「厭な拾いものね……」
 海風に舞う髪を片手で押さえながら、セイラは地に堕ちた片翼の天使を彷彿とさせるMSを見上げた。
 その手の中、機体全てを使い包み込む様にして守られている赤い球体が見える。
「…………ホント、厭だわ……」
 ヘリの羽音が聞こえる。セイラは暗い空を仰いだ。サーチライトが彷徨っている。
 手を挙げ、自らの位置を示す。
「ここよ! 救護班、急いで!」


「アムロ、少し休んだらどう? 貴方、殆ど寝ていないでしょう?」
「…………いや……大丈夫です。セイラさんこそ」
「私は、いいのよ。やっと側に居られるのですもの」
「俺が見てますから。目が覚めたら、ちゃんと起こしますよ」
「……それは私の台詞なのだけど。……少しお薬の量を減らしたから今日明日にも目覚めるだろうって、お医者様は仰有るけど……こればかりはね」
「意識が戻った瞬間に、一発殴ってやらないと気が済まないんです」
「私もね。何発引っ叩いたって足りやしないわ」
 様々なコードに繋がれ目を閉ざしている男を見下ろし、セイラは苦い溜息を零す。
 生きていることが、奇跡。もうこのまま目覚めない可能性もある。その方が、この男にとっても都合が良い筈だった。
 だが自分も、アムロも、この男の目覚めを信じ、待っていた。

 セイラが見つけ救い出した時、アムロもそれなりの怪我を負っていた。だが、機体が無事であった分、脱出ポッド一つで地球に堕ちたシャアに比べればまだしも傷は軽いものだった。
 まだ松葉杖は手放せないものの、もうひと月程でそれもなくなると言われている。
 だがシャアは、未だ眠り続けていた。
 アムロも他に行く宛もなく、セイラが用意をしたこの医療施設に留まっている。自然、シャアの側に居ることにもなった。
 顔を見ていれば、実に不思議な感慨に包まれるものだ。ほんの僅か前まで殺し合っていた相手が、ひどく穏やかな顔で横たわっている。
 殺し合いなどするまでもなく、周りを取り巻く機械のどれかを止めただけでも今のシャアは簡単に命を落とす。
 あれ程求めた命が目の前に無防備に曝け出されている。生きるも死ぬも他人の手に掛かっている今のシャアの姿は、滑稽だった。
 今まで人の命を好きにしてきた罰だ。
「せめてコーヒーでも飲んで休んで頂戴。貴方が辛くては、意味がないから」
「ありがとうございます。……じゃあ……少しだけ。セイラさんも一緒にどうですか? 計機は医者や看護師が見てるだろうから」
「そうね…………ええ。じゃあ、ご一緒しようかしら」
 連れ立って病室を出る。一階にはサロンがあり、職員が自由に休めるようになっていた。そこへ向かう。

