墓の前にしゃがんだまま動かない人がいた。真人は立ち止まり、けれど夏樹は歩を進める。 「……あぁ、きたのか」 人影が振り返り、露貴になった。なんの屈託もなく微笑む。夏樹は黙って墓前に花を供え、駆け寄ってきた真人が手渡した線香を手向けた。 「やっぱり会ったな」 目を開いてから、ようやく夏樹はそう言った。この日この墓の前で、露貴に会うはずだと思っていた。墓に刻まれた名は、藤井家。ここには桜が眠っている。 不本意だろうと夏樹は思う。確かに露貴の父が外で作った娘なのだから、藤井の墓に入ることもあろう。だが桜は露貴の長兄の養女となった。様々な理由で、この墓に入ることを彼女が望んでいたか、夏樹には今もってわからないでいる。 「そうだな。来ると思ってたよ」 外出嫌いの夏樹が、毎年この日、墓前に手を合わせに来る。桜のために。この墓に入っている他の誰かのためではなく、桜だけのために。桜の命日にだけ、夏樹は来る。 「律儀なもんだ。何年経ってると思ってる」 「さてな」 「長いこと経ったなぁ、もう」 そして露貴は真人を振り返る。なにを言っていいかわからない真人のために、微笑んで見せる。 「覚えてるかい、真人君は」 「えぇ。はっきりと。残念なんて言葉ではとても、表せなくって。知り合って、ほんの一年ほどしか、桜さんとは」 たった一冊、『耳成山の梔子』と言う名の琥珀の最初の歌集を上梓して、桜は逝ってしまった。あまりにもあっけなく、冗談のように逝ってしまった。小さな娘と、露貴を残して。 どれほど心残りだったろうかと思う。心残りを覚えるほど時があったのかとも思う。 「……そうだな。でも、君はそうやって覚えててくれる。だから、桜は幸せだと思うよ」 嘘だ、と真人は思う。けれど言えはしなかった。そんな顔で露貴が言うから、何も言えなかった。 なぜこの人ばかりがこんな目に合うのだろうと真人は思わずにいられない。彼から夏樹を奪ってしまった真人ではあったけれど、それでも。露貴は夏樹を失い、桜まで亡くした。 「――段々」 ぽつり、と夏樹が墓に向き合ったまま呟いた。はっとして露貴が振り向く。夏樹の声音に彼はなにを聞いたのだろう。真人には、わからなかった。 「親しい人が、いなくなっていくな」 「そりゃ、まぁな。これが年ってやつか」 「俺は……後悔してるよ、露貴」 桜に夏樹はなにを言うのだろう。真人は黙って彼の背に立つ。若いときから頑健な体ではなかったけれど、いまは昔より肉の落ちたその背を守るように。 「真人」 「ん、なに」 「聞きたくないだろう。散歩に行っていていいぞ」 夏樹の言葉に露貴が吹き出す。ちらりとそちらを見て、嫌な顔でもしているのかと思いきや、案外と夏樹は真剣な顔をしていた。 「そんな言い方じゃ真人君が余計に気にするぞ」 「いいんです、露貴さん。慣れましたから」 言ってから、しまったと思う。露貴の前で殊更に夏樹との絆を見せ付けたくはないはずなのに。だが露貴は淡く微笑んで許してくれた。 「気にしないで、夏樹。僕なら、大丈夫だから」 背後から、彼の肩に手を置く。手の下に、肩の骨を感じては切なくなって離した。 「……あぁ」 それからまだ夏樹は桜の眠る墓を見つめていた。なにを思うのだろう、否、何を桜に語っているのだろう。かつては許婚であった彼女に向けて、彼はなにを言うのだろう。 「もっと色々桜さんと、話をするんだったと、今更思う」 ふう、と息を吐くよう夏樹は言った。まるですでに話し疲れてしまったかのごとく。そしてそれは事実なのだ、と真人は思う。もう夏樹は、桜と話し疲れるほど語り合ったのだと。 「本当に今更だな、お前」 「――昔は、お前にそんなこと、言えなかっただろうが」 なぜだ、と露貴は問わなかった。桜が亡くなったとき、露貴は葬儀に出るだけはした。が、出たのは葬儀だけ。出棺を見送ることすらしなかった。法事など論外。 他の親族がなにを言おうが、夏樹と真人は黙って露貴を見守った。彼にとって桜がどういう存在なのか知っている二人は、ただそこにいることで露貴の助けにならんとしていた。 認めたくなかったのだ、露貴は。桜があまりにもあっけなく自分を残して逝ってしまったことを、どうしても認めたくなかった。 愛していたかと問われれば、たぶんと答える。桜に愛されていたかと尋ねられれば、間違いなくと答える。 そんな自分なのに、桜に残されたと思えば、身をかきむしりたくなった。 本当は、息ができなくなった。桜に残されてこれならば、夏樹に先立たれればどれほどに。そう思った自分に。薄情で残酷な異母兄を桜は知っていたはずだ。知っていてなお、愛してくれた。なぜだと思う。こんな男のどこがいい。最期まで、わからなかった。 