立派なビルから、足音荒く出てくる人とぶつかりそうになり、露貴は慌てて立ち止まる。そして目を丸くした。
「珍しいね、真人君」
「え――」
「君が、そんなに苛々しているなんてね。どうした」
 言いつつ露貴はビルを見上げる。そういえばここは出版社だった、と思い出した。真人も編集者とやりあったりするのだろうか、と思えばどことなくおかしい。
「あの――」
「いいや。時間、あるだろうね。どうだい、少しお茶でも」
 にこりと露貴に微笑まれて真人は言葉を失う。まさかこんなところで出くわすとは思ってもみなかった。――と言ったら嘘になるだろう、たぶん。
 露貴がこの辺りにいることは、知っていた。戦後の混乱期が終わるや否や金融業をはじめた露貴は、着々と歩を進め銀行を起こした。真人など、なにをどうしたものかさっぱりわからない。その、彼が興した銀行がこの辺りにある。真人は、その銀行が彼の会社と言っていいものかすら、わからないでいたが。だからいつか偶然会うこともあるかもしれない、とは思っていた。
「時間は――」
「ないのかい」
「いえ、ありますけど」
「だったら、近所に私がよく行く喫茶店があるんだ。付き合えよ」
 強引に、誘われてしまった。確かに時間はあるが、と真人は思う。露貴にしては誘い方が強引で、そのぶん自分がどれだけ酷い顔をしていたのか、と思わざるを得ない。
「最近は忙しくて、中々遊びにも行けなくってね」
 思うところがあるのかないのか、無言の真人に露貴は雑談を仕掛ける。が、返ってきたのは生返事だった。真人にしてはこれも珍しい。
 結局、喫茶店につくまで真人は無言を通した。露貴は、自分でも意外なほどに気にならなかった。同時に、甚だしく不快だった。この態度に、覚えがある。彼の不機嫌なときと同じ態度。
「それで、なにがあったんだい。私に言っていいことだったら」
 飲み物が運ばれてきて、ようやく露貴は本題に入る。真人はそこにコーヒーがあることにはじめて気づいたよう目を上げ、瞬きをした。
「すみません……その」
「言ったじゃないか。君が苛々しているのを見るのは実に珍しい。だから、謝らなくていい」
 そう言われれば、真人はいっそう気にするだろう。下げた眼差しがそれを語る。これはだから、意地悪なのだろうか、と露貴は自問する。答えはなかった。
「――篠原の」
「ん、あいつの。あれがどうしたんだい」
「……この前、連載が終わったんです。さっきの出版社から出てる雑誌の」
 一度口を開きはじめたら、あとは堰が切れてしまったかのようだった。きっと眼差しを上げ、真人は露貴を見据えて話しはじめる。だがその目は露貴を見てはいなかった。
「物凄く好きな作品でした。いい小説かどうかは、そんなことは僕が知ったことじゃない。でも、好きな話でした。それなのに、書籍化はないって、さっき僕の編集者が雑談で。ありえない。なんでなんです。あんなにすごい作品だったのに。書籍化がないなんて。それを、篠原も知っていたって。どうして」
 一応は、人に聞かれないよう心がけてはいるのだろう。声を荒らげるでもなく話してはいた。が、そのぶん押し殺して潰れかけの声。露貴ははじめて見る真人に気を飲まれかける。
「あいつが君に教えてなかったのが、不快なのかな」
 だからこそ、露貴はやんわりと尋ねる。柔らかい声に包んだのは、彼の苛立ちではなく、自分の醜さ。
「露貴さん」
「あいつは、気を使ったのかもしれない。そうは考えなかったのかな。君よりあいつの本のほうがずっと多いからね」
 包んだはずの声が、破られた。本当に、そんな気がした。真人のその目。何も言ってはいない。ただ見つめられただけ。気を飲まれるなどと言うものではなかった。
「その言葉は琥珀に対する侮辱と取ります。いくら露貴さんでも許しがたい。冗談でも言っていいことと悪いことがある」
 かつて真人は軍に籍を置いていた、と聞く。ほんの子供のころで、戦場に出たことはないとも。だがはじめて露貴は真人が軍籍を持っていた人間だと理解した。たぶん、否、間違いなくその認識は間違っている。だが、そう思ってしまうほどの目。
「いや……言い過ぎたね」
 息を吸い、露貴は気づく。真人がどうのではない。恐れた自分から目をそらしたくて、彼が軍籍を持っていたなど思うのだと。心の中で舌打ちをする。自分が忌々しくてならなかった。
「すいません。僕も、言い過ぎました」
「いや。どう考えても私が悪いだろう。ちょっとからかいすぎたね」
 からかってなどいない。水野琥珀がちらりとでもそのようなことを考えたのならば、あいつに相応しくない男だと思うことができる。
 確かに露貴はそう考えた。だからこそのあの言葉。自分を理解できるというのは時に不快だ、と露貴は思う。そして冷静にそう感じる年になったかと思えば苦笑のひとつもしたくなる。
「でも、あいつはなぜ君に言わなかった」
 わかっていて絡むのは、どこかかさぶたをはがす気持ちに似ている、と露貴は思う。まだ治りきっていないかさぶたをいじって傷を深くして。いつまでも治らない傷を楽しむように。