「このまま……眠り続けてくれたらって……思ってはいけないかしらね」
 ホットの缶コーヒーのぬくもりを掌で感じながら、セイラは深い吐息を洩らした。
 並んで座り、お互い顔は合わせない。どんな表情をしていればいいのか、二人ともに戸惑いがあった。
「どちらも思うのよ。眠り続けくれたら……目を覚ましてくれたら…………自分がどちらを本当に望んでいるのか分からないの」
「どちらかを望んでいるんじゃなくて……どちらも望んでいるんじゃないですか。俺も……似たようなものだ」
「矛盾してるわね」
「そう思います。シャアに関して俺は……そんな矛盾した感情をずっと抱えているんです。セイラさんだって」
 お互いに洩れる吐息を抑える術がない。
 セイラは足を前へ投げ出して軽い伸びをする。そして天井を仰いだ。
「そうね……昔はね、好きだったのよ兄のことがこれでも。兄は優しかったし、私をとても愛してくれた。母と早くに別れてしまったから、母の分まで私を……だけど、変わってしまった。復讐なんてものに駆り立てられて…………変わってしまった兄は、復讐が終わっても元には戻ってくれなかった。父の思いを歪んで受け止めて……自分で自分の道を狭めて…………数年をかけて、最悪の結果を招いてしまった……馬鹿な人ね、本当に」
「最悪じゃない。……アクシズは落ちなかった」
「貴方が止めてくれたから」
「みんな、です。ネオ・ジオンの人達も、結局アクシズを落とすことを望まなかった。だから落ちなかったんです。人の想いが集まって、愚行を止めた」
 缶に口をつける。
 アムロ一人の力など小さなものだ。アクシズが落ちるという結果を望む者より、止めたいと願う者の数が圧倒した。想いの力を増幅するものがそこにあった。
 だから、落ちなかった。
「兄だって……本当に落ちることを望んでいたとは思いたくないの。私が兄の中でそれ程の比重を持っていないなんて、信じたくないのね」
「……貴女が地上に残るなら仕方がない、そう……言っていました。貴女の選択を邪魔する権利は自分にないと」
「逃げようと思えば月にだってコロニーにだって行けた。でも……行けるわけがないでしょう? 兄が馬鹿なことをしでかして、私一人安穏としていることなんて出来ないわ。父の名の下に……兄が起こした愚行を身を以って見届ける他に、私にどう動けて?」
 高貴なる者の義務。それを存分に感じさせる気高さを以って、セイラはアムロを見た。気配に釣られ、アムロも漸くセイラを見る。
 責任感が強いのは、あんな兄を持ってしまったからということもあるだろうが、それ以上に彼女の生まれがそうさせているのだろう。世が世なら、アムロがこうして話をすることもなかった筈だ。
「苦労しますね」
「ええ。だから死んでしまえば楽だって思ってしまう。それなのに……まだ優しかった頃の兄に戻って欲しいって、私も馬鹿ね。あの人のこと、笑えないわ」
「セイラさんは優しいから。……シャアも、優しい。馬鹿だけど……優しい。根っこの部分は変わっていないと思います。多分」
「貴方がそう言ってくれると安心するわね」
 セイラの顔が僅かに和らいだのを見て、アムロもほっとする。
 セイラが表情を和らげる姿はあまり記憶にない。ずっと兄の為に苦しめられ、いつでも張り詰めた様な顔をして表情を崩すことは稀だった。
 シャアが今手元にあって、生きて、けれども目を覚まさずにいるからこそ漸くに得られたものなのだろう。
 かつての憧れ苛まれ続けるのを見ていられる程、アムロはサディスティックにもなれない。今の状況は、望ましいものに思えた。
 コーヒーにまた口をつける。缶のコーヒーでは大したものでもないが、鼻に抜ける香りが心地いい。

 しかし。

 突然、アムロの身体の内側を不愉快な波が襲った。
 どくり、と脈打つそれは、アムロに酷い悪寒を齎す。
 咄嗟にテーブルへ置こうとした缶が倒れ、僅かに残っていたコーヒーがテーブルに染みを作る。
 何かに触れられていた。
 何か……ではない。この感覚を知っている。嘗てにもあったことだ。傷つき苦しみながら、求めてくるこの感覚。
 意識が覚醒を始めているのが分かる。
 シャアの感覚なら分からぬ筈もないが、夢と現を行き来しながら、すぐさま求めるものがアムロだということに、アムロは嫌悪感を覚えずにいられない。
 今し方妹を慰めたばかりだというのに、その元凶である兄に求められたところでどうして応えてやれるだろう。
 長い眠りから覚めるなら、殴りつつも少しは話をしてやるつもりでいた。しかし、これでは気持ちが悪い。

「っ…………」
「どうかして? アムロ?」
「…………あいつ……」
 震えをどうにかしたくて身体を掻き抱く。
 あんな男を感じる力など、本当に要らない。
「触るなっ!」
 思わず叫ぶ。厭だ。シャアになど、触れられたくない。
 身の内から崩されていく様な感覚に、全身が震えていた。内側を暴かれていく。それは、シャアがかつてこの身体に齎した性感にも似ていた。
 その様にしか触れられないのだ。他の術を知らない男だ。気持ちが悪い。
「アムロ……アムロ」
 セイラがいるというのに、何という触れ方をしてくれるのか。
「畜生っ」
「アムロ!」
「シャアの目が覚める。……セイラさんは、少し、ここで待っていてください」
「どうして! 私だって、」
「…………ごめんなさい!」
「アムロ!」
 この身体の感覚を説明など出来る筈もない。待ち耐え続けた妹から、兄を奪うことなど出来ない。幾ら要らないと言ったところで、誰も信じはしないだろう。
 叫び、駆け出す。
 本当に厭な男だ。
 助けるのではなかった。死んでしまえばよかった、あんな…………あんな、酷い男。

