シャアの回復は、思いの外早かった。
 もともと完璧なまでに鍛え上げられた肉体に、セイラが用意した最高水準の医療スタッフだ。傷の治りも早く、リハビリを始められるまでになるのに二ヶ月とはかからなかった。

 だが、しかし。

「…………アルテイシア…………何故、君が」
 シャアは寝起きの目をもう一度ゆっくり閉じ、また開いてセイラを凝視する。
 状況を理解出来ていない様子で緩く頭を振る。
 νガンダムの手の中で意識を失って……何故自分がここで、生きているのか。
 しかし、部屋の様子は記憶の片隅にあった。鮮明な、アムロの姿と共に。アムロと共に生き残った。その事は、理解しているしはっきりと覚えてもいる。
「ああ…………いや、先日アムロが言っていたな。お前が、私達を助けてくれたのだと…………」
「……ええ。おはようございます、兄さん」
 毎朝、目が覚めないのではないかと気が気ではない。それと同じほど、目覚めなければいいとも願う。とても朝に相応しい表情でおはようを言えている自信はなかった。だが、シャアは妹に微笑む。
「おはよう、アルテイシア。またお前に会えて嬉しい」
「……アムロでなくて、ごめんなさいね」
「何を言う。血は何よりも濃いものだよ」
「……朝ご飯になさる?」
「ああ。……食べさせておくれ」

「これは……何だったかな」
 まだ確かには動けない。匙で掬った粥を口元に運んで貰いながら、視線を室内へ彷徨わせる。
「昨日、お見舞いで持ってきてくれたのよ」
「……そうか……」
 枕元に生けられた花を見てシャアは小さく首を傾げた。誰か来ただろうか。記憶にない。
「誰が来たのだったかな」
「リィナよ。私がお世話をしている子」
「リィナ……ジュドー・アーシタの妹だったな。お前は会ったことがあるのだったか? 似ていたかい?」
「そうね。とてもよく似ていると思うわ」
「目は緑?」
「ええ」
 セイラは口を噤み、兄から目を反らせる。
 昨日会ったでしょう、その一言を言えない。
 シャアの見舞いになど、他の誰が来るだろうか。アムロはシャアが普通に会話を出来るほど回復するのと入れ替わりに、殆ど足を運ばなくなってしまった。

 意識が完全に回復をし、普通に話せるようになった代わりにシャアには重篤な症状が見つかった。
 記憶が長く続かないのだ。二時間ほど経てば、今の会話の内容も忘れてしまう。
 頭部が負った損傷は、見た目や傷の深さ以上に深刻なものだったらしい。ただ、傷を負う以前の記憶は、はっきりと残されていた。判断力も、思考能力も変わりはない。ただ、新たな記憶だけが片端から失われていった。
 手足に残る麻痺はリハビリ次第で今少し自由を取り戻すことが出来るだろうとは言われていたが、脳の機能回復については未だ解明されていないことも多い。

「ジュドー君はいい子だった。まだ帰ってこないな。約束を違えた事を謝りたいのだが」
「もうじきに戻るでしょう。殴られる覚悟はよくて?」
「殴ってくれるかな」
「どうかしら。殺されても文句は言えないでしょう? 誰にだって」
「そうだな。……仕方のないことだ」
 物騒な話だというのに、シャアは嬉しげに柔らかな笑みを浮かべた。
 馬鹿な兄を持つと苦労する。それをしみじみ実感して、セイラは深い溜息を吐いた。
 こんな表情を見せられたら、殺すに殺せなくなってしまう。
 リィナが居るからか、ジュドーの名前は度々浮かぶ。いい子なのは、シャアの様子からも、リィナの話からも、一度だけ会った自分の感覚でも、分かる。
「また来るそうよ、リィナは」
 シャアではなく、セイラの様子を伺いに来るのだ。学校が終わると、毎日の様に。兄に悩まされるセイラの気持ちは痛い程分かると言っていた。セイラから少しの時間シャアの面倒を請け負うのが日課になりつつあった。
「似ているなら、愛らしい子なのだろうな」
「そうね。でも駄目よ、兄さん」
「何がだね?」
 何を駄目だと言われたのか分からず、シャアは首を傾げた。自覚がないのは困りものだ。セイラは溜息を吐く。
「兄さんが、若くて可愛い子が好きなのは知っていることだけど」
「信用がないな……どのみち、まだ動けはせんよ」
「そうかしら。もう一人で起きあがれるでしょう?」
「その子はNTか?」
「さあ、どうかしら」
 本当に、殺してしまえたら楽だろう。こんな阿呆。

「アムロはまだ来てくれないのだろうか」
「もう。大人しく食べて下さらない? アムロがどうして来るだなんて思えるの」
「だが、来てくれていただろう?」
 話が過ぎて少し口の端に零れる。布巾でそれを拭ってやりながら、セイラは眉を顰めた。
 ……これも問題の一つだ。アムロだけは特別らしい。アムロに関する記憶の残存率だけは、やけに高い。だからこそアムロは余計に嫌がってここへ来ないのだが、シャアは待ち侘びていた。
「もう朝食はいい。リハビリへ行こうか」
「食べ終わった後で行きましょうね。余り無理はしないようにって、お医者様が」
「大丈夫だ。もう少し動ける様になれば、私からアムロを迎えに行けるだろう?」
「アムロにも都合があってよ」
「そんなもの」
「だから嫌われるのだということをお忘れなくね」
「アムロに会いに行く為にリハビリをすることの他、すべきことが思い浮かばないのだよ」
「アムロは兄さんの暇潰しの道具ではないのよ。ただでさえ迷惑を掛けているのだから、少しは我慢なさったら?」
 本当に、アムロに頼り過ぎだ。三月のたった一週間やその前の数年で、一生分は付き合わせただろう。それでもまだ相手をして貰えると思っているなどと、どうかしている。
「兄さんに付き合う義理なんて、アムロにはないでしょう?」
「だが、アムロは来てくれていた」
 その一事に縋っている。セイラは思わず、手近なところにあったフルーツナイフを手に取りかけた。アムロの為にも、今息の根を止めてしまうのが一番の様にも思う。
「私を心配してくれているのよ。兄さんの事じゃないわ」
「意地が悪いな、アルテイシア」
「優しくできる方がどうかしているわ。…………もう食事が要らないのなら食べなくて良いわ。洗濯物を取りに行ってくるわね。直ぐに戻りますから、大人しくしていて頂戴」
 逃げ出したくてそう言う。しかし、タイミング悪くドアがノックされた。

