カミーユが去って、アムロはそれでも動けずにいた。
 しなければならないことは分かっている。自分が何を望んでいるのか、相手が何を望んでいるのか、周囲が、どう許してくれているのか。
 新聞を広げ直すが、内容は全く頭に入ってこない。
 行かなくてはならない。そう思って立ち上がる。しかし、すぐに座ってしまう。気が進まない。
 カミーユと何を話したのかは気になるし、それでシャアがどの様に変化したのか、また、していないのかも気にかかる。忘れる前に会わなければならない。それも分かっている。
 分かってはいるのだ。
 また、立ち上がる。数歩進みかけて立ち止まる。
 馬鹿馬鹿しいと自分でも思う。
 しかし…………。

「アムロ、あの子は帰ったのかしら」
「っ」
 セイラが来たことにも気づけなかった。身が竦み、また座る。
「あ……ああ、カミーユは、帰りました」
「そう。……何か言っていた?」
「はい。……ああ、いいえ、大したことは……ただ、昨日来たことを覚えていなかったようです。それでも……彼の中の決着は着いたみたいだから。来て貰った意味はあったと思います」
 掌で顔を撫で、平静を取り繕う。
 セイラは気にしない様子でアムロの隣に座った。
「彼にとって悪くなかったのなら結構ね。一応、兄さんの様子も見に行かなくてはいけないけれど……行って頂けて?」
「……はい。僕の役目ですから」
「…………貴方は、これからどうするつもり?」
 カミーユの存在は、最後の逃げ道だった。それが塞がれた今、アムロに選べる道などない。それは、分かっている。

 もう幾度も心の中で繰り返した台詞を口にする。
「……もう逃げません。手の届くところにいて、躱し続けてやります。そうすれば……あいつも、馬鹿なことなんて考えられないだろうから」
 平静を装うことは出来た。しかし、それはあくまで表面上のものだ。
 側にさえいなければ、逃げようとは思っていないのだ。ただ、シャアを目の前にすると全てが崩れ去り剥き出しの心一つとなってしまう。その時に同じ事を言える自信はない。
 殺すだけの覚悟はしていた。殺した後、シャアを背負う覚悟も。
 しかし、共に生きることを考えたのはここで、シャアの顔を眺める羽目になってからだ。
 唇が震え、それを止める為に引き結んで噛み締める。
 歪む横顔を見て、セイラは目を閉じた。苦しむアムロの顔を見たくない。今から自分は、何より残酷な願いを口にしようとしている。
 小さく、しかし深い溜息を吐いた。

「…………ごめんなさい、アムロ。だけど……もう、私も、貴方にしか頼れないのよ。悔しいけれど、私では…………」
 華奢な肩が震えている。しかし、アムロには慰めることも出来なかった。その資格はない。セイラからたった一人の肉親を奪ったのは他でもない自分自身なのだと、自覚はある。
「貴方を殺してしまおうと思ったわ。だけど……そんなことをしても兄は私の下へは帰ってきてくれない。いいえ……貴方がいなければ、兄はもう、現実に生きてさえ行けないかもしれない。だからと言って二人を殺してしまったらそれこそ……私は貴方達の世界を完結させてしまうのでしょう? そんなのは厭。だから、もう……動けないのよ私には……!」
 静かな……しかし、悲鳴に似た響きを持つ声音に、アムロはただ俯いた。言える言葉が見つからない。
 セイラは深く長い息を吐くと、気を取り直して顔を上げる。目元は赤かったが、泣いてはいなかった。
「貴方に任せるわ、アムロ。貴方は命を賭して兄を止めてくれた。もう……貴方しか、兄には残っていないんでしょう……? 貴方だったら、殺していいわ。共に生きても、殺しても、共に死んでも……私にそれを止められて?」
「生きていても、死んでしまっても、貴女が苦しむ。僕は……僕達は、何より、貴女に苦しんで欲しくないんです。もう、これ以上」
「僕達、って、誰?」
 泣き笑いの様に、口角が引き上げられる。美しかった。
 表情の全てがその兄に酷似している。儚い。
「僕や、ブライトや、カイや……ミライさんや、フラウだって。貴女が面倒を見ている女の子だって、きっと」
 シャアの名を言うことは出来なかった。セイラにもそれは分かっている。泣きそうに顔を歪めたアムロに、セイラは小さく微笑んで見せた。
「そう。…………そうね。皆には迷惑ばかり掛けているわね」
「セイラさんの所為じゃありません」
「同じことよ。私には、いつだって兄を止めることなんて出来なかったのだから」
 本当に罪深い男だ。しかし、今の状況になってしまったことには、アムロも責任を感じている。セイラの下へ兄を返してやることは出来なかった。ララァと自分に、シャアは囚われ過ぎている。
 碌でもない男だ。死人と、男になど囚われて……自覚しながらも、逃れようともしない。たった一人の肉親を泣かせてまで。
「貴方に用意できる家のリストは出来ているわ。一緒に住むのは厭でしょうから、貴方一人で住むお家。兄さんはまだここから出るのに暫くかかるし、当分一人で生活は出来ないでしょうからまた後の話ね。後で持ってこさせるから、見てみて頂戴」
「ありがとうございます」
 立ち上がる。もうこれ以上は引き延ばせない。
「ちょっと行って、シャアの様子を見てきます。それから、引っ越しの話を」
「ええ。お願いするわ」

