何も言わずに出かけていった夏樹が戻ったのは、もう夕食の時間もすぎてからのことだった。さすがに何かあったのではないか、と真人がそわそわしだす、そんなところに彼は戻った。
「――いま帰った」
 玄関で行きつ戻りつしていた真人に目を留めて、夏樹は訝しげに首をかしげる。そしてはたと気づいたのだろう。唇を引き結ぶ。
「……すまん。遅くなった」
 ぼそりと、それだけを言い家の中に入っていく。真人は小さく口許を緩めて彼の後を追った。もしも自分でなかったなら、なにを言うのだろう。怒ればいいのか呆れればいいのか。どちらも思いつかず、ただひたすらにほっとしていた。
「お帰り、夏樹」
 追い越して、にこりと笑う。夏樹は眩しさに目を眇めるよう、顔ごとそむけた。そんな彼に真人はそっと微笑む。心底から悪いと思っていること、それから照れていること。口などきかなくとも充分にわかる。
「お腹、すいたでしょう。ご飯にしようか。それとも、先に一風呂浴びてくる」
「……風呂」
「ん。沸いてるよ。入ってきて。その間にご飯、支度しておく。今日はあなたの好きな鯖の味噌煮だよ」
 聞いているのかいないのか、夏樹は黙って荷物を置き、そしてまた持つ。自分の文机の横に置きなおした、と言うことは勝手に触ってくれるな、と言っているのだと解釈し、真人は夏樹が脱ぎはじめた着物の面倒だけをみる。
 無言で風呂に入りにいく夏樹の背を追うことなく、真人は台所に立つ。用意もなにも、鯖は煮えている。ご飯も炊けている。あとは常備菜の類を並べれば、それで充分だ。
「昔ほど、食べなくなったものなぁ」
 夏樹が、ではない。自分がだ。若い頃のように旺盛な食欲、と言う風にはいかなくなった。それでも彼よりは健啖だったが。
「ハルが帰っちゃってからは、肉も並ばなくなったしねぇ」
 我が家の食卓に乗る一番味の濃いおかずが鯖味噌だな、と真人は思う。それも夏樹向けに品よく煮たものだ。自分が子供時代に食べていたものとは大違い。とはいえ春真にあっさりしたものを食べ続けろ、と言うのはいかにも酷で真人は春真がいる間はずいぶん子供の好むものを作っていた。今となってはもう思い出だ。
 風呂上りの夏樹は、黙ったまま座って食事を待つ。用意を手伝え、など言ったことは一度もない。言えば自分の手間が増えるだけだと真人は知っていた。
 だから手早く一人ですべてをしてしまう。いただきます、こそ夏樹は呟くように言ったけれど、あとは終始気もそぞろ。上の空と言うべきか、普段からさほど口数の多い人ではないだけに、食事の間ずっと無言になりがちだった。
「はい、お茶」
 好きなはずの鯖の味噌煮だったが、彼は何も言わない。言わないのだから、気に入って食べていた、と言うことだろうと真人は思う。現に皿はきれいになっている。
「真人」
「ん、なに」
「荷物とってくれ」
 先ほどのあれだろう、見当をつけて真人は持ってくる。大きな荷物ではないのに、持ち重りがした。首をかしげつつ彼に渡せば、一度困ったように彼は荷物を抱いた。
「あけてみろ」
 なのに、そのまま荷物を真人に渡す。真人は不思議でならなかった。見るな、と言うことではなかったのだろうか、先ほどの態度は。
「……勝手に見られると、くすぐったい。これは、お前のだ」
「ん……どういうこと」
「見ろ。そのほうが話が早い」
 荷物を抱えたまま話をしていても確かに埒はあかない。ほどいたほうがよほど手っ取り早く話が進むはず、とわかっていても真人の指は鈍る。
「どうした」
「うん、なんて言うのかな。なんだろう、と思って。ずいぶんと重たいし」
「だから――」
「わかった、わかったから。苛々しないで」
「してない」
 夏樹の言葉に真人は吹き出すのをなんとかこらえる。あからさまなほどにむつりとした人がよく言う、と思ってしまう。
「真人」
 更に急かされて、真人はやっと荷物に手をかけた。殊更ゆっくりとしたわけではないが、夏樹が身の置き所がないような仕種をしはじめる。それを見ていたかったのかもしれない、とふと思った。
「あ……」
 そして中から現れたのは、本だった。和綴じの、立派な本だ。ぱらぱらとめくれば、驚くことに中は手書き文字。
「夏樹、これ……」
 聞かなくとも、わかっている。本にはきちんと表題がつけられている。連載をしたのに、書籍化されなかった彼の小説、『紺碧の町』だった。
「さすがに手書きだと分量が増えるな。三冊になった」
「それは、そうだろうけど、でも。どうして」
「そりゃ、出版社との契約的に色々とまずいからな。それは、ただの清書だ。清書して、まとめただけだ。まとめたついでに、ちょっと見た目のいい表紙をつけた。それだけだ」
「そうじゃなくて、夏樹」
「なんだ」
 少しばかり夏樹が面白そうな顔をした。それはそうだろう、と真人は思う。表れた本を真人は抱いて離していなかったのだから。胸の中で、紙の本が温もりを帯びていく。
