこと――」 「ないと思うだろ。普通に生きていると思うだろ、お前は。違うんだ」 「どこが違うって言うのさ」 「それが説明できるくらいなら、とっくに足を洗ってる」 「真人さんもなのかな」 「お前は息をするように歌を詠むあいつしか知らんからな。本人はほとんど話さないが、あれは歌を失くしたことが一度ある。死んだように生きていた時期がある」 ふと脳裏に出逢った瞬間の彼の表情が浮かんだ。酷い顔をしていた。すぐにでも死んでやる、そんな顔をしていたくせに目だけは真っ暗に澄んでいた。澄みすぎていたのだ、と気づいたのはずいぶん後になる。歌を失くし人生の意義すら見失い、何も見ていなかったからこそ澄んでいた目。 生きるとは、濁りや淀みを身につけることではないかと夏樹は思う。言葉こそ悪いが、決してそれは悪ではない。身につけたそれらは、魂の幅になる、そう思う。澄みすぎた目をしていた真人より、今のほうがずっといい歌を詠む。そう思う。 「だったら、真人さんは伯父貴がいなくても、歌を詠んでたの。伯父貴は真人さんがいなくても平気で書くの」 「それは違う」 きっぱりとした伯父の声に驚いたのだろう、春真がようやく夏樹を見つめる。ほんのりと赤い頬に目を見開いて、このまま喋らせていいものかと迷う顔をしてから、台所に立つ。すぐさま戻った春真の手には冷たく絞った手拭いがあった。 「あぁ、気持ちがいい。すまんな」 「喋ってて、平気なの。話しかける僕が悪いんだけど」 「別にかまわん。たいしてつらくもない。真人が大袈裟なだけだ」 夏樹の言葉に、憎まれ口をきいて、と春真が伯父を睨む。だから嘘だとは見抜かれなかったようだった。 本当はつらい。口を開くだけで自分の体が泥のようだ。けれどせっかく久しぶりに顔を見せた甥だった。 「なにが違うのかだったな――。お前にも、いずれ大人になったときにわかる日が来るだろう。まぁ、来てほしいと言うべきか。俺には真人の歌が理解できる。手に取るように、あれがなにを考え、なにを思ったのかがわかる。真人も同じだ。俺がなにを書き、なにを考えたか。真人には完璧に見抜かれている。――お前にも、いつかわかるはずだ。わかることがわからない、と言うことがな」 「なにそれ。もうちょっとわかりやすく言ってよ」 「歌がなければ生きていかれない真人。書けなきゃ死ぬしかない俺。それでも互いは別格だってことさ」 「なんだよ、結局は惚気かよ」 「お前が大人になって真剣に誰かを思う日がきたらただの惚気だったかどうか、わかるかもしれないぞ」 にやりと夏樹は笑う。そして咳き込む。まったく冗談を言って。そんな顔をしながら再び春真は吸飲みを使った。遥かのちに、この日の会話を思い出すなどつゆ知らず。 |