真人と二人、水野本邸に向かっていた。真人は稀に春真に会いに行っているが、夏樹が本邸に行くのは珍しい。
「悪かったな」
 だが今日は夏樹の願いだった。真人は訝しそうな顔もせず付き合ってくれている。むしろ普段より朗らかとすら言えるかもしれない。
 それが彼の気遣いだとわかっているから夏樹は何事もなかったかのように礼を言うくらいしかできない。
「なにが。謝られるようなこと、あったかな。それにしても、あなたもそんな年なんだね」
「なにがだ」
「お父様の本が読みたいなんて。親のことを思う年になったのかなぁってさ」
 からからと真人が笑う。夏樹としては一言もない。実際そう言われても仕方ないな、とも思っていた。
 なぜか無性に、父の蔵書が読みたくなった。同じ本を買えば済む話だった。さして珍しい本を持っていたわけでもない。
 それでも。父が触れた本。父が読んだ本。どんな思いで、あの薄暗い書斎で、父はあの本を読んでいたのだろうか。
 かつて。あの書斎は燦々と陽が射す明るい部屋だったと父は遺書代わりの手記の中で語った。とても信じられないでいる。確かに窓を塞いだ形跡はあったし、壁の前にはみっちりと本棚がある。それでもなお、信じがたかった。
 そんなことを思いつつ、父の本に触れてみたい。春真を育て、ようやく家族と言うものに触れた思いの夏樹は、この年になってやっと、父と向かい合う気になったのかもしれない。
「僕は久しぶりに春真と喋ろうかな。あぁ、大丈夫。ちゃんと荷物持ちはするからね」
 にこりと真人が笑う。向かい合う気になっても、いまなお夏樹は一人で本邸には行く気になれない。あの屋敷は、父のいた屋敷。だがそれ以上に母のいた屋敷。自分が殺されかけた場所。
 だから夏樹が父の本を、と言ったとき、真人はあっさりと言ったものだった。
「だったら僕が荷物持ちをするよ」
 と。一人では行きたくない夏樹の思いを汲んで。ただの荷物持ちだと笑って。ありがたさに、涙すら出そうで、夏樹はそっぽを向いて無言になった。
 行く直前まで、やはりやめてしまおうかと鬱々していた夏樹だったが、こうして出かけてきてしまえば、中々に爽快な日だった。
「もうつくんだから頑張ってよ」
 本邸が近づくに連れて重くなる夏樹の足を、疲れたのだと笑い飛ばす真人。夏樹も黙って苦笑した。
 本邸は、自分が住み暮らしていたころとはずいぶん違う。夏樹はそう思う。時代が違うのだから当然だ、とも。あのころは多くの使用人がいたものだけれど、いまはさほどでもない。何より母に仕えていた女たちがいない。それだけでもずいぶん気が楽だった。
「やぁ、兄さん。お珍しいですね」
 居間に入った途端、明るい冬樹の声に迎えられた。驚いて足の止まった夏樹の背を、そっと真人が押す。
「……珍しいのはお前だろう。どうした」
「どうもこうも、単に休みなんですよ。今日は」
「……日曜日だったか」
 曜日の感覚のなくなりがちな商売だから、と夏樹が首をかしげるのに冬樹は笑う。笑って水曜だ、と言う。水曜が休みなんですよ、とも付け足せば、夏樹はいっそう不可解な顔をした。
「まぁ、そういう仕事もあると言うことで。それよりどうしました、兄さん。何かありましたか」
「いや……その。まぁ、なんだ。父上の蔵書を少し、借りたいと思ってな」
 兄の言葉に、冬樹の顔がぱっと明るくなる。背後で見ていた真人は、春真の笑い顔にそっくりだな、と内心で微笑んだ。
「借りるだなんて。兄さんがお手にとったほうが、父上もお喜びになるでしょうから」
「……そうかな」
「そうに決まってます。さぁ、兄さん。あ、真人さん、どうします。ご一緒しますか」
「ううん、僕はハルと喋ってこようと思って」
「おい」
「なに。あぁ。ハルもお休みだよ。学校の記念日だって言ってたから」
 いつ聞いたのだ、と夏樹が目顔で言うのに。真人は笑って答えない。肩をすくめて夏樹は真人に背を向ける。
「兄さん」
「なんだ」
「楽しそうですね」
 真人とのやり取りを冬樹が小さく笑った。こう言われてしまっては、あとで真人に文句も言えなくなる、と夏樹は渋い顔をする。が、どことなく面白がってもいた。
「そういえば、面白い話を聞きましたよ」
 書棚の前に立ち、ぱらぱらと本をめくる兄の背中を冬樹は見ていた。この家ではついぞ見たことのない景色なのに、妙にしっくりと馴染んでいる。それだけ兄が父に似ている、と言うことかもしれないと冬樹は少し懐かしい。母には溺愛された。だがそのぶん父には黙殺された。兄は母に殺されそうになった。父にはやはり、黙殺されていた。けれど同じ黙殺でも、その質が違ったような気がする。兄と自分、どちらが幸福だったかなど問う気はない。兄弟それぞれ、傷はついている。その上でいま、兄の背に父の面影を見た冬樹は懐かしいと思う、そう思える自分こそ、幸福だと思う。
「なにを聞いた」
 本に眼差しを据えたまま夏樹は問う。弟と真正面から話すのが照れくさいのだ、この兄は。それを知っている冬樹は気にした風もなく話し出す。