「僕が聞いてるのは、手書きの理由じゃなくて、これがここにある理由」
 答えを聞けば、取り上げられてしまうのではないだろうか。真人の表情に夏樹は恐れを見る。だから微笑んで見せた。それだけで、真人にはわかるだろう。
「今日が何日だか、忘れたか」
「え――」
「酷いやつだ。今日は、何年前だったかな……お前がこの家に来た日だ」
 例年、夏樹はこの日になにかしらを贈ってくれている。春真はそれを記念日、と言って笑ったものだった。意味など少しも知らないのに。
「なにがいいか、考えたが……今年はそれがいいかと。気に入らないか」
 返事もできず真人はぶんぶんと首を振る。子供じみた真人の仕種に夏樹は朗らかに笑い声を上げ、ほっとしたなど言って見せる。
「それにしても……」
 この作品をなぜ選んだ。自分が気に入っていたからか。それだけとは、思えなかったけれど。惑う真人に夏樹はそっぽを向く。
「それ、気に入ってくれてただろうが」
「それはそうだけど」
「いまの答えで納得しとけ」
 それでは疑えと言っているようなものだと真人は思う。あるいは、もっと突っ込んで尋ねてほしいのだろうか。自分から色々と語ることが苦手な人だから。ふ、と微笑んで真人は本を改めて抱えなおす。
「別に本は逃げんぞ」
「いいの、すごく大事だから。ねぇ、夏樹。僕は『紺碧の町』がとても好きだった。でも、あなたが選んでくれた理由、違うんでしょ。聞かせてよ」
 顔をそむけていたものを、夏樹は体ごと向こうを向くことに決めたらしい。完全に背中しか見えなくなってしまった。
「……紺碧、と言う色は人間はおろか、虫一匹草一本生えない土地でしか見ることのできない空の色なんだそうだ。だから、紺碧の空が見える土地に、町があるはずはない」
 突然になにを言い出したのか、と真人以外ならば不思議に思うだろう。真人はただ黙って聞いていただけだった。
「紺碧の町は、誰もいない、何も邪魔することのない町だ。――わかるか」
「どこかで、聞いたような気がするね」
「薄情なやつだ」
 小さく夏樹が吹き出す。昔々、この家にきて、出て行って、そして再び戻ったとき彼が言った言葉。誰もいない場所に行こう、二人きり誰にも邪魔されずに過ごそう。そんな内容の言葉。忘れるはずがなかった。
「まぁ、自作の解説をするのは野暮なもんだがな。――その話は、要するに、そうできればいいと言う、俺の夢だな」
「あ。夏樹の」
「だから、お前だけが読めばいい。書籍化しないってのをあっさり飲んだのも、それが理由のひとつではあるな」
「ひとつ、なの」
「俺はこれでも職業作家だからな」
 言いつつ夏樹は向こうを見たまま肩をすくめた。頬の辺りに手を当てているのは、もしかしたら照れ隠しにかいているのかもしれない、と真人は思う。
「正直、失敗したなと思っちゃいるんだ」
「え、なにが」
「わからなかったか、お前にも。その話は、あんまりにも生の俺が出すぎてる。俺、と言うより、俺の感情、と言うべきか。まぁ、お前以外の目にさらし続けたくはないな」
 真人には、まったくわからなかった。彼の言葉が、ではなく彼の指摘した部分が、だ。夏樹は何を指して自分の生々しい感情、と言ったのか。
 わからないなりに、真人にも納得できることではあった。自分も同じだ、と思う。まっすぐに夏樹を見て詠んだ歌は、外には出せない。出したくない、のではなく、歌人として、出せない。ただの感想ないし感情を詠むだけならば、自分は歌人とは名乗れないと思う。だからこそ、彼の言葉の意味は、わかった。
「あの日――。お前を見つけた。その瞬間から、俺の世界には俺とお前しかいない。たぶん、そういうことなんだ。まぁ、言葉にするとだいぶ違う気がするがな」
 いったい夏樹は自分がいまこの瞬間、なにを言ったのか理解しているのだろうか。言葉数の多い人ではない。若い男女のように好きだの愛しているだの言う人でもない。言われたら即座に真人は発熱を疑う。それなのに。なんと言うことを。
「その話……『紺碧の町』にいるのは、俺とお前だ。俺があの日に見つけたお前だ。そのつもりでもう一度読むと中々興味深いかもしれんぞ。自分で言うのもなんだがな。――おい真人、聞いてるのか」
 振り返った夏樹は驚きに目をみはる。そのまま真人の元まで飛んできた。本を抱いた真人。その真人を抱きかかえた夏樹。
「真人。どうした」
 腕の中、くぐもった声が聞こえる。泣き止もうとしているのか、それとも何か言おうとしているのか。
「なぁ、真人」
 なにを言いかけたのだろうか、自分は。夏樹は言葉を見失い、もう言うべきことはすべて言ってしまったのだと知る。だから。
 真人の嗚咽が止まるには、しばしの時間が必要だった。その間、夏樹は無言で真人の体を抱きしめ続けた。




モドル