「おはようございます! ご加減、どうですか?」
 険悪な空気を塗り替える様に、若く元気の良い声が響く。茶色い髪に大きな緑の瞳をした少女が顔を覗かせた。
「いらっしゃい。いつも悪いわね」
「いいえ。あ、これ、昨日の分、出来ていたから持ってきましたよ。洗濯物」
「そう。助かるわ」
 口実を失った。しかし、リィナが来たなら少し離れることも出来る。激しくは動けないのだから、リィナにもそう危険はないだろう。
「エドワウさん、おはようございます」
「ああ、おはよう。君がリィナだな。今、君の話をしていたのだよ」
「やだ。何を話してたんですか?」
「君がとても可愛いということをね。なあ、アルテイシア」
「え、ええ……リィナ、少しだけ、お願いね。余り近付いては駄目よ。何をするか分からないんだから」
「大丈夫ですよ。ね、エドワウさん」
「アルテイシア……少しは私を信じて欲しいな。お茶でも飲んでゆっくりしておいで」
 綺麗な顔がにっこりと微笑む。
 何度同じ会話を繰り返しているだろう。リィナと視線が合う。促す様に微笑むリィナに強張った表情で頷き、セイラは足早に部屋を出た。

 側に生きているなら、どんな世話でも堪えられると思っていた。事実、身体に関することは、重労働ではあっても思った程の苦痛ではない。
 そんなことより、この何一つ変化することの出来ない会話がセイラを追い詰めていた。
「…………っ…………」
 涙が溢れそうになる。

 いっそ、狂ってしまえばよかった。
 いっそ、全てを忘れてしまえばよかった。
 苦しむ記憶ばかり残されて、今の穏やかな暮らしの記憶ばかりが続かないのは、本当に忍びないことだ。
 缶のコーヒーを買いに階下へ降りていく。一階下へ。同じ階にいるのは耐え難いが、離れすぎるのもまた、戻るのが厭になる。

「リィナ、君のお兄さんはまだ戻らないのかな」
「連絡はありません。でも、便りがないのは元気な証拠だって言いますから」
「いい子だった」
「手のかかる兄ですよ。もう、ちゃんと学校にも行かなかったんだから」
「学校で学べることなど限られている。お兄さんを責めないで欲しいな。彼は、本当に君のことを思っていた」
「……ええ」
 繰り返される。
 この人が一体誰なのか、リィナには正確に知らされてはいなかったが、セイラとよく似た顔立ちやセイラの呼びかけ方から、セイラの兄だということは分かっている。
 とても綺麗で優しそうな人だ。セイラはひどく冷たいことを言っているが、そんなに悪い人にも思えない。
 酷い怪我をしたとかで毎日殆ど同じ事しか言わないが、そう言う障碍なのだと思えば気にはならなかった。セイラと共に過ごし、福祉に興味を持ち始めている身には、身近なものでもある。
「エドワウさん、セイラさんに何したんですか? エドワウさんには、ずっと怒ってて、呆れてるでしょう?」
「何かしたかな…………いや、そうだな。アルテイシアに対しては、何もしなかった。だから怒っているのだろうな」
「そっちですか。……そりゃあ、二人きりの兄妹なら、放っておかれるのが一番厭ですもんね。うちのお兄ちゃんも、ホント、たまにしか連絡寄越さないんだもの。私も怒りたくなっちゃう」
 ぷうと頬を膨らませる様は歳相応の少女らしく可愛らしい。
「リィナは、歳は幾つだったかな」
「十五ですよ」
「君のお兄さんに私が会った時、彼もそれくらいの歳だったな。目が本当によく似ている。美しいな」
 褒められて、健康的な色の頬に朱が走る。シャアにそう言われて悪い気のする女はいないだろう。リィナも、どれ程年若くとも既に十分に女の部分を持ち合わせている。
「やだもう、エドワウさんに美しいとか言われたら、ドキドキしちゃうじゃないですか。でも、それは置いておいて、確かに、小さい頃から兄とはよく似てるって言われてましたね。目の色も髪の色も同じだし、目が大きいところが似てるって。……エドワウさんと、セイラさんも、とてもよく似てますよね。凄く綺麗。王様と女王様って感じで」
 これ程美しい人は、エドワウとセイラ以外に見た事がない。外見の美しさは勿論、雰囲気が他を圧倒している。
「私達は、母親に似ているのだよ」
「そうなんですか! いいですよね、お母さんに似てるって」
 リィナには母親の記憶など殆どない。物心つく前に出稼ぎへ出たきり、その後のことは分からなかった。兄はある程度把握していたのかもしれないが、たった四歳しか違わない。得ていた情報はそれ程変わらないだろうとも思う。
「君達がお母様に似ていたとしたら、さぞ可愛らしいお母様だったのだろうな。そして、優れた方でいらしたに違いない。子供が二人とも、素晴らしいよい子に育っているのだからな」
「ありがとうございます」
「君は本当にいい子だ。これからも、アルテイシアを助けてやってくれ。兄を持つもの同士、分かることもあるだろうから」
「セイラさんには助けられっぱなしで……だから、お手伝いできることがあるなら、してあげたいです。ずっとお兄ちゃん一人しかいなかったから、あんな綺麗で素敵なお姉さんが出来たのは凄く嬉しくて」
 明るく快活で、心の温かい兄妹だ。シャアは目を細めて微笑む。
 こんな子が側にいてくれたら、楽しいものかも知れない。セイラの危惧はともかくも、そう思わなくはない。
 良い家族が持てれば、安定出来るものなのだろう。恐らく。

