血相を変えて真人が外出から戻ったとき、はてなにがあったのだろう、と夏樹は首をひねった。さほど深刻なことでないことは見当がついたけれど、いつになく狼狽している。
「夏樹――」
 ひくひくと、口許が痙攣していた。あまりにも珍しくて、つい微笑みそうになる唇を夏樹は必死で引き締める。いま笑うのがまずいことは、理解していた。
「どうした」
「どうって……」
「とりあえず、茶を淹れてくれないか。お前がいないと喉が渇く」
「あ……うん」
 特に喉が乾いているわけではなかった。普段していることをさせれば、真人は落ち着く。いまのままでは会話にならないことを夏樹は知っていた。
「それで。どうしたんだ。顔色が……悪くはないが、おかしいぞ」
 青いかと思えば赤くなる。かと思えば蒼白に。確か真人は編集部に用があって出かけたはずだ。百人一首の原稿を届けに行く、と言っていた気がするのだが。
「どうって、それは、その」
 突如としてもじもじとしはじめた。帰ったら色々と言いたいことがあったはず、あるいは聞いてもらいたいことがある、と思っていたはず。長い付き合いだった。その程度のことは目を見ればわかる。
「言いたくないなら無理には聞かないが――」
 言って卑怯だな、と夏樹は内心で肩をすくめる。そのような言い方をすれば真人は必ず口を開く。それもまた、経験だった。
「あのね、聞いて欲しいんだけど。その、怒らないで聞いてよ。お願いだから、編集さんと喧嘩なんかしないでよ」
「まぁ。できるだけ」
「ちょっと、夏樹」
「とりあえず、話してみたらどうだ。それで怒ったら、なだめろ」
「そんな無茶な」
 言って大きく真人は笑った。ようやく肩の力が抜けたのだろう。強張っていた口許に笑みが浮かぶ。が、すぐにまた硬くなった。
「今日、変なことを言われたんだよ」
 思い起こすまでもない。つい今しがたのことだった。そんなことよりもなによりも、先ほどの衝撃は三日三晩が経とうとも薄れるとは思えない。夏樹と揃いの湯飲みを握り締め、真人は一度口を固く結んだ。
「――図太くなりましたねって、笑われた」
「おい、真人」
「ん、なに」
「なだめろ」
「ちょっと、夏樹。早いよッ」
 口調は怒っていた、が顔は笑っていた。笑わせることができたのならば、成功だ。かすかに息を吐けば、真人は気づいた。そして夏樹の心遣いに小さく微笑む。
「編集さんが言うにはね、篠原先生との噂をご存知でこう言うことを書くんですからねぇって」
「あぁ、なるほど」
 うっかり呟いてしまった途端、真人の目が険しくなった。何かを知っているなら今すぐ話して、と彼の目が言う。むしろ絶対に言わせる、と示す。
「夏樹」
 短く名だけを呼ぶとき、夏樹は真人の意志の強さを思う。ふだんはおっとりと物柔らかな男のくせに、一度こうと決めたら頑として引かない。夏樹はそんなところが嫌いではなかった。
「まず、篠原先生との噂ってのを聞かせてもらおうじゃないか」
 にやりと笑えば、真人がうつむく。夏樹の想像していたとおりの噂話なのだろう。真人は怒るな、といったが下手な口を利いた編集者には口は災いの元、と言う格言を身をもって知って欲しい。
「それは……。その、なんというか。事実なのを知ってるわけはないけど、当たってるって言うか」
「俺とお前がこうして暮らしてるって、そういうことか」
「同居なのは知ってるでしょ、どこででも言うから」
「流行言葉風に言えば同棲だがな」
 うっと、真人が言葉に詰まる。怒らせてしまったか、と一瞬は思った。単に照れているだけだった。
「――それが、なんだか、周知の事実みたいな噂になってるって」
「所詮、噂だろ」
「でも」
「ただの噂話、と言うか、他愛ない少女の夢みたいなものだからな。俺も放っておいたが……」
 言うや否や、真人が夏樹の元に詰め寄ってくる。膝と膝を交える、とはこういうことか、と納得しそうな距離だった。
「ちょっと、夏樹。待って、僕にわかるように説明して」
 じりじりと、目だけで圧し掛かられた気分だった。悪くはないが、強すぎる目に夏樹は苦笑する。すぐそこにある真人の肩に手をかければ、くたりと力が抜けた。
「その噂話なら、前から知ってる」
「……前って」
「まぁ、何年か前だな」
「何年も前ッ」
 耳のそばで悲鳴を上げられた。さすがに顔を顰めてしまう。すぐさま真人は気づいたと見え、申し訳なさそうに眼差しを和らげた。
「夏樹、知ってて僕に平気で百人一首を書かせていたの。言い訳だけど、僕はやっぱり文章が苦手で、申し訳ないけど、あなたの話題がとても楽。だから、なんだか習慣みたいになっちゃってて、でも」
「あのな、真人」
 つい、と膝立ちになって、夏樹は真人の横に移動した。そっと抱き寄せれば、真人は小さく震えていた。