 ドアの前まで辿りつき、しかしアムロはその前に立ち尽くした。
 意識が戻っているのが分かる。ドア一枚を隔てた先からプレッシャーを感じた。戦いの最中にまだいるのだろう。シャアにとっては、あのアクシズが落ちる寸前の出来事は全て、つい先程のことの筈だ。
 足が竦む。もう、アムロは戦っていない。
 もう戦いたくない。二度と。
 身を切る様な思いは一度でいい。意識の戻ったシャアと顔を合わせるのが辛い。まだ戦っている男と顔を合わせるのは辛い。
「……っ…………」
 前へ進まなければならない。決着をつけて。それは分かっている。
 震える手をドアの開閉ボタンへと伸ばす。
「……入るぞ」
 口にでも出さなければ、身体が動かない。声は掠れていた。
 指に力を掛けるとドアが開く。一層のプレッシャーに身体が圧される感覚がした。
 戦っているだけではない。戦いの最中にも感じていたのと同じ様に、そして、先程身体を撫でられたのと同じ様に、求められている。

「……馬鹿だ」
 ゆっくりと中へ踏み込む。留まっているのは厭だ。こんな男に引き摺られて刻の中に留まるのはもう厭だ。今まで付き合ってやったのだから、これよりはそんな義理もない筈だった。
 奥へ進むと、透明なビニルで覆われた中、いくつもの機械に取り囲まれて足の先しか見えないものが横たわっている。
「…………シャア」
 意識が向けられているのが分かる。
 足の先すら動かないが、確かにシャアはアムロに気付いていた。
 どう声をかけてよいものか分からない。ただ、恐る恐る顔の見えるところまで近付く。
 辛うじて顔が見えるほどに包帯を巻かれ、瞼を閉ざした男の姿があった。
「…………何で…………」
 地球に引き寄せられ、薄れ行く意識の中で赤い球体を機体で庇った覚えはある。
 自分は何故そんなことをしたのだろう。シャアが死んでしまえば、楽な話だった筈だ。生きて償わせることの方が、余程に罰を与えることになると無意識にも考えたものだろうか。
『アムロ……』
 NTは超能力者ではない。テレパシーが使えるわけではない。それでも、シャアの思考は手に取るように分かる。
『……アムロ』
 熱をそのままに、うわ言の様に繰り返されるのは、ただアムロの名前だった。
 ここへ来て、漸く戦っているままではないということに気付く。否、初めからシャアにはそのつもりがなかったのかもしれない。
 本音を曝け出したあの言い争いの時には、もう既に。
「…………シャア」
『アムロ』
「ああ……」
『アムロ』
「ここは、地球だ。貴方が寒冷化させようとした、地球の上にいる」
『アムロ』
「……時間はある。少し整理してくれ。今の貴方と話すことなんか、何もないから」
 アムロ一人、シャアが眠り続ける傍らで考え続けてきた。シャア一人を殺すこと、共に生き残ってしまったこと、セイラのこと、他にも、いろいろと。
 同じところまでシャアが追いついてこないことには、話し合いも出来ない。
『アムロ』
 ただその名前一つがあればいいと言わんばかりに、シャアから伝えられるのはその一言だけだ。プレッシャーも和らぐことはなく、むしろ側に寄れば寄るほど強く発せられる。シャアのプレッシャーごときで足が竦むことなどないが、感じるものは威圧感だけではない。
 シャアも、側にアムロがいることを感じている。感じ、触れようとしてくる。
 手足は動かないのだろう。しかし、それでもせめて気配だけでもという想いは感ぜられた。
 性感にも似た感覚がアムロを襲っていた。
 シャアの触れ方を知っている。どの様に触れ、舐め、奥底まで浚えて行くのかを知っている。
「……っ……この、馬鹿……っ……」
 これでは抱かれているのと同じだ。気分が悪くなる。
「俺に触れるな……っ……」
『アムロ』
 触れても指先は届きもしないくせに。求めているものまで、手を伸ばしもしないくせに。
「意識が戻ったなら安心なんだろう。医者、呼んでくる」
『アムロ』
「俺を呼ぶな。後は、医者とセイラさんの仕事だ」
『アムロ』
「貴方が落ち着いたら一度だけ……話の続きをしてやってもいい。ララァがお母さんなんて、ララァが気の毒すぎるし、クェスだって浮かばれない」
 あの土壇場でまだお為ごかしを言ったとは思えない。失ったものを美化するのに、母親などという存在を持ち出すことしか出来なかったのだろう。
 神格化された女。それがシャアには母親という存在でしか表せられなかったのだ。
 乳離れさえ出来ていない子供だ。そんな男が、人類の地球からの独立を目指したとは、どんな冗談だろう。
『アムロ』
「言葉を取り戻したら、一度向き合って話そう。俺はもう逃げない……だから、貴方も逃げるな。あのぎりぎりの状況で話しただけじゃ、お互いすっきりしないだろう?」
 シャアの瞼が震える。目が開くことを期待したが、それは果たされなかった。ただ長い睫が震え、やがて諦めたように力が抜かれる。
「……それまでは待っててやる。時間は、出来てしまったから」
 アムロを撫でてくるシャアの意識は、重く熱かった。押しかかられ、蹂躙され……恭順し、愛し、求め、抱き締めた身体を思い出す。
 僅かにでも通じ合う瞬間がなかったわけではない。もう一度あの時と同じ様になれるなら……まだ、僅かな期待を捨て去ることが出来なかった。
「……セイラさんが待ってる。呼んで来るから」
 そう告げるとシャアが微笑んだように見え、アムロは病室を飛び出した。