 ドアの前に立つが、一歩を踏み出せない。いつもなら声を掛けるやドアを開けるところだが、口が開かない気がして取り敢えずノックだけをして返事を待つ。
「どうぞ」
 中から声が聞こえ、仕方なくノブに手を掛ける。一つ一つの動作につい時間をかけてしまう。
 意味などない。やりづらくなるだけだ。
 ゆっくりとドアを開ける。
 ドア側のカーテンが閉まっていることを期待したが、それは開いていた。

「やあ、アムロ。珍しいな、声も掛けてくれないとは」
「……別に。貴方となんか話したくないだけだ」
 口を突いて出るのは悪態ばかりだ。こんな話をしたいわけではないというのに。
「カミーユはさっき帰った。それだけ伝えに来た」
「そうか。彼には悪いことをした。……相変わらず、綺麗で優しい子だったな」
「……それ、カミーユがしたのか?」
 少し近寄ると、首の周りが赤く汚れているのが分かる。
 急を要するほど深くはないが、それでも暫く血が滴っていただろう程には切れているらしい。もう流血は止まっている様子ではあったが、僅かながらシーツまで染まっている。
「ああ。……癒えるまで、傷の意味を考えろと」
「止血は」
「もう止まっている。問題はない。だが汚れてしまっているだろうから、夜着とシーツを取り替えたいな」
「動くな。傷口が開く」
 棚からタオルを取りだして首筋に押しつける。
 シャアが自力で起き上がるのは時間がかかる。抱き抱える様にして身体を起こさせ、一瞬立ち上がらせるや側の椅子に移す。シャアの身体の移動に関しては、力がある分セイラよりアムロの方が上手い。
「取り替えてやるから、貴方は暫く傷口を押さえてろ。きれいに洗ったら、メディカルテープを貼ってやるから」
「頼もしいな。では、お願いしよう」

 背を壁により掛からせ、手際よくシーツと枕カバーを取り替えるアムロを眺める。
 案外介護も向いているかも知れない。
 アムロと二人でいられたなら、ずっと後にはまたこの様になることもあるだろう。アムロが自分より早く死ぬことは絶対にない。あってはならないことなのだから。
「首、タオルのけろ」
 ベッドが整い、アムロはシャアの側に膝を付いた。上からでは傷の様子が分からない。下から見上げ、傷を見る。
 抑えていたタオルを外すと、まだタオルには血が移っていた。完全に止まってはいない。
 血の色に、一瞬軽い目眩を覚えた。
 吸い付いて、舐め取ってしまいたい衝動に駆られる。こんな所で無駄に血を流して欲しくなどない。シャアが血を流すなら、戦場で、それも自分の手でなくては厭だ。

「っ……痛いな……」
 濡れたタオルで傷の周りを拭き、傷には消毒を染み込ませた脱脂綿を当てる。
「君……かなり痛いぞ」
「もっと痛い目に遭いたくないなら、大人しくしてろ」
 傷を覆ってしまえるサイズのメディカルテープがなく、仕方なくガーゼと油紙を重ねてサージカルテープで留める。
 かなり乱暴に止めたもので、少し身動ぐだけで引き攣った様な感覚がある。
「もう少し優しくして欲しいな……」
「怪我する方が悪い。この傷は自分の所為で付いたんだろ」
「カミーユがそこのナイフを突き付けてきたのだ。殺されるかと思った」
「あの子に貴方を殺せるわけがない。カミーユが突き付けたって言うなら、それは貴方がまた碌でもないことでも言ったんだろう。結局自業自得なんだよ」
「君はどちらの味方なのだ?」
「カミーユに決まってるだろ。血が付いたのなら、ナイフも洗わないといけないな」
「後でいい。ここにいてくれ」
「血は除きにくいんだから、早く洗わないといけないだろう」
「君は私の味方だろう? カミーユの味方だと言うなら、君は彼を呼ばなかった筈だ」
 側に跪いたままのアムロの髪に触れる。ふわふわとして心地がいい。
 アムロは咄嗟に顔を背けた。
「カミーユは、君が……私とどうしたら再び通じ合えた日に戻れるのかを考えてくれていると言っていた。それは本当か?」
「……貴方がとんでもないろくでなしだって知らなかった頃に戻れるなら……それは悪い事じゃないと思った。けど……でも……結局俺は、貴方が馬鹿だって事も、ろくでなしだって事も、知ってしまったから」
 それでも、頭を撫でる手を振り払ってしまえない。自分より一回り大きな手は、温かい気がする。その温もりに、つんとした疼きが鼻の奥に走る。
 シャアが生きている。ただそれだけの実感が、何故これ程大きな事に思えるのだろう。
「それでも君は、私の所に来てくれる。アルテイシアのためだと言うが、それなら私の病室にまで来る必要はないというのに。それは私にも……一縷の望みがあると思っていいのだろう? 君も、あの日に帰りたいと思っていると。私達が愛し合えた……あの日に」
 手は顔に降り、頬を包む。親指が優しく繰り返し頬の丸みを撫でた。
 優しく穏やかで、静かな空気が流れている。
 シャアと二人きりでいるというのに、あってはならない空気だ。尻の座りが悪い。
 しかし、動けない。
 これが自分の望みだというのか。こんな風に、触れられることが。

