夏樹の骨休めのため、箱根の温泉にきたはずなのに彼の機嫌が悪い。無理もない、と真人はこっそりと溜息をつく。
 新しく入った仲居が篠原の大の愛読者だとかで彼の顔を知っていたのが、けちの付きはじめだった。それから宿帳には本名でなく篠原と書いてくれだの、色紙を持ってくるから署名が欲しいだの、はてには普段挨拶にきたことのない女将まで登場するに至って、ついに夏樹は無言だ。
「これじゃ、横浜にいるのと変わらない」
 夏樹はむつりとぼやく。やっとのことで二人きりになり、真人が淹れたこれも家から持参の茶葉を使って淹れた茶を飲んでいるところだった。
「まぁ、そう言わずに、ね」
 苦笑しつつ、女将が置いていった菓子を勧めれば、そっぽを向かれた。致し方なく、別の菓子を勧める。
「なんだそれは」
「途中で買ったの。あなた、好きじゃないかと思って」
「……まぁな」
 今度は素直に手を出した。真人はそっと口許にだけ笑みを刻み、荷物を片付ける。春真がいたころにはとてもできなかった長逗留だった。と言っても一週間程度のことではあるが。その間の肌着類などたいして使わないのはわかっている。なにせ温泉だった。四六時中、宿の浴衣でいるのはわかっていて、それでも真人は肌襦袢の類はきちんと持ってくる。そもそも彼は日常的には襦袢をつけないと言うのに、だ。
「また持ってきたのか」
 片付けものをする真人に目を止め、夏樹が小さく笑った。よけいなことをするとも、無駄なことをするとも言うような口調だったけれど、真人は彼が笑みを浮かべただけでほっとする。
「突然どっかに出かけたい、なんて言うかもしれないじゃない」
「それにしても、よくそんなに襦袢があったな」
「あなたがほとんど使わないだけで、あるのはあるよ。そういえば、長襦袢がそろそろくたびれてるよ。新調したら」
「出かけるときにしか着ない。いらん」
 さすがに外出するときには、まともな格好をする、と夏樹は言う。だから彼にも家の中ではぞんざいな格好をしている自覚はあるわけだ、と真人は笑った。
「夏樹。着替えたら」
 物入れの前から立ち上がり、真人は宿の浴衣を手でさばく。そうしつつ顔を顰めた。
「どうして宿の浴衣って言うのはこんなに糊を利かせるかな。くっついちゃってはがれやしないよ」
 文句を言いつつ浴衣を柔らかくする真人を眺め、夏樹はほんのりと目許を和ませる。こうして欲しい、など言ったことは一度もない。それなのに真人は着心地が悪いだろうから、と言っていつもそうする。
「はい、夏樹」
 ようやく気に入るくらいまで糊がほぐれたのだろう、真人は夏樹を促して立ち上がらせた。
「あぁ」
 真人に背を向け、夏樹はきたままだった羽織を落とす。真人が背後で拾う音がした。それから帯を解き、着物を落とし、面倒そうに長襦袢を脱いでいく。素肌が現れた、と思う間もなく浴衣が肩にかけられていた。
「はい、帯」
 つい、と座ったまま真人が前に回ってくる。差し上げるよう、その手には浴衣の帯がある。
「一々そこまですることはないだろうが」
「ん、なにが」
 言いつつ真人は手早く着物を畳んでいる。長襦袢だけはどうしようかな、とでも考えるよう首をかしげ、結局風に当てることにしたのだろう。そのまま横に置く。
「着替えの手伝いをしてくれるのはありがたいがな。下から帯を差し出されると、むずがゆいだろうが」
「でも、そのほうが手に取りやすいでしょう」
「まぁな」
「別に僕はあなたにお仕えしてるつもりはないんだけどね」
 くつくつと笑っている間に、着物は畳まれてしまっていた。あっという間に片付いていくのを見て夏樹はこれもひとつの才能だ、と思う。
「ちょっと待ってて。僕も着替えるから。そうしたらお湯にいこう」
 まるで何事もなかったかのよう真人は言う。そして何事もない、と感じた自分に夏樹は密やかに笑った。先ほどまでの苛立ちが見事に消えている。着替える真人の背に向けて、夏樹はそっと目礼した。