 病室の前でやきもきしていたセイラと入れ替わり、アムロは外へ向かった。松葉杖をつきながらも、出来る限りの速さで敷地の端まで行く。可能な限りシャアのいるところから離れたかった。
 時が動き始めてしまう。
 このまま眠り続けてくれればよかったのに。
 意識が確かでは、シャアはまた担ぎ出されてしまいかねない。それこそ、不死の英雄として。
 気分が悪い。
 迫り上がってくるものに堪えかねて、地面へ向けて嘔吐する。シャアに触れられた感覚の全てに気分が悪くなっていた。
 出来るだけ離れたつもりでいたが、感覚の話にこの程度の距離はあまり関わりがない。
「……くっ…………」
 逃げないと言った。話し合おうと言った。
 言葉を偽ったつもりはないが、まだ本当にその機会を持てるほど冷静にはなれない。

  表面ばかりを撫でてくる指先が心底厭わしい。触れたいなら触れればいいのだ。もっと、ずっと奥までいっそ掴み取ってくれればいい。心を握り潰すほどの強さで。
 届かぬところにいたつもりはない。それなのに触れなかったのはシャアの罪だ。
 アムロがシャアを受け入れなかったのではない。シャアが、アムロを手に入れる方法を間違えているのだ。それをアムロの所為にして恨みに思われても困る。
 気分の悪さは収まらず、また幾度か吐いた。
 今はセイラが側に居る。なのに何故アムロを求めるのか。戦いの最中に意識を失い、目覚めたばかりだと思えば、最後まで怒鳴り合っていたアムロから意識が離れないのも無理はないのだろうが、求められ方が違う。
 アムロはララァにはなれないし、ララァを引き渡してやることも出来ない。
 シャアがアムロの他に求めているものを、アムロには何一つ与えてやれはしない。だからせめて自分自身を与えてやることくらいは、してやってもよかった。
 シャアは欲張りが過ぎるのだ。何もかもを欲して、手に入れたくて、結局妹とアムロ以外の全てを失った。
「……っ……くぅ…………」
 饐えた臭いが立ち込めている。吐き気を誘発されそうで、また更に移動した。

 木立の中へ入り込み、木に縋る。額を幹に押し付けた。
 辺りに人気など全くないのに、ただシャアの気配だけが重く圧し掛かってくる。
「う…………ぅう…………」
 自分の中で最早心の決着はつけたつもりでいた。あれ程の大事を起こしてまで、アムロ一人に執着し続ける男。本当に潮時だろう。
 しかしアムロも男であるが故に、越えたくない一線があった。身体はとうの昔に乗り越えてしまっていても、自ら心まで明け渡してしまうことには抵抗がある。
 自分は、卑怯だ。
 シャアの望む様にしてやれたらどれ程楽だろう。そして今ならそうしてやることだとて出来る筈なのだ。しかし、話せもしない、動けもしないシャアを前にまだ、シャアから触れることを求めている。
 地面に膝を付いた。
 気が付けばもう陽は落ちかかっている。春とはいえ、陽が沈めば気温は下がる。それでも、動きたくない。
 陽は沈む。そして、また昇る。自分達もまた昇ることが叶うのだろうか。あの、太陽の様な男もまた。
「…………シャア…………」