「少し肌がざらついているな。勿体ない」
「ちょっと髭が伸びてるだけだろ。今日は剃ってないから」
「君には似合わないな。せっかく愛らしいのだから。それに、髭だけではないな。少し荒れているのではないか」
「馬鹿馬鹿しい。もう三十になろうっていう男に」
 苛々してシャアの顔に手を伸ばし、頬を掴んで引っ張る。シャアの頬はよく手入れされて、年の割にやけに手触りがよかった。
「……なんか、むかつく」
「自分で手入れはしないのだがな……周りの女が世話を焼いてくれていた。あまり覚えてはいないのだが、今も誰かが手入れをしてくれてるのだろう?」
「セイラさんが。……まあ、小汚い兄貴なんか願い下げだろうさ。貴方の取り得なんか、その顔だけなんだから」
「なるほど。君が気に入ってくれているなら、この顔も悪くはない様だ」
 アムロの手は冷たかった。自分も今はそれ程血の巡りがよくはないから以前よりひんやりとしているが、アムロには一層血の気がない。強張った表情や雰囲気を見るに、緊張しているのだろう。
 擦り寄る仕草を見せる。自分の体温が少しでも伝わればいい。
 その仕草が厭になって、アムロは手を離した。
 ただ、やはり手を払えない。冷たい頬にシャアが心地いい。
 顔を背けたまま目を閉じる。
「……今日は、逃げないのだな」
「別に、いつもだって逃げてない。厭だから避けてるだけだ」
「今日は避けないのか?」
「避けられたいのか?」
「嬉しいと言っているのだ。君が触れることを許してくれる……ああ」

 指先の動きを止め、ただ掌でアムロを感じる。
 今日のアムロは少し違う。触れても逃げないし、むしろ近寄ってくれている様にも思える。
 アムロが自分を望んでくれるとは思っていない。ただ、否定しないでいて欲しいだけだ。それが、果たされている様な錯覚に陥る。
 否。錯覚ではないのか。本当に。
 これがカミーユが齎してくれたものなのだろうか。
 そうだとすれば、自分はどれ程彼に酷いことをしただろう。彼の方から関係を切らせて、背を押させて。十も年下の子に。
 ならば一層のこと、自分達は正しい関係を築かねばならない。
「口付けたいな、君の頬に」
「今言ったばかりだろ。髭も剃ってないし、肌も荒れてる」
「それでいい。どの様であっても、君は、君だ」
「貴方の期待には応えられない」
「既に応えてくれている。これ以上のものを、今の私は君に対して望んではいない」
 身を屈め、アムロに顔を近づける。
 アムロは目と口をぎゅっと閉ざした。
 子供染みた仕草に苦笑し、更に顔を近づける。添えていた手でアムロを引き寄せ、その目尻にそっと唇を押し当てた。
 続いて額にも口付けを送る。
 今の自分が求めているのはこの程度のことだ。
 無論、抱かせてくれるならばそれに越したことはない。しかし、アムロに対する感情はそればかりではない。

「これまでの私は、君に人類全ての旗手となって欲しいと願っていた。そして今の私も、もし君がそうなってくれたら理想的だとは考えている。しかし……君は誰よりもシャア・アズナブルが偶像であることを知っている。その君に、頼める事ではない」
 アムロこそ、全人類の上に立つものとして相応しい。これ程優しく、力強いNTが他にあるだろうか。
 シャアの理想の世界には、アムロの存在が不可欠だった。アムロが導き、NTの絶対数が増え、広く世に知らしめられる様になれば、そして、人と人とが正しく理解し合える世界ならば、アースノイドだスペースノイドだなどという下らない争いは消える。また、そうなれば棄民政策によって全てを奪われ続ける宇宙の民に、光ある未来を見せることが出来る。そう思った。
 だが最早、動くこともままならない身体では、シャアはアムロの隣に立つことが出来ない。それでは意味がない。
 アムロと、自分と、二人で立つことが出来るならその間にはララァもいてくれる。それでこそ、漸く一つの完成を見るのだ。アムロ一人では完成しない。
 またシャアが背負っていたものは、シャアにしか背負えないものでもある。アムロに担うことは出来ない。アムロが一人で全てを背負い立ち上がってくれるとも思っていない。
 並び立てるならそれでいいのだ。どちらかが一方的に居るのでもなく、居られるのでもなく、ただ、隣に。
 祈る様に、もう一度額に口付ける。
 嘗ての様に、荒々しく奪い取るつもりはない。ただ、お互いが、お互いの空気である様に、静かにそこにありたい。