 しかし、シャアの安定した気持ちもそう長く続くものではなかった。
「あら、やだ。こんな時間! ごめんなさい、セイラさんが戻って来るまでいられなくて。あたし、学校に行かなくちゃ」
 時計を見て、リィナは慌ただしく身支度を調えた。
 持ってきていた洗濯物を棚に仕舞い、シャアの側から離れる。
「セイラさん、下にいると思いますから声掛けて行きますね。何かあったら、看護婦さんとか呼んで下さいね」
「分かっているよ、リィナ。ありがとう」
「じゃあ、また、学校終わったら来ますね!」
「ああ、待っているよ」
 微笑んだまま見送るが、少し自棄に似た気持ちにもなる。
 自分は、今の会話を覚えていることも出来ないのだろう。症状についてはある程度の理解がある。アムロも簡単に説明してくれたし、それは覚えているのだ。
 滑らかで艶のある、アムロの声音と共に。

「リィナ、いってらっしゃい」
 階段を駆け下りていくリィナに、セイラは声を掛ける。
 リィナは足を止めることなく、顔だけを向けた。
「はい! 行ってきまーす! きゃっ、あ、」
 とす、と人にぶつかる。相手はリィナより幾分大きく、簡単に抱き止められていた。見上げれば、この数ヶ月ですっかり見慣れた顔がある。
「おはよう、リィナ。元気なのはいいけど、気をつけなきゃ駄目だよ」
「おはようございます、アムロさん! 待ってましたよ、エドワウさん」
「そう…………そら、早く行かないと遅刻するぞ」
 腕の中から離し、軽く背を押してやる。あまりその話はしたくない。
「はぁい! じゃあ!」
 革の鞄を抱え、元気よく走り去っていく姿に、アムロは目を細めた。

 階段を上ってきたアムロを、セイラは出迎えた。朝らしくない、疲れた笑みを浮かべる。
「……来て……くれたのね」
「貴女が、苦しんでいるから」
「悪いとは思っているわ。あんな兄が、迷惑ばかり掛けて」
「あいつのことなんてどうでもいい。ただ、貴女が苦しむのが厭なんです」
「……あの人をお願いできて? 私、もう少しだけここにいたいの」
「ええ。分かります。セイラさんがその気になるまで、俺が、いますから」
 軽い抱擁。シャアにはない柔らかな身体と温かみが心地良い。
 抱くなら……抱かれるなら、女に限る。シャアに求められるものなど何一つないのだから。
 ただ、セイラが少しでも楽になれればいい。ここに来るのは、それだけの意味しかない筈だ。
「……落ち着いたら、私も行くから」
「はい」
 半分は自分の責任なのだろう。シャアに引導を渡してやれていたら、少なくとも今、ここまでセイラは苦しまなかった。
 そう思えば、気持の悪い男の側に僅かばかりいてやることくらい、してやらないわけにも行かない。
 柔らかな身体を手放す。
「じゃあ、また後で」

「ああ、アムロ……やっときてくれた……待ちかねていた」
 瞳を潤ませて来訪を歓迎され、アムロはそのまま踵を返して立ち去りたくなった。
 付き合ってやる義理などない。しかし、離れていても感じるほど、セイラは疲弊していた。
 セイラの為には、全く来ないというわけにもいかない。
「セイラさんの様子を見に来たんだよ。誰が貴方のことなんか」
「だが、君の顔を見られた。今日の私は幸福だ」
 綺麗な顔が本当に心から嬉しそうに微笑む。いたたまれず、アムロはシャアに背を向けた。
「もう少し動けるようになったら、必ず君を迎えに行く。待っていてくれ」
「いらないよ。貴方なんか。俺には俺の生活があるんだ。迎えに来られたって、行けるわけがないだろう」
「では私が君の側で暮らそう。必ず行く」
「要らないったら。何度言わせるんだ。貴方なんか要らない。貴方を必要としてるのは、セイラさんだけだ」
 だから俺達の為にもうこれ以上他人を悲しませるな。
「アムロ……」
 遠くに、近くに、目の前にいる筈のアムロを捉えきれずにシャアは困惑する。目の前にいるアムロは、手を伸ばせば届きそうなほどに近い。しかし、身体の内側で感じるアムロの存在がひどく遠い。
 触れたい。触れて、確かなものなのだと感じたかった。
 まださほどには動けぬものを、無理にアムロへと手を伸ばす。緩慢にしか動くことは出来ない。アムロは意図を知っても近付こうとはしなかった。
「……アムロ……っ!」
 ギシリ、とベッドが軋んだ。伸ばした手が宙を切る。
 無理に位置を変えた身体は、ベッドの上から簡単に離れていく。シャアは痛みに備えてぎゅっと目を閉じた。

「っ!」
 どちらが息を呑んだのか分からない。
 覚悟した衝撃と痛みは訪れなかった。恐る恐る目を開けると、赤茶色の髪が見える。
「……アムロ……?」
「馬鹿か貴方は。そんな身体で」
「ああ…………」
 アムロは本当に、こういったことには聡い。抱き止められ、嬉しげにシャアは顔を綻ばせた。
 思うようには腕が動かずもどかしいが、アムロが触れてくれている、ただそれだけでシャアはそのぬくもりにしみじみと感じ入った。
 抱き返せないのが悔しい。
「ありがとう、アムロ」
「……貴方がこれ以上怪我したら、セイラさんが大変だろ」

 ベッドの上へシャアを戻す。
 シャアが動けたなら引き止めただろうが、アムロはすぐさま身体を引いた。片時触れていることすら耐えられない、そんな様子で。
「セイラさんが戻ってきたら、俺、帰るから」
「今度は何時来てくれる」
「そんな約束できるものか。またセイラさんが大変そうなら来るよ」
「……私の妹に手を出してもらっては困る」
「馬鹿か」
「妹は困るが、私ならいいぞ」
「…………帰る」
「待て。さすがに半分冗談だ」
「せめて冷笑できるくらいのネタを言えよ」
「君に抱かれるくらいなら、君を抱きたいな」
 同じ部屋にいることにすら嫌気が差す。こんな男だと分かっていれば、初対面時にララァの目の前で息の根を止めていればよかった。それでなくとも、殺すタイミングなどいくらでもあったというのに。