 目を覚ましてくれた。生きていてくれた。

 違う。殺さなくてはならなかった筈だ。もう、二度と起たぬ様に。もう二度と、アムロを追うことがない様に。

 求めてはくれるが愛してはくれなかった。許してもくれなかった。そんな男が生きていて、アムロにとって何の役に立つだろう。
 それでも。

「……シャア……っ…………」
 何の為に溢れるのだろう。頬を熱い雫が伝い流れる。
 何に安堵しているのだろう。
 死んでしまえば良かった。シャアを止め、息の根を止めてしまう為に動いていた筈だ。
 もう既に吐き出せるものもなく、胃が痛む。

「アムロ!」
「……セイラ……さん?」
 シャアの側から離れない筈の女性の声が聞こえ、アムロは何処か虚ろなまま振り返る。
 駆け寄るセイラの姿があった。

「ごめんなさい、アムロ!」
 嘔吐は出来ないながら嗚咽を繰り返すアムロを思わず抱き締める。
 アムロに頼り過ぎだ。兄妹揃って、本当に申し訳のないことをしている。
 意識を取り戻したばかりの兄は、セイラにその意識を傾けようとはしなかった。
 セイラではなく、アムロだけを求めている。それは、微かながら感じる力を持たぬではないセイラに伝わってしまった。
 本当に酷い男だ。
「…………ごめんなさい、アムロ。もう……」
「……セイラさん…………っ、ぅ」
 未だシャアの意識はアムロを求め、触れてくる。胃が痛い。もう吐き出せるものは全て吐いてしまっていた。ただ、咽いた口から微かな胃液と唾液が滴る。
「我侭ばかりね、私達……ごめんなさい、アムロ……」
 アムロが憎い。それと同じほど、シャアがアムロという存在を見つけ出していたことが嬉しい。そして、セイラとて、アムロが嫌いではなかった。昔はただの子供だと思っていたが、今となってはセイラにとっての英雄の一人でもある。
 アムロは、セイラの中の英雄だった兄を凌いだのだ。それは、狂ってしまった兄をどうにかして欲しい、そのセイラの希望を叶えたものでもあった。
「……貴女が……悪いんじゃない……」
 嘔吐が過ぎてふらつく。胃酸にやられた歯が軋んでいた。
 アムロの顔を自分の胸へ押しつける。兄の代償に、そして、自分の希望の代償に、アムロに引き渡せるものなど殆どない。
「貴方はここを出て行って。……こんなになるまで我慢をさせて、本当に申し訳ないと思っているわ。貴方の望むところに、家を用意します。生活のことは、全て任せて頂戴。一生かけて……償うわ。貴方の人生を台無しにしてしまったのだもの……」
「……貴女の所為じゃない」
「いいえ。身内のことですもの」
「貴女が一番苦しんでる」
「違うわ。苦しんでいいのよ私は。だって……妹ですもの」
「だから……貴女に苦しんで欲しくないんです。貴女の所為じゃないのに……」
「私の所為でもあるのよ。いいえ……私の所為でもあると、思いたいの。兄に私が何の意味もない存在なんて、信じたくないのよ……」
「しかし、今度ばかりは……」
「事が大きければ大きいほど、関わりたいのよ私は……今度のことは特に、兄だけではなく、父の名前だって大きく関わってしまっているのだし」
「…………そういうことではないでしょう、セイラさん…………俺は…………これは、俺の責任なんだし、原因は全てシャアにある。貴方は……関係ない」
「酷いことを言うのね、アムロ。……それは、私は……貴方達の間になんて入れはしないけれど」
「俺達の……間…………」
 アムロは口を噤んだ。
 今回のことにセイラは関係がない。自分と、シャアと、それからララァとの問題だ。それを蚊帳の外にしてしまっていると詰られれば、返す言葉はない。
 セイラは悲しげに微笑んだ。
「…………戻りましょう。アムロ。夜が来てしまうわ」

 それでも自室に戻る気にはなれず、ロビーでセイラと別れるやシャアの病室へ足が向く。側にいたくはない。しかし、側に居なくては不安になる。
 いっそ何処までも遠くに離れるか、そうでないなら顔を見ていたい。目が開いて直ぐに、罵ってでもやれる様に。