「あの頃、一緒に落ち込んでやれたらよかったんだろうがな」 「嫌なやつだな、落ち込むくらい、付き合ってくれたらよかった」 他の何にも付き合ってなどくれないのだから。そんな意味は特に持たせなかったはずなのに、夏樹は苦笑を返してきた。 「一緒に落ち込んだらどうなると思ってる。あの時のお前に付き合ってたら、最後は心中だぞ。悪いがお前と心中は勘弁してくれ。俺には――」 夏樹の眼差しが、少しばかり背後に流れた。そこにいる、真人に。わかっていることでも、言葉にすれば惨いだけだから。悟った露貴はぎこちなく、うなずく。 「お前が命日の墓参ができるようになって、どれほどだ。まだほんの数年ってところだろうが」 「言うなよ」 「あえて言ってるんだ、俺は」 そっと夏樹が墓石に手を伸ばす。桜その人に触れるように。真人はわずかに息を飲みかけ、慌ててとめる。 ちらりと思った。かつての許婚に彼は、そのように触れたことがあったのかと。ないはずだ、と思う。けれど。ゆっくりと息をして、真人は気持ちを整えていく。 間違っても、露貴に見られたくなかった。彼にだけは、見られたくなかった。見せてはいけない、とも思う。彼もまた、湧き起こる嫉妬を決して見せない人だから。 「どうした、夏樹」 墓石を撫でる夏樹の手を、露貴はとった。止めさせたのか、桜に触れさせたくないのか、わからなかった。 「桜さんが、好きだったよ」 「……おい、お前」 ぎょっとして露貴が体を強張らせる。見ないようにしつつ背後を気にした露貴を感じて真人はわざと微笑んだ。大丈夫、と。 「馬鹿だな、違うよ」 夏樹は二人の緊張に気づくのかどうか。他愛なく首を振って否定する。けれど真人は感じた。彼は気づいているのだと。おそらく、だからこそ、そんな言葉でも聞きたくないだろうから席をはずしていいと言ってくれたのだと。 「尊敬していた、と言うのとも違うな。俺は母親があれだからな。正直、女は苦手だ、いまだに。だけどな、露貴。もしもあのままだったら、桜さんとだけは、過ごせたような気がしている。本当に、素晴らしい女性だった」 「……それをよく真人君の前で言えるもんだ」 「だから席をはずせって言ったんだ、俺は」 言いつつ夏樹が振り返った。真人は何事もない顔をして、黙って微笑む。その肩にもう一度手を置いた、ぬくもりを伝えるように。 「真人より、腹が立つのはお前だろうが、露貴」 「……まぁな」 「でも、素敵な人だったよな、桜さん」 「お前にはやらん」 「知ってるよ」 真人の手を肩に感じたまま、夏樹は露貴に手を伸ばす。あぁ、これか。真人は自分の鈍さに溜息をつきたくなった。夏樹が見せたくなかったのは、聞かせたくなかったのはこれだと。露貴に触れる自分を見せたくなかったのだと。だからこそ真人はすべてを見る。嫉妬ではなく、ただ夏樹の背中を守りたくて。 「おい」 「なぁ、露貴」 彼の手をとったまま、夏樹は呟く。目は墓を、否、桜を見ていた。 「俺は色々と後悔しているよ」 「桜か」 「いや……桜さんも、だ」 墓前で、二人が手を取り合っていた。真人は不思議と妬心を覚えない自分に気づく。清々しいほど、長く深い情愛だけがそこにあるせいかもしれない。 「なぁ、露貴。俺は、血が繋がってるのは、お前だけだと思っていた」 「馬鹿な。冬樹君は」 「冬樹も、どこかで弟とは思っちゃいたが……どこかで……違ったんだな」 「でも」 「仲は、だからよかったんだ、きっと。こんな俺を冬樹が気遣ってくれたから、巧く行ってたんだ」 「それは冬樹君が聞いたら、怒るぞ」 「だろうな。それがいまはわかる。いまは、お前も冬樹も、冬樹の家族も、俺の家族だと、ようやく言えるようになった」 そんな言葉は聞きたくないだろうがな。夏樹の声にしない言葉が聞こえた気がして露貴は彼を見る。まっすぐと墓石を見ていたから、たぶんあれは彼の言外の言葉だったのだと確信がある。今更だけど、見ないふり知らないふりをし続けていてくれている夏樹に、胸の奥が軋みをあげた。 「だからな、露貴。俺は後悔してる。死なれる前に、ちゃんと父上と話がしたかったよ。何も言わないで逝くものだから、生きてる間中ずっと、俺は覇気のない女房にべた惚れの屑野郎だと思い続けた。そうじゃ、なかったのにな。父上にも、桜さんにも言っていないことがたくさんある。言いたかったことも、聞かせて欲しかったこともたくさんある。今更、それがわかるようになった」 口など挟めなかった。訥々と語る夏樹の手を露貴は黙って握り続けた。夏樹に、家族の情を教えたのは時間かもしれない。が、真人かもしれない。自分ではない、露貴は思う。 「だからな、露貴」 「……なんだよ」 「俺より先に、死ぬなよ。昔話のひとつもしたいじゃないか。段々、そういう相手は、いなくなるんだから」 まっすぐ前を向いた夏樹の耳に、馬鹿を言うなよ、と呟く露貴の声。肩に真人のぬくもり。 |