 ……しかし、殺せなかったのは自分だ。セイラの為でも、ララァの為でもなく、自分の為に。

 諦めた気分になって、シャアの横たわるベッドの足の方へ軽く腰掛ける。簡単には起き上がることの出来ないシャアには、アムロの頭の先だけが見えた。だが、それだけでも安心できる。
 側にいてくれるだけでよかった。側にいて、自分の存在を否定しないでいてくれれば、それで。
 動けなくなって初めて知ることが出来た。動かなければならないと、そんな強迫観念にでも囚われていたのだろう。
 動かなくて済む、そう、考えられる自分が不思議だ。
 動きたくないのではない。ただ、休息を得て不安になることはあっても、安らぎを得たのはこれが初めてかもしれなかった。
 シャアは肺の中の空気を全て出し切るかのように深く息を吐いた。そして、再び空気を肺に送り込む。アムロのいる部屋の空気だ。指先にまで吸い込んだ空気が行き渡る。心地のよい感覚だった。
 しかしそんな穏やかなシャアの顔を見下ろすアムロは、複雑だった。
 この男が大人しくしているなら、世界はもう少し穏やかだろう。それがいいことか悪いことかは置いて於いて、少なくともアムロは落ち着いた生活を送れていた筈だった。
 ベルトーチカの元へ戻る選択だとて、出来たのだ。しかし、アムロはそうしなかった。
 否、今からでも遅くないことも分かっている。彼女は男を待つような性格ではないが、かといって自分の下へ戻ってきた男を拒否する女でもない。
 しかし、ベルトーチカへは未だアムロからは連絡を取っていない。どんな顔をして会いに行けばいいのかもよく分からなかった。
 自分は、彼女と生きることではなく、シャアと死ぬことを選んだのだ。その自覚はある。
「もう少し来てやるよ。セイラさんが大変だから」
「本当か?」
 美しい面に喜色が走る。
 それを感じアムロは一層苦々しい表情を隠さなかった。シャアを喜ばせる様なことをしたくない。
「嘘吐いたって仕方ないだろ。セイラさんが心配なんだよ。貴方といたら、そのうち心中でもするんじゃないかって」
「それほど弱い子ではないよ、アルテイシアは」
「その強い人を、それだけ追い詰めてるんだって自覚を持てよ!」
 原因の一端は自分にもある。棚に上げている後ろめたさからか、アムロは声を荒げた。

 叱られて僅かに萎れながらも、シャアはまだ言う言葉を飲み込まない。伝えたいことは、全て言ってしまわなくては鳴らない。アムロは次に何時来るとも知れないのだ。
「…………私は、死ぬなら……アルテイシアではなく、君の手にかかりたい」
「知ってる。貴方、馬鹿だから」
「彼女の手を穢したくはない」
「俺だったら、もう血に塗れているからいいって?」
「そうではない。君に殺されて、そして、君を殺めたい。それなら全てを終わらせられるのだろう? 私達二人で、共にララァの下へ逝くのでなければ、お互いに納得できないのだから」
「貴方と心中なんてごめんだ」
「だが、君は私と死ぬことを選んでくれた」
 アムロは息を呑んだ。
 半端な力しかないくせに、こんなことばかり分かるのは狡い。
「もう厭だ。これから俺は、一人で生きていくんだから。たとえ誰かと一緒だとしても、それは貴方なんかじゃない」
「君はララァのものだ。それはもう、変えられないことだろう? その上で君と歩めるのは、私一人だと自負しているのだけどね」
「そんな身体でよく言うよ。貴方の世話なんか、ごめんだ」
 今は抱けもしないくせに。
 背筋に寒気が走る。考えたくもない。かつてには通じ合った身体の繋がりを持ったこともあるが、それでもシャアは裏切ったのだ。
「貴方が俺を抱けるようになったら、その時にまた考えてやってもいいさ」
「……素晴らしい挑発だな、アムロ。その一言があれば、私はすぐにでも回復できる気がするぞ」
「馬鹿か。すぐなんて無理に決まってるから言ってるんだ。それに、貴方が動けるようになったら、俺、逃げるよ。宇宙にでも。……どれだけ回復したって、貴方は宇宙にはもう出られないだろ。スペースノイドに合わせる顔なんてないんだから」
「行けるさ。君を追う為なら。誰が何と思おうと構わない。君を追って何処までも行く。追えないなら、君が来るように仕向けよう。また」
 その物言いに、かっと頭に血が昇る。

 また。
 またあんな大それたことをしでかすというのか。たった一人の個人の為に。

「くっ……ぅ……」
 気づけは、アムロはシャアの首に手を掛けていた。強く締め上げる。
 このまま殺してしまえ。そうすれば、平和だ。
 首筋に触れた手から、シャアの、例え様もない喜びが伝わる。
 身体が震えた。
 一瞬に双眸が潤む。
「……っ……」
 殺してしまえ。
 ……殺してしまえ、こんな男!

 …………馬鹿なのは、どちらだろう。
 結局、殺せる筈もないのに。

 アムロは腕の力を抜いた。どさりとシャアの上に身体を投げ出す。
「……殺してなんかやらない。貴方はもっと、自分の罪を知るべきだ」
 違う。殺せないのだ、自分には。
 最後に身体を繋いだ日と同じ。今のシャアの息の根を止めることは容易い筈だ。それでも、出来ない。
 押し付けた耳に、シャアの確かな鼓動が聞こえていた。

 殺してしまったら、誰も救われない。自分も例外ではない。

 どうすればララァが喜ぶのか……。
 シャアは純粋だと言っていた。それは確かに、自分もそう思う。純粋だから正しいとも、認められるとも言えないが。
 アムロとシャアの間に居たいだけだとも言っていた。
 シャアは否定しろ、そう叫んだ。しかし、ララァにそんなことが出来る筈もないのだ。自分より先に、シャアと出会い、愛してしまっていたのだから。
 女のエゴだ。だが、そのことを詰るのは一層自分のエゴだろう。
 厭になる。シャアの方が、局所的にしろ、余程に他人を思っている。
「……君を殺してしまいたい」
「殺せばいい。貴方に出来るなら」
 それは幸せだろうか。今度こそ、シャアよりも先にララァに会えたなら。
「殺してしまいたいよ、アムロ」
「……待っててやるよ。貴方が回復して、俺を殺せるようになるまで。だけど、今度は一人で来い。誰も巻き込むな」
 シャアの手が動こうとしているのが分かる。指がひくりと蠢き、微かにアムロに触れた。抱き寄せたいのだろう。抱き寄せて、口付けたいのだ。分かるが、アムロは動かなかった。
 ただ、もう少しだけ、シャアに多く寄りかかる。
 殺せるなら殺せばいい。自分は紙一重のところで躱してやる。