 シャアは眠っていた。
 少しやつれた風情のある顔は、先の妹の泣き顔にも似て美しくも儚い。
 側の椅子に座り、ただその様子を眺める。
 許して、許せなくて、殺したくて、殺せなくて、その末に、今こうしてここにいてしまうことの不思議。
 今のシャアなら、ほんの僅か力を入れただけで簡単に死んでしまう。だからこそ、殺せない。殺してなんかやらない。
 一人で楽になど、してやるものか。
 一人でララァの下へなど、行かせてやるものか。

 松葉杖に縋って立ち上がり、眠る顔を見下ろす。
 アムロはそっと逞しい男の首に手を掛ける。
 自重を掛ければ窒息するだろう。死んでしまえばいい。こんな男。だが、ただ一人楽にしてやるのは、余計に厭だ。
 男の体温に比べ、ひどく自分の指先が冷たい。体温が移るのも不快で、手を離した。
 生きている証など知りたくない。身体から延びるコードを全て引っこ抜いてやりたい衝動に駆られ、アムロは咄嗟にベッドから離れた。
 本当に……殺してしまいかねない。
「……貴方なんか…………」
 こんな穏やかな顔など、こうなるまで見たこともなかった。
 それは当然か。両の手指で数え切れる程しか、生身では会っていない。だというのに、何故身体を重ねたことがあるのだろう。耳に注がれる吐息を、腕の感触を、身体の内側を暴く指を、知っているのだろう。
 ぞくり、と身体の内側に震えが走り、アムロは自分の身体を掻き抱いた。
 気持ちが悪い。
 男の自分が男に抱かれた記憶など、思い出したくもない。シャアだけが特別だなどとも思えなかった。犯した事実は同じだ。研究所の人間も、軍の人間も、シャアも。
「貴方だって、一緒だ……」
 口に出す。シャアが特別だなどと、ある筈がない。
「……一緒」
 少なくとも、シャアは綺麗だ。
 少なくとも、シャアは優しい。
 少なくとも、シャアはアムロの心を傷つけない。
「…………っ……」
 耳を塞ぎ首を振る。
 厭だ。シャアを受け入れることは出来ない。受け入れてしまったら最後、自分を保つことなど出来ないだろう。
 新鮮な空気が欲しくて窓を開けた。外は暗いしもう随分冷え込んでいたが、それでも空気が全て停滞してしまっているかの様なこの部屋よりはマシだ。
 ここは建物の五階で、地面は遠い。頭から落ちれば死んでしまえるだろう。シャアを殺すよりその方が幾らか楽な様に思える。
 アムロが死んだら、シャアはどうするだろう。
 シャアの為に死んだら。シャアの所為で死んだら。
 窓枠を掴む手に力が入る。
 病室に二人きりでいると、こんな馬鹿なことばかり考える。
 生や死を考えない様な関係ではいられない自分達が、ひどく滑稽だった。