 胸の奥を掴まれた。本当に、夏樹はそう思った。もうどれくらい前になるだろう。旅行記を書いているとき、真人は夏樹の不用意な一言に怯えた。真実ではなく、歪んだ事実を脚色して書いた篠原忍の文章に、二人の真実が暴かれるのではないか、そして引き裂かれることになるのではないか。そう、怯えた。
 いまもか。夏樹の胸に沸き起こってきたのは、感動だった。あのころから月日を重ね、年齢を増し。それでもいまなお真人はあのころの思いを持っているのか。若さゆえの純真ではなく、彼と言う人の根幹が、そうなのか。夏樹の手が、堅く真人を抱き寄せる。
「夏樹……」
「すまん。痛かったか」
 そうではない、と真人が首を振る。見上げてきた目は、あなたではないのだから。自分に肩の傷はないのだから。そう言っていた。夏樹は同じく眼差しを返す。ただの古傷、と。
「もう、何年前かな。愛読者からの手紙、と言うやつだな。ちらほら、そういうこと、が書かれてはいたよ」
「それは――」
「ただの夢だ」
 きっぱりと言う夏樹の目を真人は見つめる。もしも、ただなだめているだけならば許さないとばかりに。夏樹は黙って見つめ返した。一片の嘘であれ、見つけられるものならばしてみろと。真人はほっと息をつく。
「少女の夢、なんだろうな。俺は男だから、よくはわからん。行き過ぎた友情、とでも言うのかな。どうやらそういうものが好きなようだ」
「ましてあなたは少女好みの綺麗な男だしね」
「なにを今更。幾つになったと思ってる。手紙の主たちから見れば、俺は父親より上なんじゃないのか」
 意外なことを夏樹の口から聞いた。咄嗟に真人はなにが意外なのかすら、わからない。そして気づく。夏樹が自分を少女の父親になっている年だと言ったこと。それがどれほど驚くべきことなのか、彼に近しい人にしかわからない。家族の情と言うものを解さなかった彼が、いま。否、解さなかったわけではない。知りたくて、欲しくて、求めても与えられなくて、だからこそないことにしていた彼の思い。ゆっくりと、時間をかけて解けていった。
「だからな、彼女たちにしてみれば、俺もお前も現実の男ではないし、だからこそありえない夢を平気で語る。よく考えてみろ、真人」
「え……なにを」
「お前、見ず知らずの他人に、そんなことを書いて送れるか」
 悪戯っぽく言った夏樹の言葉に真人はあっと、声をあげた。正にそのとおり。事実、あるいは現実と思っていれば、とてもそんなことは失礼で書けないだろう。
 真人が気づいたのに夏樹はゆっくりとうなずいて見せる。本当は、誤解だった。礼を失する人間というものはどこにでもいるし、事実、読者からの手紙でもそういうことは稀にある。
 夏樹自身、いつ見られたのか、と思うほど詳細に描かれた自分たちの姿にぎょっとしたことも一度や二度ではなかった。
 けれど夏樹は知っていた。見られるはずがない。自分たちは、家の中でこそこうして過ごしているけれど、他人の目があるところでは決して不用意な言動を取りはしない。
 手紙に描かれているよう、人前で睦まじくしたことなどただの一度もありはしない。だからそれは彼女たちの夢なのだ、そう夏樹は心得ている。
 夢ならば、いつかは覚める。わざわざ壊すこともない。少女の夢は淡い色のついた砂糖菓子。そう言ったのは、少女のころの雪桜だった。小父様、わかっていないわ。そう言って笑った。
 あのころの少女と、いまの少女は違う考え方をするのだろうか。違う夢を見るのだろうか。夏樹はそうは思わない。儚い砂糖菓子ならば溶けるまで眺めておくほうがいい。
「ただの、夢なんだよ。真人。雪桜が少女の夢と言うものをどう言っていたか覚えているか」
「うん、覚えてるけど――」
「せっかく眺めてる砂糖菓子だ。取り上げて壊すのは無粋と言うもの。そうだろう」
「まぁ、それは……でも」
「不安か」
 しっかりと目を見ていえば、真人はこくりとうなずいた。少女の夢は砂糖菓子。ならばこの手にある夢はなんだろう、夏樹は思う。溶けも消えもしない夢。頼りがいのある頑固な男の形をした夏樹の夢。
「これもな、よく考えればわかることだが。なぁ、真人。例えば事実が明らかになったとして、なにか問題があるか」
「あるに決まってるじゃない」
「どこがだ。俺もお前もいい年をした大人だ。男二人、どこででも生きていけるぞ。醜聞沙汰が怖いか。そんなものはすぐに消える。噂話はすぐ飽きられるからな。それにな、引き裂くやつがどこにいるんだ」
「え……」
「冬樹も雪桜も、当然春真も。とくれば春樹も。他にも色々いるが、全員お前の味方だぞ。総出でお前を庇うに決まってる」
「……そっか」
 納得したわけではないだろう。夏樹が口にした言葉に、心を和ませたに過ぎない。とにかくいまは、それでよしとすることに夏樹は決めた。いずれ下手なことを言った編集者に嫌味のひとつも言おうと心に決めつつ。けれどそんなことは微塵も窺わせず、ゆったりと真人の体を抱いていた。




モドル