 シャアの願いはアムロには明確ではないものの伝わっている。
 こんな静かな関係は知らない。
 シャアと二人でいるというのにこの穏やかさは何だというのだろう。触れて、触れられて、充足して。
 こんなものがあってはならない筈なのに、ひどく温かくて心地がいい。
「ナナイが……」
「女の話なんか聞きたくない」
 触れてくる手が急に冷たく感じられて、ふいと顔を背ける。可愛らしい仕草にシャアは微笑を抑えられない。
「そう言ってくれるな。彼女は君のことを、優しさがNTの武器だと勘違いをしていると評した。私は何も言えなかった。……私こそ、NTの君が持っている、その独特の優しさにこの上もなく惹かれていたのだから」
「その人、会ったこともないのに優しいなんて……光栄だな。美人だった?」
「君の魅力には敵わない。……まあ、君の写真は見ているし、私がよく話して聞かせたからな……」
「……馬鹿な言い方してるんだろ。そりゃ……俺を怨みもするか。……前からなんだけどさ、たまに酷い頭痛や悪寒がするの、絶対貴方の所為だろ」
「私の存在が君に影響を与えているとしたら、それは満更でもない」
「悪影響なんかいらない」
「女達にどれだけ口先だけの睦言を囁いても隠し遂せない程、君への思いが溢れているということだ。諦めてくれ」

 額にまた軽く唇が触れる。擽ったさに僅か首を竦めた。
 閉塞している。
 窓のない部屋で過去の時間生きている様な錯覚に囚われ、緩く頭を振る。
 しかし、自分達にはこれも相応しいのかも知れない。未来のない、過去だけの刻をただ歩む。
 建設的な関係など初めから存在のしようがないのだ。
 側にあるシャアの膝に額を押し当てる。空かさず髪に触れる手が撫でてくれた。

 音がしない。衣擦れも、お互いの呼吸も、心音も。
 無音だと思った瞬間、やたら鮮明にシャアの姿が浮かび上がった様に思った。

 そのアムロの感覚を分かったのか分からないのか、シャアは静かな声で呟く。
「私は確かに、君が思っている通りの卑小な男だ。だが、肌が荒れているとか、髭が似合わないとか、男だとか、女だとか、そんな下らないことを問題視する人間ではないよ。勿体ないから多少気にはなるが」
「それは……分かってるよ。そこまで馬鹿なら、一瞬だって絆されたりしない」
「アルテイシアの許しを得て、ブライトやカミーユに背を押され……後は、何が必要なのだろうな」
「貴方の方から望むことだ。俺の側に居たいって。俺に側に居て欲しい、じゃなくて……貴方が居たいって言って、俺の側に居るなら……どれだけ鬱陶しくたって、罵ったって、俺の方から離れたりなんかしない。俺の側に居たいなら、貴方から俺の所に来い」
「……今なら、許されるか」
「そうだ。貴方から柵が消えた。貴方の世界には、俺しかいない」
 アムロは漸く立ち上がり、シャアの腿に片膝を乗せて首へと腕を回した。
 顔も表情も見ていたくない。だが、それ以上に離れたくない。
「貴方はもう、俺しか見ないんだろ?」
 顔を見てしまったら言葉を発せなくなる。目は合わせないまま、頬を合わせる。
「貴方なんか欲しくないし、見たくもないけど……貴方の世界が俺だけなんだったら、それも仕方ないって諦めもつくさ」
 擦り寄ると額に柔らかな髪が触れる。口元には、シャアの形の良い耳があった。

「ただ、愛しているだなんて絶対に受け入れないし、俺から望んでは貴方の側にいない」
「アムロ……」
「何度言われたって、同じだ。貴方を受け入れない。貴方の側にはいない。貴方が、俺の側に居るんだ」
 気付け、シャア。
 耳に毒を流し込み、アムロは僅かに身体を離して真っ直ぐにシャアを見た。言いたいことは言った。これ以上、目を逸らせるわけには行かない。
 賭けだった。シャアが気が付かないなら、本当にこれまでだ。終わりにはしたくない。しかし、シャアを受け入れてしまうわけにも行かない。お互いの為だ。
 受け入れさせてみろ、そう言うことさえ出来ない。卑怯なのはどちらだろう。シャアには少なくとも、こんなお為ごかしはない。
 顔を歪めたアムロに、シャアは深く息を吐いた。
 確かに愛を囁いてくれるアムロなど、想像もできない。求めて止まぬものだが、それと同じ程に分かっている。アムロがもしシャアを受け入れ、愛し、甘い言葉の一つでも囁いたなら幻滅するのかもしれない。男の身で男に抱かれることを良しとするアムロであって欲しくない。アムロにはそれがよく分かっている様子だった。
「……君の望みか、それが」
「ああ。そうだ」
「そうか…………」
 気付け。
 アムロの双眸が露を帯びる。しかし、シャアから目を逸らすことはない。睨むように、険しい顔つきのまま、ただひたすらに見詰める。
 シャアは困った様な笑みを浮かべた。
「それは、私にとって都合の良いように受け取って構わないのかな」
「……好きにしろよ」
 瞳に安堵が過ぎる。直ぐに掻き消されたが見詰め合っていたシャアにも分かった。シャアの笑みも深く、心からの喜びに満ちたものに変わる。
 それを見届け、アムロは漸くシャアから視線を離す事が出来た。
 やっと伝わった。シャアの指先が、アムロの心の泉に触れ、柔らかな波紋を広げる。
 への字に曲げた口元は不機嫌なのではない。泣き出しそうなのだ。それが分かって、シャアは心からアムロを愛しいと思った。
 そっと唇に指を這わせ、ゆっくりと線を辿る。アムロは振り払いはしなかったが、ますます顔を歪めた。