「そんなの、どうでもいいからです」
「なに――」
 かちんと、きた。夏樹は作家だ。自分の本が出るか出ないか、気にならないはずがない。どうでもいいわけなど決してない。険しくなった露貴の目に気づかないよう、真人は続けた。
「どうでもいいんですよ、あの人は。職業作家としては、最低です。あの人は、書ければいいんです。本が売れるかなんて、まるで気にしていない。作家としては、気にするべきでしょうけどね」
「なぜ、わかる」
「わかりますよ。あの人は、僕が読めばそれでいいと言い切った。職業作家がですよ。他人に読まれて評価されて、売れ行きが伸びていかなきゃ困るはずの職業作家が。ただの口先なんかじゃなかった。あれが口先だったなら、僕は今すぐ歌詠みであることをやめます」
「君は――」
「あの人は、書いて、それで満足したんです。僕が読んだから。だから、書籍化をしなくても、気にしていない。でも僕は」
 ぎゅっと唇を噛んで真人はうつむいた。羨ましくて、妬ましかった。表情を隠したくて、露貴はコーヒーを飲む。
「露貴さん。あの人の本、読みたくないですか。露貴さんだったら、どうですか」
 真人の眼差しに射竦められて、露貴は言葉を濁したくなった。決して言えない、自分の本心など。言いたくなどない。
「読みたくないね、私は」
 それなのに、口は勝手に言葉を紡いだ。はっとしたよう真人が目を瞬く。
「本人と、君と。そしてたぶん私だけが、この世でこの三人だけが、あれがなにを書いているかを知っている。だから、正直に言えばあまり、ね」
「すみ――」
「謝るなよ、真人君。私の心には今でも桜がいるんだ、と言うことになってるんだ。まぁ、あながち間違いでもないがね」
 にやりと、露貴は笑った。真人は目をそらしそうになり、そのまま耐えて目を合わせてくる。露貴は息を飲み、そして本心から微笑んだ。敵わないな、と思う。夏樹のそばに真人がいる、それでいいのだろうと思う。
「それにしても、なぜだ。書籍化をしないなんて」
 不思議そうに首をかしげた理由に、真人は思い当たるだろう。そして何も見なかったことにしてくれるだろう。
「幻想的過ぎるからなんですって」
 案の定、何事もなかったかのよう真人は肩をすくめて見せた。それを面白く思うより先に露貴は驚く。
「幻想的。あいつの小説が、か。まぁ、……言わんとするところはわからなくもないが。連載が終わったって言うと――」
「あれです。『紺碧の町』って話」
「あぁ、あれか……」
 幻想的過ぎる、と評した編集者の言葉がわかる気がした。現実の町の話なのか、途中から幻想譚になったのか、露貴にもわからなくなった小説だった。
「幻想小説は売れないから、本にしないって編集者は言い切りましたよ。あれのどこが幻想小説なのか、僕にはわからないんですけどね」
「……そうかな」
「えぇ。あれは、篠原忍が見ている現実ですよ。彼の目は、世界をあのように捉えている、作家の目が見た彼の現実を再構築したものが小説であるなら、それが幻想かどうかを問うことは無意味だと、僕は思うんですけどね。あれは篠原忍にとって現実なんですから」
「だが、現実を書くのが作家か……いや、関係ないんだな。見て想像して、自分の中を通して書くのが小説家だからな。見ている現実が違えば、そうとられることもある、と言うことか」
 なにを書いても、作家の目と心を通す以上、本人の癖あるいは嗜好が表れるものだろう、と露貴は解釈する。書かない露貴にわかることではないし、真人にも本当のところはわからないのかもしれない。
「それにしても……あいつはそれほど幻想的な人間かね」
 あの『紺碧の町』と言う作品は、確かに夏樹の小説の中でも夢と現実の境が曖昧だったように思う。夏樹はあのようなものの見方をする人間だろうか、と露貴は疑問に思う。
「違いますよ、露貴さん」
 にこりと真人が笑った。あまりにも鮮やかな笑顔で、露貴ですら、見惚れた。
「物の見方が幻想的なのは、篠原忍です。あの人じゃない」
「だが」
「同じ人間ですけど、作家として物を見るとき、あの人は一人きりです。そこには僕もいない。誰もいない。ただ世界があって、篠原忍だけがいる。――本当のところはわかりませんよ、僕がそう思うってだけで。でも、間違ってはいないと思うな」
 それを寂しげではなく、笑って真人は言った。自分ですら立ち入れない部分があるとなんの気負いもなく真人は言った。
「……今更だけどね」
「露貴さん。なんですか、急に」
「――君が、あれのそばにいてくれて、よかった。そう思う」
 自分ではなく。選ばれなかった自分ではあるけれど、負け惜しみではなくただ素直に露貴は思った。自分では、篠原忍を理解はできない。名づけたにもかかわらず、作家としての夏樹は、理解できない。
 後悔でも寂寥でもなく。露貴はただ、そう思った。真人がいてくれてよかったと。夏樹の傍らに、彼を理解できる人がいるのだと。夏樹は一人ではない。夏樹のために、露貴はそう思った。




モドル