「君は意地が悪いな」
「意地が悪いんじゃなくて、貴方に対して冷淡なだけだよ」
「冷たくなどないだろう? 君は、こうして私に触れてくれている。君のは単なる可愛らしい意地悪だ」
「……可愛いもんか」
「愛らしいよ、君は」
「……よっぽど脳みそにダメージ受けたらしいな」
「君に関することだけは、昔から変わっていないと思う」
「ア・バオア・クー戦の後とか、グリプス戦役直後の酸欠が酷かったんだな」
「何を言うかな……君とは、サイド6で会っただろう? そうでなくとも、サイド7からこちら、ずっと君に心奪われていた。勿論、今でも」
「そんなこともあったかな……。ご覧の通り軍人とか言いやがった時か。笑う余裕はあの時の俺にはなかったけど、思い出すだに何処がご覧の通りだよって思ってた」
「私を思い出してくれていたのか? それは嬉しいことだ」
 シャアの声が喜びに満ちる。口を塞いでしまいたくなり、冷たい言葉を探す。何を言えば、シャアを切り裂いてしまうことが出来るだろう。
「……気持ち悪い変態だからな。厭でも忘れられなかったんだよ。夢に見そうな格好してさ。……まあ、グリプス戦役中に再会した時ほどじゃなかったけど。……あの時はほんと、話しかけられるのも厭だった。気持ち悪くて」
「……語れるほどの過去が、私達にもあるのだな……」
「初対面から十四年だろ。……数えるほどしか会ってなくても、貴方、真っ赤な格好ばっかりで妙にインパクトだけはあるから、覚えちゃうんだよな。本当に厭なんだけど」
「君が覚えてくれる導になったのなら、私の拘りも満更ではないな」
「馬鹿の一つ覚えだよね。大体、何で赤なんだよ」
「血の色で染めた気でいた。二十歳の頃はな。……その後は既に私の代名詞の様だったから、周りが決めた。特に反対する理由もなかったから、今に至る」
「未だにそんな気で居たんだろ。馬鹿だから」
「そう馬鹿と言ってくれるな……どんなつもりで纏っていたかは、君の印象に任せる」
「馬鹿で変態だから、で結論だな」
「そんな物言いでも心地良く感じるのだから、馬鹿なのは認めるがね」

 本当に馬鹿だ。
 苦しくなって起き上がり離れようとしたが、アムロは動けなかった。触れた身体から伝えられる熱がアムロを引き摺っていた。
 シャアの体温をどうしてこれ程温かく感じるのか。優しく感じるのか。身体は引き寄せられながらも、頭の中が拒絶している。
 側になどいたくない。シャアの側に居ると、自分が内側から掻き乱され崩されていく様に思う。
「……貴方を殺してやりたいよ」
「君に任せる。私を殺してくれるなら、私も君を殺してあげよう。……悪くない話ではないか?」
「悪いよ。……俺に先に手を下させるんだ、貴方は、いつだって……!」
「それは仕方のない事だ。私は未だ、君に追いつけないのだから」
 お互いに同じ言葉を繰り返している自覚はある。
 殺したい。殺されたい。
 そうでもなければ完結させる事が出来ない。その為の膳立てだった筈だ。あの、愚かな紛争は。
「……俺の事を忘れてくれたら、殺してあげるよ。シャア」
「…………難しいな、それは。今の私でさえ、君を忘れる事が出来ない。君の事だけは。…………可笑しいか? 自覚はあるのだよ、これでも。私の記憶は余り蓄積されなくなってしまったらしいのは、分かっている。アルテイシアの事も昔の事ばかりで、昨日がどうだったかなどまるで覚えていない。君が言うから……アルテイシアに助けられたことは理解しているが、毎朝君の言葉を思い出さなければアルテイシアが何故側に居るのかも理解出来ない。それどころか、時計を見なくては、今の時間帯が朝なのか昼なのかもよく分からない。今日何度アルテイシアに会ったのか、医者は来たのか、リハビリはしたか……何も覚えては居られない。食事は、摂ってまだそれ程立っていないのは分かるけれどね。お腹が空いていないから。だが、それでも…………君が一週間前に来てくれた事や、その前には二日間も一緒にいてくれた事を覚えている。交わした会話が今日と同じ様であった事も、君が何を着ていたのかも、君がどんな顔で私の前にいたのかも、全てを思い出せる。君の事だけだ。……何故かは分からないが」

「……どうして俺なんだ」
「分からない。だが……君しか要らない。どんな女を抱いたところで、君を抱いた時程の昂揚感も、相反する様な安らぎも、誰も齎してはくれなかった。君と、ララァと、そのどちらもがいなくては、私は最早充足することができない」
「貴方がゲイだったなんてな。カミーユを抱いたり、俺を犯したりした時から怪しいとは思ってたけど」
「どうかな。……女も嫌いではないよ。好みの女ならな。それが難しいが、そうでなくとも抱けなくはない」
「猿かよ。いや、猿でももうちょっと節操があるな」
「私は、放っておいて欲しかったのだけどね。だから今は、とても落ち着いていると思う。記憶が失せてしまうのはかなり大きな問題だが、日々する事があるわけではないから、却ってストレスが失せた気もするな。鬱屈が溜まり過ぎない」
「普通は記憶が続かないってなったらかなりのストレスだと思うんだけど」
「日々新鮮なものだよ。思い悩んでいた記憶も薄らぐから、昔ほどのストレスは感じていない」
「……能天気過ぎる。貴方の代わりにセイラさんが追い詰められてるんだよ。それくらい気づけ」
「……おそらく私は日々同じことを繰り返しているのだろうな……確かに、アルテイシアを苦しめているのかもしれない。しかし、同じ程に彼女は安堵しているだろう。今の私は、動くことが出来ないのだから」
 妹を泣かせ続けてきた自覚はある。こんな形ではあるが、今共にいられることには感謝もしている。幼い頃から大切な妹だった。手を汚すのは自分一人でいい、そう思って置き去りにし……自分は、祭り上げられていくと同時に転落の一途を辿った。
 神童も歳を取ればただの人だと言うが、ただの人になれたなら、よかったのだ。結局ただの人にもなれず、転がり落ちた先も中途半端な場所だった。
 それが他人よりやや高みであった為に、自身の凋落を知りながらも祭り上げられざるを得なかった。
 考えてみれば、穏やかな時間など本当に幼い頃にしか過ごした覚えがない。三十年をかけて回帰したとも思えた。