「……貴方を愛していると思えたら、どんなに楽だろうな。それは分かっているんだよ。だから、出来ない」
「何故」
「俺も貴方も……それを望んでいない」
「私は望んでいる」
 最早迷いはない。シャアは明瞭にアムロに伝える。
 迷い、戸惑い、躊躇っているのはアムロだ。これまで拒み続けてきたものを受け入れることに、納得しながらもまだ恐れがある。
「……貴方が、釣った魚に興味を持つなんて、ないだろう? 餌をくれなくちゃ誰だって逃げるさ」
「君を手に入れてしまったら、私は君にも飽きてしまうと言うのか?」
「死ぬか別れるかずっと手に入らないか……そんなものでもなければ、貴方が興味を持ち続けるなんてない」
「自分のことの様に分かるものだな」
「貴方は単純だから」
「そうだな。だが……こうならなければ、君は私を理解してくれようとはしなかっただろう?」
「何故そう思う。……貴方が俺を分からなかっただけだ」
 理解はしていたのだ。もう、ずっと昔から。それは、単純に純粋で優しい馬鹿な男だという認識ではあったけれど、それが間違っているとは思わない。
「君もだよ。……君も、私を理解しているといいながら、理解し切れていない。否。予断が勝っている。今まで長い時間を共に過ごしたこともないのに、これから、私達がどうなるかなんて、分からないだろう? この世の事象は全て、結果が確定するまではひどく曖昧なものだ。君の予感や直感だとて、瞬時的なものの的中率は高いかもしれないが、中、長期的視野が必要な物事については経験に基づく予断や希望的観測が入って正確なものとならない可能性がある。君は多分に私を疑って掛かる節があるから余計にそうだ。君が言った通り、今の私には何の柵もなく、君しかいないのだから……もう少し信じてくれてもいいと思うのだけどね」
 アムロは反論の言葉を探し、見つけきれずに唇を噛んだ。息苦しい。
 顔を歪めるアムロの背を押す一言が欲しい。
 シャアは、ゆっくりと口を開いた。

「君が必要だ。私には」

 果たして、その言葉は発せられた。期待した通りに、期待した声音で。
 アムロは詰めていた息をゆっくりと長い時間をかけて吐き出す。
 望んだことはなかった。だが、実際に耳にすれば、ひどくストレートに心の奥へと染み通っていく。
 涸れ切っていた土に、雨の染み込む様に。
 指先がやっと、アムロが望むところまで伸ばされる。
「君に許されるなら……君の側に居たい。君の側に居よう、私は……動ける様になったなら、必ず私から君の元へ行く」
 十四年の時間を超え、言葉を換えて繰り返される。
 アムロは上を仰いだ。
 ここまで、本当に遠回りをしてきたものだ。シャアが何も分からなかったばかりに。
 届いた指先に魂を撫でられる。そんな心地がして、ゆっくりと首を振った。
 シャアに自分が浚われていく。それを厭だとは思わなかった。
「ララァが喜ぶからか?」
「違う」
「じゃあ、俺がNTだからか? 政治や、軍を治める者として、俺を同士に迎えたい?」
 昔はそう言って誘われた。そして、断った。
 今シャアがそう考えてはいないことを感じつつ、アムロは確かめる。
 シャアは、即座に否定した。
「そうではないことは、もう先に言った。私が、私個人として君を欲している。君が欲しい。君に……君だけに、側にいて欲しい。君の側にいたい。私達は分かたれた翼だ。共になければ羽ばたけない」
「言葉を飾るな。胡散臭い」
「愛している」
「っ」
 直ぐ様言い換えられた言葉に、アムロは息を呑んだ。
 顔を見ることが出来ず、一層上を向く。
「愛しているんだ、アムロ。君を」
「錯覚だ。そんなの」
「確信がある。今の私の世界には、君しかいない。そのことに例え様もない喜びを感じている。君のことだけを考えていればいい。君のことだけを覚えていればいい。それは本当に甘美なことだ」
 血の気はなく冷たいというのに、言葉が、視線が、堪らない熱を伝えてくる。
 熱い。
 しかし嘗ての様な業火のイメージとは程遠いものだ。
「あつ……い……」
 触れた掌から移ってくる熱に浮かされて、うわ言の様に口走る。からからに口が渇いていた。
「君が私を愛していると自覚してくれるまで、私は何度でも君に誓う」
 口を塞いでしまいたい。整った薄い唇から発せられる音は、甘い毒の様だ。