「……あ……ろ……」
 ふと、微かな音が聞こえる。
「……? ああ……起きたのか」
「……ん……」
 どれだけ小さな、声にもならない様な音であっても、シャアが発するなら分かる。
 アムロは窓から僅かに離れ、シャアの足元へ立つ。起き上がることの出来ないシャアには、アムロを視界に入れることが出来ない。
 アムロを見ると、シャアはひどく嬉しそうな顔をする。それが耐えられなかった。殺しあおうとしたのだ。地球まで巻き込んで。つけたつもりの感情の整理は、その顔を見るだけで簡単に揺らいでしまう。
 指が震え、アムロへ伸ばそうとしているのが分かるが動かない。アムロも、近寄ってはやらなかった。
「ぁ…………」
「ここにいる。それで十分だろ」
 声にはならなくてもシャアの言葉の全ては伝わってしまっている。煩わしい。捨て去れるものなら今すぐNTの力の全てを失くしてしまいたい。シャアを感じ、シャアを分かる力など、要らない。
 側にいて欲しい。触れたい。そんな、子供染みた願いが細波の様に繰り返し寄せてくる。
「馬鹿だ、貴方は」
 そんな想いを伝えられたら逃げるしかないではないか。受け入れることは出来ないし、拒んでも諦めないのなら。
「そんな身体で俺に触れて、どうするって言うんだ?」
 五体満足で触れたところで、アムロを完全に満たすことなど出来なかったくせに。
「貴方はもう少し、自分が何にも出来ないんだってこと、知った方がいい。今なんて、命さえ自分の自由にならないくせに」
 何も出来ない小さな人間だということを知るがいい。それを認めたなら、触れてだってやろう。側にもいてやろう。
 シャア一人の力で変えられる程、世界は狭くない。
 否。……本当はシャアも知っている。それでも、知らない振りをして道化を続けた。その罪を、せめて償ってからでなくては、認めてやるわけにはいかない。
「貴方は誰にも求められていない。誰にも期待されていない。思い上がるなよ。貴方の存在一つで、何が変わるものか」
 二度と起たなければいい。この男が動くと碌なことがない。また止めなくてはならないのは、気が重かった。
 誰も求めていないから、誰も期待なんてしていないから、無理をしてまで起つ必要はない。もう一生分動いた筈だ。休めばいい。穏やかに過ごすだけなのなら、少し側にいてやるくらいのことは出来る気がした。
 ネオ・ジオンにも連邦にも、自分達が生きていることは伝えていない。セイラがきっと、ブライト辺りへは連絡を入れているのかもしれないが、そこから先へは洩れていない事だろう。そうでなければ、自分はともかくも、いくらセイラが守ったところでシャアの周りは直ぐにきな臭くなる。
 他に祭り上げるものがないのなら、いっそ諦めればいいのだ。こんな卑小な男しか寄る辺のない彼らには微かな同情を禁じえない。
「貴方は誰からも愛されていない。貴方を受け入れるのなんて、妹だけだ」
 だからこれ以上彼女を傷つけるな。妹から愛されていれば十分の筈だ。アムロには、そんなものさえない。
「ずっと眠ってろよ。それが一番平和なんだから」
 ベッドの足元の方へ椅子を寄せ、軽く腰掛ける。枠に凭れ、腕と頤を乗せた。
 触れてなどやらない。触れたいなら、自ら来るがいい。動けないことを知っていて、そう思う。
 自分はこんなにも意地が悪かっただろうか。だが、シャアを見ているとそんな風にしか考えられなかった。

『アムロ』
 ひどく優しい声が呼ぶ。
「っ…………」
 実際耳に届いているものではない。シャアはまだアムロの名を呼ぶことさえ出来ない。
 だが、感じる。
 恐る恐る顔を見れば、柔らかな微笑を浮かべる様に口角が上げられている気がした。
 殺してくれるならそれでもいい。そう、言われている気がした。
「やめろ……厭だ……シャア…………っ……」
 耳を塞ぐ。しかし、直接発せられている音ではない。それでは防ぎようもない。

『何故君は私を殺さない?』
『愛している』
『君も、私を愛してくれているのだろう?』
『私の腕の中にいてくれ』
『君と、私と、そしてララァとで生きていくしかないのだ、もう』
『愛している』
『殺せるものなら殺してくれ』
『それこそが、私達の愛の証ともなる』
『愛している』
『アムロ』
『アムロ』

『アムロ』

 バチッと、天井の蛍光灯が派手な音を立て、アムロは我に返った。
 ジィジィと続く蛍光灯と、シャアに繋がる計器が規則正しい電子音を立てている他、何一つ音はない。
「……くそっ」
 夜の冷気に足元から冷えた気がして身体を抱き数度強く震えて寒気を払い、ゆっくりと立ち上がって窓を閉めにかかる。
 幻聴だ。
 NTはエスパーではない。今のシャアの声が、実際に聞こえる筈はない。現に、顔を覗き込むと再び寝入っている様だった。
 頭を振り、まだ耳に残っている気がする声を払う。
 何故そんな声が聞こえた気がしたのか分からない。自分の妄想だとも思えないが、かといって、NTの交歓ともまた違うものだ。
 そもそもシャアにそれ程の力はない。死の淵を覗いたことで覚醒を促されていたとしても、真の交歓を知っているアムロからすれば違うとしか言いようがない。
 シャアの願い。シャアの望み。
 叶えてやれるのは限られた人間だ。果たしてそれは、アムロ一人が負うべきものだろうか。
 だが、シャアはそれをアムロにだけ求めている。
 息苦しい。
 ああ、本当に、息の根を止めてやれたら。