「……家族がいるのに、貴方は何であんなものを落とそうとしたんだ」
「人の革新の為には、必要な悪というものもある」
「そんな話を聞きたいんじゃない。それはもう……十分本音を聞いた」
「では、他にどう言えと」
「セイラさんが死んだら、どうするつもりだった」
「あの世で詫びるつもりだった。とでも言えばいいかな?」
「茶化すな」
「…………半分は実際そんなつもりでいた。もう半分は、落ちるとは思っていなかった。これでいいか?」
「本気で落とす気だったくせに、何だよ、それ」
「本気で落とすつもりだったが、君が止めてくれるとも信じていた」
「何で自分でやめなかった」
「落とすつもりではいた。正義の鉄槌だとな。……宇宙の民はそれを望んでいたし、私は、その為に起ったのだから」
「俺に甘えるなよ……貴方なんか重過ぎるんだ」
「だが、君は揺らぎなくそこに立ち、私を支えてくれる力もある。……私に君の力があればきっともう少し別の手段も取れたのだろう」
「……あの時、俺に触れなかった罰だ」
「あの時?」
「………………何でもない」

 最後に抱かれた日だ。
 身体だけが満たされ、心は置き去りにされた。シャアがあと少し譲歩すればその指先はアムロの奥底まで届いた筈なのに、シャアはそうしなかった。
 触れてくれればよかったのだ。身体の奥底、アムロの根幹なすその部分へ。
 その餓えが満たされていたなら、アムロはシャアと対峙するのではなく、隣に並ぶことを選べたかもしれない。

「……早く身体を直せよ。セイラさんの為に。……俺も、早く……気兼ねなく貴方をぶん殴りたい」
「君に気遣ってもらえるとはな」
「怪我人を殴れるか」
「君が齎してくれるものなら何でもいい。たとえそれが痛みであってもね」
「……その舌を食い千切ってやりたいよ。そんなことも言えなくなる様に」
「それはいいな。食い千切るなら、その前に厭でも君から口付けてくれると言うわけだ」
 嬉しげに微笑む気配に、アムロは歪めた顔をシャアの胸へ押し付けた。
 また、微かにシャアの指が動く。どんなリハビリより、アムロに触れたい一心が効果的だった。
それを知っているからこそ、アムロは出来る限り距離を置いている。動けるようになったら、また何をしでかすか分かったものではない。

「……そんなに俺に触れたい?」
「ああ。…………抱きたい」
 切なく熱を含んだ声音に、アムロは身体を震わせた。求めるように伸ばされた指先は、熱を感じる程に近づく。だが、掠めることさえない。
 強く求められていることは分かる。すぐ側まで来るくせに、シャアはその事に気がつかず擦れ違ってしまう。
 アムロにはそれがよく分かっていたが、かといって側を通り過ぎていくシャアを捉えることはできなかった。
 シャアの手をこちらから掴んでしまったら、もう後戻りは出来ない。それは、怖い。

「……俺は女じゃない」
「よく分かっている。君が女だったら、これ程欲しいとは思わせてくれなかったかもしれない」
「……どうして俺が欲しいなんて言える。俺なんかを抱いて、何が楽しい。柔らかくもないし、ナニもついてる」
「君は、柔らかいよ」
「そりゃあ、貴方に比べれば鍛え方が足りないだろうけど」
「そういうことではない。君の髪も、声も、心も、とても柔らかい。……心外だな。私は、君の身体だけを求めているのではないぞ。むしろ、いっそのこと……肉体という境界など、なくしてしまいたい。君とララァが溶け合ったように」
「俺と貴方じゃ無理だ」
「……分かっている。私には、力が足りない」
「それに、俺とララァは……ほんの一言話しただけで他には何もなかった。貴方と俺ほども話してないし、抱いてもない。身体の繋がりは、必要なものではないだろう」
「……私に力が足りないから、君達の様な繋がりが不可能であることは理解している。だからこそ、物理的な結びつきも重要なのだと思う。それが肉体の繋がりではいけないか?」
「だから俺は男だって言ってるだろ」
「だが私は、その、男の君の身体を悦ばせる術を知っている」
「っ……」
 情欲を隠さない声に、アムロは濡れそぼつ下肢の感覚を思い出して身を竦ませた。
 女と重ねた情事は数多いが、感覚は何処か希薄だ。むしろ、数は少なくとも男に抱かれたことの方が、良かれ悪しかれ記憶にも身体にも刻み込まれている。
「……そんな身体で、よく言う」
「…………そうだな。今の私には、君を悦ばせることもできないか。いや、だが……口はこれだけ動くのだから、君の協力があれば何も出来ないわけではないぞ」
「……要らない。何だよ、協力って」
「君が欲しいままに」
「何も要らない」
「だが、今君は少し欲情している」
「何だよ、それ!」
 アムロはシャアに寄りかからせていた身体を勢いよく起こした。
 真面な力も持たないのに、こんなことばかり妙に鋭い。
「おいで、アムロ」
「馬鹿を言うな」
「まだ暫くアルテイシアは帰ってこない」
「貴方なんか、要らない」
「……来てくれ。君に触れていたい」
 この声は、卑怯だ。
 アムロは唇を噛んだ。微かな痛みが辛うじてアムロのプライドを繋ぎ止める。
 大衆を従える演説を行う者は、その声や間の取り方に特別なものがあると言う。シャアは、まさしくその才能を持ち合わせているのだろう。
 このままでは流されてしまいそうで、耳を塞ぎ目を瞑った。