 口を開いて舌を覗かせると、すぐさま口付けてくれる。
 アムロも最早抵抗しなかった。求めているのはお互い様だ。
「……ん……っ……」
 絡めた舌から雫を受け、乾いた口内が潤される。
「あ、ふぅ……っ」
 一回り違う大きな手に股間を包み取られ頤が跳ね上がる。弾みでシャアの唇を浅く傷つけたが、自業自得だ。
 微かに漂う血の香りに一層煽られる。傷つけたところを舌で探り、見つけ出して吸い上げた。
「っ……アムロ……」
 痛みでも、快楽でも、アムロが齎してくれるものなら、どんなものでも構わない。意識の外に追いやられるくらいなら、どのような意味であってもアムロがこちらを向いてくれるならそれでいい。
 ずっと、そう思ってきた。
 素直に自分を受け入れてくれるアムロというものが、稀有で仕方がない。夢を見ている心地だ。
 少しでも無理をしたら目が覚めてしまうかもしれない。それが怖い。
 七年前、同じ陣営に立った時に一度だけ、アムロが全てを許し受け入れてくれたことがあった。もう一度、あの時のようになれたなら……。

「アムロ」
 その名を呼べることが至福。厭でも声音が甘くなる。
 アムロはそれを聞いていられず、手入れのいい滑らかな頬に手を添えて一層シャアに噛り付いた。
 吐き出し、吸い込む息すら互いのものだけで埋め尽くしてしまいたい。絡んだ舌も、触れ合う掌も、いっそ、身体さえ。
 それが何よりの望みの筈だ。
 身体の境界をなくしてしまって、全てが唯一つに解け合ってしまえば……。ララァも含めて、三人で。そうすればきっと、何より望ましい結果になるに違いなかった。
 死んでしまえばよかったのだ。二人揃って。そうすれば、その望む結果を迎えられた筈だ。
 しかし、生き残ってしまった。そしてこうして身体を繋ぎ、それを悦んでさえいる。
 赦されていいものだろうか。今のこの二人の間に、ララァはいない。ララァを挟まずして、何故悦びを得られるのか。
「く……っぅ…………」
 ララァがいないのに悦ぶことなど有り得ない。あってはならない。
 アムロはシャアから手を放し、顔を背けようとした。しかし反対にシャアに頬を捉えられ、一層激しい口づけを受ける。
「っぅ…………」
 シャアの片方の手がゆっくりと、アムロの身体を弄っていた。身を捩り逃れようとするが、意味のない行為だ。熱い掌が背を撫で、腰の窪みに降り、尻の丸みを楽しまれる。唇から受ける感覚と、その手の齎す感覚とが、どうしようもなくアムロを煽り立てていた。
「ぁ、……ふ……」
 僅かに与えられた息を継ぐ間に、アムロは緩く頭を振った。このままではいけない。流されてしまう。
 ララァがいないのに。
「……や…………だめ……だ……」
「何が。私達は、何よりお互いを欲している」
「ラ……ラ……が……いない……っ」
「いる。ここに」
「貴方に……何が、」
「分かるさ。感じられなくとも……いない筈がない。彼女は、何時でも私達の下にいる。それが、彼女の望みなのだから。……そう気付かせてくれたのは、君だ」

――私は貴方達の間にいたいだけ――

 夢の中のララァの姿が脳裏に瞬く。
「っ……な、何……で…………」
 この男がララァに会えている筈がない。だというのに、何故分かるのだ。
「私達は、半分なのだろう? 人として不完全だ。半分は、既にララァのものになってしまっているのだから。なら、私達は二人でいなくては、私達のみならず、ララァも完全ではいられない。君が言った言葉を、私なりに解釈したのだが、何か違っているだろうか」
 優しい声音だった。アムロ堪らなくなってシャアの頭を掻き抱いた。
 伝わっている。正しく。溢れる涙を止められない。
 ララァは許してくれるのだろうか。幸せを感じてしまうことを。
「アムロ……愛している。ララァも、君を愛していたよ。きっと」
「…………貴方のことを、愛していたんだ。彼女は……」
「欲張りだからな。私達を愛してくれているのだ。愛し合う私達を、愛してくれている。そうだろう?」
「……そんな事……あっていいものか……」
「構わない。ララァは、そういう女だ」
「そんな、都合のいい」
「そうでなければ、私はまだ、彼女と繋がった君を憎まなくてはならない。だが、それを彼女が望んでいるとは思えないのだ。……さあ、アムロ。君の手を、私の背に回してくれないか」
 手が滑るようにアムロの右腕を撫でた。指先が布越しに、微かに残る傷痕に触れる。アムロは身体を震わせた。痺れる様な熱が走る。
「っ……や……厭だ……っ……」
「……私に、触れてくれ」
 永遠の傷痕。俯いたら見えるのだろう。美しい顔の、その額に。アムロは顔を上げたまま動けなかった。
「っ……」
 ふいにシャアが動く。僅かにアムロの身体を離し、その唇が右の上腕に触れる。
「ふ、ぁ……っ……」
 慈しむ様な口づけを受ける。性感とは異なる、至福の悦楽がアムロを包んでいた。
「ぁ……あぁ…………」
 慈しまれている。シャアに。
 身体を浚われて行く。身体だけではない。心までも……。