「アムロ、やっぱりここにいたのね」
 ドアが開く。廊下の空気は入ってこなかった。否。部屋の空気は動いた気もしない。
 アムロは振り向きもせず、シャアの顔を見ている。
「散々怒鳴りつけてやりたいのは分かるけど」
 華奢な指が肩に触れる。
 ロビーで別れたものの、ここが気になるのは同じ事だ。医者に任せておけばいいと分かっていても、セイラとて来ざるを得ない。
「今週中には家を用意させるわ。まだ貴方も身体に不安があって心配だから、近所にはなるだろうけれど……同じ建物よりは幾らかいいでしょう?」
「……………………お願いします」
 離れて過ごすことが出来れば、もう少し気が晴れるだろうか。
 溜息さえ出て来ず、強く眉根を寄せて俯く。
「……そんな顔、しないで」
 女の指が頬に触れる。微かにいい香りがした。
 振り返りもしないままに寄り掛かり、顔を摺り寄せる。
 柔らかい。
 甘えるのに似た仕草を見せるアムロに、セイラは横たわる兄を睨んだ。
 アムロは女に分かりやすく甘える男ではない。少年の日の甘さを既に払拭してしまっている。それが今見せる弱さ。そうまで追い詰めているのはシャアだ。
 追い詰めるのなら自分一人にしてくれればいい。兄の全てを自分のものに出来るのなら構わないのに。
 セイラの指が、殊更に優しくアムロの癖毛を梳いた。
「全部、兄の所為ね」
「……セイラさんこそ、そんな顔しないで下さい。こんな酷い男に振り回されるなんて馬鹿げてる」
「それは貴方もよ」
「僕は男です。だから、まだ立っていられる」
「強がりね、それは」
 セイラの顔が近づく。
「悔しいでしょう、兄さん。アムロに触れることも出来ないで」
「セイラさん……っ……」
 唇が押し付けられる。アムロは慌ててセイラを引き離した。吐いた後口を漱いでいない。
「ダメです。さっき吐いたばかりだ」
「いいのよそんなこと」
「……ぅ……」
 もう一度深く口付けられる。アムロは目眩を覚えた。
 セイラは、慎み深く高潔な淑女だった筈だ。高嶺の花だった筈だ。
 思うに任せ、アムロはセイラを受け入れた。セイラの求めを拒める筈もない。理由がなかった。
 シャアの意識が再び浮上してきているのを感じて、余計に逃げられない。
 見せつけたい気もした。男の相手は女だ。そして、お互いが男だということを目前に突き付けてやりたい。

 唾液の糸が二人を繋ぐまで長い口付けを交わす。離れて、セイラは浅い溜息を吐いた。
「……自棄ですか? 貴女らしくない」
「あら。私にだって慰められる権利はあってよ」
「貴女が一番、これから幸せにならなくてはいけない人だ。だから」
「……貴方は今でも私をお姫様みたいに扱ってくれるのね」
「憧れてました。みんな」
「……ありがとう。でも、私は偶像ではないの」
「……俺で、いいんですか?」
 横目でシャアの様子を伺う。余り複雑な感情は分からない。ただ、嫉妬とも悦びとも受け取れる不思議な感覚がしていた。
「私だって処女ではないわ。慰められたいって、そんなにおかしなことかしら」
「貴女らしくない。……シャアに当てつける様なことを言って」
「厭な人ね。……素直に慰めてくれたらいいのに」
「俺のことが憎いんでしょう?」
「…………半分はね。でも、もう半分は好きでいるわ。勘違いではなくてよ。私は……兄と似ているから」
「それで当てつけ、ですか?」
「…………ほんと、厭な人ね」
 濡れた唇を赤い舌で舐め取り、漸くセイラはアムロから離れた。
 ちらりとシャアを見る。眉が顰められていた。アムロに口付けたことを妬いているのか、それとも妹のはしたなさを窘めたいのか分からない。
「程良いところで貴方も眠って頂戴ね。こんな人に付き合ってあげることはないわ。もうじき消灯時間なのだし」
「勿論。……セイラさんが呼んでくれたら、貴女の部屋にだって行くんだけど」
「考えておくわ。それは、この人がもう少ししっかり起きている時の方がいいわね」
 アムロの頬に軽く口付けてセイラは冷たい微笑をその兄へ向ける。
 そんな表情をさせる責任の大半はシャアにあるだろうが、一端は自分にもある。
 アムロは申し訳なさそうに首を軽く竦め、立ち去るセイラを視線で見送った。

 この日、アムロはシャアの病室から動くことも出来ず、眠れぬ夜を過ごした。


作  蒼下 綸

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