 医者もいる。看護師もいる。そしていつセイラが戻ってくるかも分からない。そんな場所で触れられるのは堪えられない。
「……アムロ」
「……そんな声で俺の名前を呼ぶな」
 手で耳を押さえたところで、この距離では全く聞こえないというわけにもいかない。痛切なる響きにアムロは震えていた。
「……………………帰る」
「待ってくれ! アムロ!」
「……貴方の側に居るのは厭なんだ。貴方の感情に引き摺られそうになる。貴方の思いは、強過ぎる。俺には……どうすることも出来ないのに」
「ただ触れさせてくれればそれだけでいい。この身体で君を抱きたいとは言わない。ただ…………側に」
 嘘など何一つない。シャアが心からそう願っているのは、分かる。だがしかし、アムロは耳を押さえたまま緩く首を振った。
 触れるのは怖い。手を重ね合わせるのは……。
 シャアに触れれば、足下から攫われてしまう。強い想いをぶつけられては、逃れる術などないのだ。殊に、シャアが相手では。
 NTの力は足りていないが、それを補って余りある想いの力を、シャアは備えている。若い頃程ではないにせよ、鋭敏な感覚を持つアムロには、その想いは痛みすら伴う程に強い。
「……これ以上なんて、無理だ」
「先まで、私の胸に顔を寄せていてくれただろう?」
「もう……厭だ。貴方は厭だ。……触れられたくない」
「何も出来ない」
「厭だよ!…………もう、帰りたい」
「しかし、アルテイシアが戻るまでは側に居てくれるのだろう?」
「…………仕方がないじゃないか。任せてくれなんて、言っちゃったから」
「君に任せる。私の命の全てを」
「……要らない。何かあったら呼べよ。俺、カーテンの向こうにいるから」
「頼む、アムロ……意地の悪いことを言わないでくれ。君に触れたい」

 身体が竦む。かつて知ったより痩せやつれた感のある手がゆっくりと伸ばされ、アムロの上着の端に触れた。
 振り払いたい。しかし……。
 一層アムロは動けなくなり固まった。
 簡単なことだ。今のシャアには追い縋る力もない。それどころか、もう数センチ離れてしまえば、微かに触れることも出来なくなる。
 分かってはいるし、そうするべきだとも思う。また、そうしたいとも。なのに何故動けないのか。
 微かに頭を動かしてアムロをその青い瞳に捕らえ、シャアは悲しげに眉を顰めた。
「…………君は、優しいな。そうできるのに、これ以上は離れない」
「…………帰る」
「アルテイシアの帰室を待たずには、帰れもしないのだろう? 本当に、君は私達兄妹に優しい」
「兄妹に、じゃない。そりゃあセイラさんには優しくしたいさ。当たり前だろ」
 ブライトから聞いたことがある。シャアと、いっそ刺し違えてでも……そうまで覚悟を決めていたと。アムロには兄弟などいないし、家族というもの自体が希薄な為に想像でしかないが、そんな兄妹の関係など望ましくはないだろう。
 まして、かつて憧れた事もある女性だ。気高く美しいかの人の凛とした姿とその覚悟が重なれば、否応なく礼を尽くしたくもなるものだろう。
「アルテイシアのことばかりだな……私はどちらに嫉妬すればよいのだろう」
「何を悩む必要があるんだ。妹につく悪い虫は俺だろ。残念だったな、お兄さん。そんな身体じゃ阻止も出来ないだろ」
「そこまで無粋ではないつもりだがね。だが、君がアルテイシアの手ならば取れると言うなら、それは癪に触る。アルテイシアならよくて、私では駄目なのか?」
「比較対象にもならない」
 男など受け入れられるものではない。まして、こんな何の役にも立たないろくでなしを。

 …………ろくでもなさ過ぎて、突き放しきれないのだ。これの相手を出来るのは、自分だけだと分かっているから。

「……私を慰めてくれないか」
 慰める……その暗喩に気付き、アムロは露骨に眉を顰める。
 ろくでなしですら甘い表現だったかも知れない。
「看護師にでも頼めよ。事務的にやってくれるだろ」
「君がいい」
「気持ち悪いことを言うな」
「君がいい。君でなければ、厭だ」
「馬鹿か。ふざけるな」
「では、ララァを連れてきてくれ」
「死ね」
「殺してくれ」
「勝手に死ねよ。独りで。貴方一人でララァに会えるのかどうかなんて、知らないけど」
「君は……意地が悪いな」
「気持ち悪い」
「そう言ってくれるな」
「もう二度とここに来なくていいなら、一回だけしてやってもいいけど」
「それは困るな。君には側にいて貰わなくては」
「俺の身体はもう殆ど元通りだし。貴方に付き合う義理もない。俺がここに来るのは、セイラさんの為だけなんだから」
「何故アルテイシアにだけは優しいのかな君は」
「間違えるなよ。貴方以外には優しいよ」
「女にだけは優しいのか」
「男にだって優しいよ。貴方を除いて」
「可愛いな、君は」
 特別だと言ってくれている。シャアは嬉しげに微笑んだ。

 アムロがどう思っていようが構わない。自分がアムロにとってのただ一人でありさえすれば、それだけでいい。
 アムロは一層渋面になってシャアから目を逸らせた。
 本当に耐え難い男だ。
「私にだけ、優しくないのだろう? 私にだけ…………いい響きだ」
「貴方がここまで馬鹿だとは知らなかったよ」
「君にとって特別な人間でありたい。それは、どの様な意味であっても構わないのだ。君にとって特別で有りさえすれば」
「蛇蝎のごとくに嫌っても?」
「ああ。……それはいいな。そこまで過剰に反応してくれるのは、嬉しい」
「…………頭悪いだろ、貴方」
「そう言ってくれるのは、君を含めて本当に数少ない人間だけだ」
 馬鹿だと言われるのが本当に嬉しい様子だ。
 何より自分を分かっている男だ。愚かである自覚を持ちながら、ネオジオンでは身の回りの誰もその様には扱わなかったのだろう。
 馬鹿だと言われることで、自分を理解して貰っている気になる。そして、重い期待をされていないことも知ることが出来る。
 本当に、子供染みて愚かな男だ。
「だから、君を欲しているのだよ、アムロ。私は……君が欲しい。君に側に居て欲しい。そうして、私を理解して欲しいのだ」
「……貴方のことなんか、分かりたくもない。だけど……貴方は単純だから、理解なんてしようと思わなくったって、厭でも分かる」
 第二次ネオジオン紛争の直中。シャアはアムロに自分の思想の全てを理解することを求めた。
 しかし、アムロが理解していることを、理解していなかったのはシャアの方だ。それが、アムロには堪えられない。今以上の理解を求められても困る。シャアの想いは分かるのだ。身を切る程に。
 シャアは欲しているものをもう既に手にしているのだ。本人だけが、その事に気付いていない。アムロにはこれ以上、差し出せるものなどないのに。
 身体はとうに攫われた。心も半分をララァに明け渡しているのだから、シャアに渡したも同じ筈だ。これ以上、何を渡してやれるだろう。