「っゃ…………やめろっ!」
「アムロ!」
 渾身の力でシャアを突き放す。
 シャアの膝から降り、かたかたと音が鳴るほどに身体を震わせている。シャアはアムロに手を伸ばしかけ、しかしぎりぎりのところで諦めて手をアムロから完全に離した。
「…………アムロ……私は、」
「黙ってろ! 何も聞きたくない!」
「……君がこんなに、臆病だとは知らなかった。勇敢な君しか、私は見てこなかったから」
 そのまま幻滅してくれればいい。
「それでも、愛している。それだけは変わらない。私は、君の全てを愛することが出来る自信がある。……幾度言えば君に伝わるのだろうな。この真実の全てが」
 シャアの腕が後ろから回され、アムロの身体を抱きすくめる。切に囁かれる、シャアの声は狡い。
「……一生、信じない」
「……そうか。…………ああ…………」
 耳に触れる息の隅々までもが喜びに満ちているのが伝わる。
 一生を誓う、その言葉はシャアにとって何より聞きたかったものだ。
 アムロから、一生愛を囁き続けることを許された。それを喜ばない筈がない。
「愛している」
「うるさい。信じないって、言ったろ」
「ああ。……愛しているんだ、アムロ。君が信じるまで、言い続けて構わないのだろう?」
「黙れったら!」
「愛している。アムロ」
 一切を隠さぬ声音が、取っている距離以上に近く耳へと注ぎ込まれる。ぞくぞくとした震えが背筋を走った。悪寒……そう思いたいが、震えは腰元に蟠り、切なさにも似た疼きを齎す。
 本当に、シャアは狡い。

 愛されたことを覚えている。
 愛したことを覚えている。
 もう、随分と昔のことなのに、身体も……心も忘れていなかった。
「君を……愛している。どう愛すれば、君が受け入れてくれるのだろうな……」
「俺だって、知らないんだよ!」
 シャアが求めているのと同じものを、アムロだとて求めているのだ。アムロにだとて、足りていないのだ。
 不足しているのに、何をどうしてシャアに渡してやれるだろう。
「俺だって愛されたいんだ! 愛したいんだよ! だけど、愛し方なんか知らない。愛され方だって知らない! 貴方に何を求められたって、答えて何かやれるわけないだろう!」
「アムロ」
「欲しいなら命だってくれてやる。その覚悟はもう大分前にした。だけど、それ以上のものなんて、俺は何一つ持ってないんだよ」
「アムロ……」
「殺せよ。俺が欲しいなら。早く!」
「…………命など要らない。私の命を君に受け取って欲しいとは、願ったが。……それは…………今君が言った様に、私にも分からないからだ。この命の他に、君に捧げられるものが何一つ分からない。愛しているのだ。それは分かっている。君のことを、心から愛している。しかし、その為に私が君に何をすればいいのかは分からない。だから、私は……私に考え得る最大の贈り物を君にしたかった」
 それは多分、とんでもない過ちだったのだが、それでもその時の自分には他に方策がなかった。
 考えられ得る最大の贈り物にして、最大の罪悪。その代わりに得られる筈だった、永遠の平和。地球。宇宙。その全て。
「俺を殺せもしない男を、愛せるわけないだろう」
「私は君に殺されたい。それ程に君を愛している」
「貴方を殺して、俺にどうしろって言うんだ。貴方を背負って生きて行けとでも? 冗談じゃない! 貴方は愛している相手に、そんなくだらないものを背負わせるのか。それが、貴方の愛か」
「私の全てを君に捧げるには、それしかないだろう。私という存在の全てを君に」
「貴方なんか……欲しくない」
「それが口先だけのものであるのは、もう分かっている。……私は、君の欲しいものを全て与えてやれる。私を手に入れたら、君は思いのままに生きていくことが出来るだろう。私自身を欲していると言ってくれなくとも構わない。私に付随したもの、そのどれか一つでも君に有益なものがあるなら、それだけで私は満足なのだ。金でもいい。地位でもいい。そうだ。あのνガンダムというのを、更に手塩にかけてバージョンアップしてもいいのだよ。軍の予算の様にけち臭いことなど言わない。君はああいったものが好きだろう? データは入手しようと思えば入手できるだろうし」
「……あ、貴方と戦わないのに、あれ以上いい機体なんか要らない……っ」
 アムロが揺らいだのが分かり、シャアは微笑んだ。戦いなどなくとも、よりよい機体を作ってみたいと思うものだろう。アムロは優れたパイロットである以上に、根っからの技術屋だ。金に糸目をつけず心行くまで好きにできる……それは、かなり心も揺らぐことだろう。
「……要らない、んだからな……」
「おやおや、随分勢いがなくなったな」
 堪え切れず、吹き出してしまう。アムロの反応は実に可愛らしいものだ。シャアのことはともかくも、潤沢な資金の下での研究開発には心惹かれざるをえない。
 しかしアムロは口をへの字に曲げ、眉を吊り上げてしまう。
「うるさいっ! どうせ、その代わり、って言うんだろ」
「言わないよ。見返りを求めるものを、愛とは呼ばない。…………ああ……しかし一つあるかな」
「何だよ」
「君の喜ぶ顔が見たい。嬉しそうな顔が見たい。そういえば、まだ一度も見た事がないのでね」
「当たり前だろ。貴方の前でそんな顔できるわけがあるか」
「だが、大好きなものに触れていれば、君だって厭でも頬が緩むだろう? その顔を見たいな。きっと、素晴らしく愛らしいに違いないから」
「貴方に笑いかけるわけじゃなくていいのか」
「それが一番嬉しいが……多くは望まないよ。君の中で私の優先順位が、機械の類を上回ることがないだろうのは、分かっているから」
 優しげに微笑みかける顔に、アムロは眉を顰めた。
 νガンダムはシャアを止める為に……シャアを殺す為に作った。シャアはそれを分かっていない。アムロはシャアを睨む。分かった気になっているが、本当に何一つ理解していない男だ。
 本来なら、手塩に掛けた機体はハロと同じく、子供にも等しい愛おしいものだ。それを駆って、自由に飛び回るだけならいざ知らず、戦いたいわけがない。人を殺したい筈などない。
 シャアを殺す為に作られたMSは、その作られた瞬間から決してシャアの存在を上回ることがない。
「νはもう……俺の手から離れた。俺には何も残ってない」
「なら、一から作り上げればいい。君が欲しいと思うものを、じっくりと、時間をかけて。……私達の関係と同じだ。君に愛していると伝えた。君は、それを受け入れないにしても許してくれた。私達はここから関係を積み上げていくのだ。スタートラインに漸く立てた」
 アムロの手を取り、軽く引く。素直に近寄ってくれるアムロに、シャアは嬉しげに頬を緩めた。