 観光の時期ではないおかげで、さすがに湯殿はがらがらだった。何しろ二人きりだ。夏樹としてはこんなにありがたいこともない。
「よかったねぇ、空いてて」
 顎まで湯につかって真人はのんびりと呟く。単純に、空いていることがよかった、と言っていた。あるいは、人嫌いだからほっとしたでしょう、とでも言うように。
 夏樹は、けれど違うことを知っていた。真人が言わずに済ませたこと、本当はなにを言っているかを。
 夏樹の体には傷がある。まじまじと見なければわからない、古傷だ。いくら裸だからとはいえ、風呂だからこそ、他人の体など見つめるものではない。が、傷のある身では見られているのではないか、何か問われるのではないか。そう気にかかること自体がくつろぎを妨げる。
「あぁ、のんびりするな」
 真人が言わなかったことに答えるよう言えば、隣で彼の目が笑った。それが照れくさくて、早々に湯から上がることにする。
「先に、洗う」
 言い捨てれば、湯船の中から笑い声が聞こえた。まだそれほど熱くもなっていない体だった。体を洗ったら、もう一度ゆっくりつかることにしようと夏樹は思う。
「ねぇ、夏樹」
「なんだ」
「それって、あなたの癖なのかな」
 洗い場の曇った鏡越しに見やれば、湯船の縁に顎を乗せ、真人がこちらを見ていた。
「左手から洗うのがか。単に順番だというだけで癖じゃ――」
「違うよ、一度ちょっとつかってから体洗って、もう一度つかるじゃない」
 言われて夏樹ははじめて気づく。つまり、真人と湯に入るときにはいつもそうしている、と言うことなのだろう。さすがに自宅の狭い風呂で共に湯に入ったことはない。
「あぁ、なるほどね」
 何かを理解したよう、真人がうなずく。夏樹は聞こえないふりをして体を洗った。
「意外とって言ったら悪いけど、照れ屋だよね、あなた」
 茶も飲んでいないのに吹き出すところだった。咳き込んでむせた夏樹の背に温かいもの、咄嗟に湯船から飛び出した真人が背をさすっていた。
「ごめん、驚かせちゃったかな」
「当たり前だ」
「照れ屋なあなたが僕は――。まぁ、いいや。貸して、背中流してあげるから」
 手拭いを奪い取り、真人が無言で背を流す。強くもなく弱くもない、夏樹の好みをいつの間に彼は覚えたのだろうと思えば不思議だった。

 食事は驚くほど、夏樹の好みだった。篠原忍が投宿しているから、と板場が張り切ったわけでもあるまい。そもそも料理人が夏樹の好みを知っているはずもない。
「さっき、風呂上りに頼んできたんだよ」
 食が細いこと、一品ずつの量は少なくして品数があれば言うことはない、と。すでに篠原だと知られているのだ。ならば彼の気難しい、と言う評判をここは利用させてもらうに越したことはない。
「別に有名人と言うわけでもあるまいに」
 苦笑する夏樹に真人は笑う。そういうのは自分が言う台詞だ、と言って。
「あなたはそれなりに有名なんじゃないのかな。多作ってわけでもないけど、好まれて長く読まれてる本もたくさんあるじゃない」
「それなら、お前も――」
「短歌の世界は圧倒的に狭いんだよ、小説に比べるとね。それに僕は現代短歌は苦手だからね、名前は売れない。売れなくてもどうと言うこともないしね」
 言いつつ真人はつい、とそっぽを向いた。余人ならば、言葉とは裏腹の思いがある、とでも解釈するよりない仕種。夏樹は小さく微笑む。
「なぁ、真人」
「ん。なに」
「お前いま、照れただろう」
 ここぞとばかりに言えば、思い切り嫌な顔をされた。それからまたそっぽを向く。そして気づいたのだろう、夏樹に眼差しを戻した。
「別にこれは、僕の癖じゃないんだよ」
「なにを言っている、お前、いま」
「あなたの癖がうつったの。いつも恥ずかしがると、どっか向いちゃうの、誰だったっけね」
 悪戯っぽく言われ、夏樹は思わず顔をそむけ、そして言われたとおりのことをしていると思えばもうどこを見ていいかわからない。
「つくづく悔しいもんだな」
「なにがさ」
「お前は俺の癖までよくよく知り抜いているって言うのにな。俺はあんまりにもお前を知らないような気がしてきた」
 もう真っ暗で見えもしない宿自慢の庭をガラス越しに見つめたまま夏樹は言う。ぼんやりと、彼の顔が映っていた。
「それだけ、あなたにとって僕が近しいってことなんじゃないのかな」
「なにを――」
「ねぇ、あなたさ。自分の癖ってわからないものじゃないの」
 にっと真人が笑みを作った。夏樹は短いその言葉の中にこめられた心にほんのりと胸の中、熱を覚える。
「空気みたいな、と言うやつか」
「そうそう。大事なものだしね」
「自分で言うなよ」
 呆れて笑う夏樹の頬に真人は目を留める。なにがあったわけでもないけれど、少しばかり疲れて鋭くなっていた頬の線が和らいだ気がする。
「いいじゃない――ですか」
 真人が言葉を改めたのに夏樹は渋い顔をした。食べ終わった膳を下げて行ったかと思えば、今度は布団敷きだと言う。できることならば真人は自分でやりたい。夏樹が嫌がるから。かといってそうもできずに黙って二人、見えない庭を眺めているふり。
「なんだか、興がそげたな」
 失礼いたしました、ごゆっくりお休みくださいませ。そんな言葉を残して係りの者が出て行った後、夏樹はくたびれたようにそう言う。が、目は笑っていたからそれほどでもないのだろう。
「少しお酒でももらおうか」
「いや――」
 まだ話したいだろう、と言う真人に夏樹は逆らい、彼の手を引く。少しばかり驚いた顔をして、けれど真人は微笑んだ。
 翌朝。敷かれたときのまま整った一組の布団を真人は乱雑に崩してまわった。




モドル