「…………貴方は、何が欲しいんだ……」
「君だよ。君が欲しい」
「俺にはもうこれ以上、貴方にあげられるものなんてない」
「君の心が欲しい」
「…………何で気付かないんだよ!」
 殺し合った相手の側にいる。その意味を、この男はどう捉えているというのだ。
 敵だったのだ。殺し合ったのだ。命を賭けて。シャアに引き渡してやれる最期のもの……命さえ、賭けて。
「貴方、本当にどれだけ馬鹿なんだよ!」
 堪えられない。
「アムロ!」
 シャアの叫びを振り切り、アムロはもうどうしようもなくなって部屋を飛び出した。

「アムロ!」
 階段を駆け下りる。
 階下ではまだ、セイラが思い悩んだままベンチに座っていた。
 その前まで行き、床に膝を付く。
「……っ…………」
「また、あの人が馬鹿なことを言ったのね」
「…………どうして、あいつ……っ…………何も分からないんだ!」
 セイラは僅かな躊躇いを見せつつも、アムロの髪にそっと触れた。
 また、アムロを傷つけることを言ったのだろう。または、アムロが傷つくほどに、必要なことを何一つ言えなかったのかも知れない。
 愚かな兄だ。
 それでも、シャアが望むのはアムロただ一人だった。何も分からぬ癖に。その、望むものさえ、これ程までに傷つけざるを得ない癖に。
「…………貴方に、こう言うのは、とても酷なのだと分かるけれど…………」
 癖の強い髪だ。だが、見た目ほど縺れてはいない。指先で繰り返し梳く。
「……ねぇ、アムロ。兄を、頼めないかしら」
「セイラさん、それは……!」
「……分かっているわ。貴方がその気なら、殺してくれても構わないの。いいえ……卑怯ね、私。貴方にそんなことを押し付けるなんて」
 もう、涙も涸れ果てたのだろう。ひどく静かに、抑揚に欠ける声でセイラは言った。
「どうして、って……考えても仕方のないことなのでしょう? 何故私ではなくて、貴方なのかなんて。……私と話したことなんて、すぐに忘れてしまうのに、貴方が来てくれたことだけは全部覚えているのよ、以前のことだけではなくて、一週間や、一ヶ月前のことでも。……本当に、厭だわ。あんな人が兄さんだなんて」
「殺して……いいんですか」
 アムロは顔を上げ、セイラを凝視する。
 やっと一緒にいられる。そう喜んでいた筈だ。
 しかし、セイラは落ち着いた表情でじっとアムロを見詰め返す。その静謐さに、アムロは戦慄を覚えた。

「…………シャアと殺し合った俺で、本当にいいんですか」
「いいわ。殺して。…………もういいの。私には兄なんていなかった……そう、思えばいいのよ。実際いなかったわ。兄は、私がまだ幼い頃に死んだの。シャトルの事故で。………………貴方や、もう亡くなっている女の人だからまだ許せるのでしょうね。これが何処か別の女だったら、その人だけを私が殺しているかもしれないわ」
 無理をした微笑が痛々しい。
 アムロはセイラを抱きしめたくなったが、そうは動けなかった。今の自分が触れていい人ではない。
「………………どうして、シャアは俺なんだろう……」
「……分からなくはないわ。今の貴方には、揺るぎがないから。兄はWBの頃を知らないから、尚更貴方に夢を見られるのでしょうね」
「きついなぁ、相変わらず」
 あの頃の痴態は全部知られている。駄々を捏ねていたことも、出撃を渋って殴られたことも、ガンダムを持って脱走を図ったことも、何もかも。
 アムロは居たたまれなくなって頭を掻いた。あの頃の子供だった自分を十分に知られてしまっているのは気恥ずかしいものだ。
 漸く微かにセイラの表情が緩む。
「貴方が憧れていた女性のことだって知っているし、フラウ・ボゥがいないと食事もお風呂も適当だったことだって、よく知っていてよ」
 マチルダのことを言っているのだろうが、セイラにも憧れていた。フラウ・ボゥは少し鬱陶しかったが好きではあったし、ミライの暖かさも好きだった。気の多いことだと我ながら苦笑せざるを得ない。
「そんな男に、よく」
「そうね。でも、貴方だって、大人になったでしょう?」
「どうかな……自分では、それほど変わった自覚なんてないんですけど」
「あら……そうなの? 私から見れば、とても変わった様に見えるわ。兄の所為が大半なのだと思うけれど。貴方が一年戦争の後まで戦うことになるなんて、思ってもいなかったもの」
「軍から離れることが出来ていれば……もっと違う道があったのだとは思いますけどね。今回の戦いだって、起こらなかったかもしれない」
「遅かれ早かれ、あの人は動いたわ。貴方がいてもいなくても」
「……そうか……そうですね」
 一年戦争で出会いもしなければまた更に違ったのかもしれない。だが自分達は出会い、シャアはそのNTとしての力に夢を見、そして……その後を生きている。アムロではない他のNTを食い潰しながら。

「殺して頂戴、アムロ。あの人を……」
 美しい微笑だった。
 涙に潤む瞳も、寂しげな表情も、本当に良くシャアに似ている。
「殺して…………そうしたら、みんなきっと、もう少しずつ楽になれるわ」
「貴女も?」
「ええ。…………ごめんなさい。貴方は、楽になれないわね」
「あいつに付き合い続けるくらいならいっそ…………」
「殺してしまえば、兄は貴方一人のものになるわ。それは兄の何よりの望みでしょう」
 殺してしまえば。
 しかし、シャアが先にララァに再会するのかと思うと腹立たしい。
「…………何時か、必ず」
「ええ…………貴方に全てを任せるわ。殺して頂戴。いいわね」
 セイラは繰り返しアムロの髪を梳いた。アムロはただ、目の前にあるセイラの膝に額を押しつけた。


作  蒼下 綸

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