「先日、文壇関係者と会食をしたんですよ」
 文学賞の後援などもしている冬樹のことだ、そのようなこともあるのだろうと夏樹は黙ってうなずいた。
「ある編集者の話だそうです。担当の作家に見合いをさせたがっていましてね」
「……よくある話、なのか。俺にもあったぞ。すぐさま断ったが。真人が」
 真人が、と言うときだけ声を低めてぼそりと言った兄に冬樹は吹き出すのをこらえかね、小さな音が出てしまう。夏樹の背がひくりと動いた。兄もまた笑ったのかもしれない。
「その編集者は、なんとしても見合いを成功させよう、結婚させようと努力と言うのか画策と言うのか。していたらしいんですがね」
「そんなもの、本人がその気にならなければ無駄だろうに」
「えぇ、本当に。でもそれ以前の問題だったらしいですよ」
 くすくすと書斎の椅子に腰掛けて冬樹は笑っていた。ちらりと兄が振り返り、そんな弟の姿を見やる。どこにでもいる兄弟のような気がして、冬樹の胸がほんのりと温まる。
「編集者はもちろん作家の原稿を読むものですよね。それで、断念したのだそうです」
「――どういう意味だ」
「原稿に描かれていた実在の人物の気配があまりにも濃厚で、これは結婚させるのは無理だ、と悟ったらしいですよ」
「気のせいか。どこかで聞いたような気がするのは。それにしても――」
「なんです、兄さん」
「俺は気配を悟られるようなへまはしていないつもりだったがな」
 本を抱いたままむつりとする兄に、冬樹は一瞬息を飲み、そして大きく声をあげて笑っていた。
「嫌だな、兄さん。兄さんの話ではないですよ」
「どこまで本当だかな」
「本当に兄さんではないです。真人さんの話ですよ」
 冬樹が言った途端、夏樹の手がぴたりと止まった。そのまま恐る恐る冬樹を振り返り、目が問う。本当かと。こくりとうなずいた冬樹の前、夏樹は片手で顔を覆った。
「兄さんも、だったんですね」
「言うな」
「兄さんも、真人さんのことを書いていたなんて、なんだか嬉しいんですよ」
 自分には読み取れなかったから、と冬樹は言った。それは今後、改めて真人の影を探して読むと宣言しているようでもあり、夏樹としては身の置き所がなくなりそうになる。
「編集者は言ったそうです。水野琥珀の文章にはあまりにも篠原忍の影が濃くて、あの濃密さに立ち入る度胸のある女性は見つからない、と」
 言いつつ冬樹はくつくつと笑っていた。不意に夏樹は笑い声に春真を思う。妙なところで父子が似ているものだ、と。
「それ、真人に言うなよ」
「えぇ、言いません。真人さん、気になさるでしょうから」
「卒倒しかねん。あれは、自分がなにを書いているか自覚していないからな。自覚していないからこそ、変に勘繰られないで済んでいるんだ」
 それだけを兄にしてはきっぱりと言う。冬樹は目許に笑みをたたえた。世間でなにを言われようとかまわなかった。この兄に守りたいと思う人がいる。そう思わせてくれる人がいる。こんなに嬉しいことはない、冬樹はそう思う。
「それにしても――。なぜお前に言った」
 篠原忍の「秘密」を知ったのだ、と編集者なりが伝えようとしているのならば、手は打つと冬樹に無言のうちに告げる。
「違いますよ、兄さん」
 だが、夏樹の危険な眼差しを、あっさりと冬樹は退けて笑った。軽く顔の前で手まで振っているものだから、夏樹は拍子抜けしてしまう。
「本当に、食事の席での雑談だったんです。それにね、兄さん」
「なんだ」
「兄さん、弟がいるって、ほとんど口にしないでしょう」
「それは――」
「甥がいるとは言うくせに、弟がいるって言わないものだから、僕と兄さんが兄弟だって知らない人がずいぶんいるんですよ、文壇関係者の中にもね」
 何か、責められている気はするのだが、夏樹はなにを言っていいかわからない。困って本をいじっていると、冬樹が吹き出した。
「いやだな、そんな顔をしないでください。いじめてるみたいじゃないですか」
「だが――」
「後援をしている都合上、知られていないほうが都合がいいこともありますし。それにね、兄さん」
 ふと言葉を切り、冬樹は微笑んだ。これはきちんと向き合わねばならない、と夏樹は正面を向く。ゆったりと椅子にかけた冬樹は、悠然と笑みを浮かべている。子供のころは線の細い少年だったのに、ずいぶん恰幅がよくなったものだ、と夏樹は改めて見た冬樹に目を開かされる思いだった。
「兄さんが言おうが言うまいが、人が知ろうが知るまいが、僕たちは兄弟です。そうでしょう、兄さん」
 母から庇ってくれる、優しい弟だった。一人勝手に家を離れた自分を案じてくれる立派な弟だった。
「あぁ、そうだな」
 理由などわからない。それでもいまこの瞬間、父も母もなく、過去のしがらみを離れた、ただの兄弟になった、そんな気がした。
 夏樹は父の本を抱えたまま、黙って冬樹の頭に手を乗せる。子供にするように。幼いころ、そのようなことをしたことはなかったから。冬樹もまた、笑ってされるままになっていた。




モドル