「君を抱きたい」
 取った手の甲に恭しく口付ける。対するアムロはにべもない。
「承服できると思うか」
「……いや。分かっている。無理強いをするつもりもない。今の私では、君の強力なしには何も出来ないだろうしな。だが、望みを口にするくらい、許されてもいいだろう?」
「聞きたくもない。もう少しまともなことは言えないのか?」
「……困ったな。愛していることの他、君に伝えたい言葉が見つからない」
「動ける様になったら、貴方から俺の所に来るんだろう? 俺は、協力してやる気なんかないけど、貴方の方が、腕力はあるんだし、無理矢理押し倒してみせろよ」
「素晴らしい挑発だな」
 手を軽く振ると、シャアは抗わずアムロを解放した。
 時間はある。許されている。

 アムロは、シャアに背を向けた。
「じゃあ、もう行くから」
「何処へ」
「もう俺の身体は大丈夫だから、この近辺にいる必要はない。引っ越す。セイラさんが、家の一覧が上がってきたって言ってたから……数日中には」
「……そうか」
「貴方の顔を二度と見ないことを祈ってる」
「ああ。必ず行くよ。君が何処にいようとも」
「安心しろ。宇宙には行かないから」
「ありがたいなそれは。昔の女に会わなくて済む」
 セイラが用意する家では、すぐにシャアにも知れる。
 逃げるつもりはないのだ。
 もう、その必要はない。


 ひと月が経った。
 アムロはブライトを通じ、漸くに軍から身を退くことが出来た。
 随分揉めたのだろうことは、辞表の提出からブライトの返信が来るまでやたら時間が掛かったことからも想像が付く。
 まだアムロを手放したくなかったのだ。敵など、いなくなったに等しいというのに。
 ただ、ブライトが奔走してくれたお陰で何とか退役することが出来た。先の抗争の立役者であるブライトは、多少発言権を強めていることも幸いした。

 セイラが用意してくれた中でアムロが最も気に入ったのは、旧世紀の地名で言うならフランスとベルギーの国境近くにある田舎町だった。
 田舎町ながら古い街道に沿っていて、人の出入りが少なくはない為にアムロの様な余所者でも居づらくはない。
 初め用意された家は、家と言うよりシャトーと呼ぶべきものだったがそれは頑なに固辞して、アムロの望む快適な一人暮らしに丁度いい、2DKの集合住宅に居を構えた。
 それなりの蓄えはあったが、子供の頃とは違う。職もなくふらふらとしているのは多少気が引けて、町の小さな電気工事業者に雇われることにした。仕事は多いわけではないが、元々贅沢をする質ではない。蓄えを切り崩さなくても生きていける程度の収入はある。アムロにはそれで充分だった。

 そうして新しい生活を漸く始めて、間もない頃。
 アムロを訪ねて一人の来客があった。

「家政夫を募集しているのだが」
 片手にした瀟洒な杖に身体を預け、帽子を目深に被ってサングラスをした男は、アムロが知っているより幾分早口でそう告げた。
 後ろには医療スタッフと思しき男が二人付き添っている。軍人などではないことは気配で分かる。まだしっかりとは歩けない癖に、多少動ける様になったからと無理を通したのだろう。
 予告通りの行動だが、こう早いとは思っていなかった。
「ふぅん」
 気のない返事を返す。シャアは苦笑した。返事の割りに、アムロが酷く緊張しているのが分かる。
「君も暫くは大人しくしているのだろう? 退役したとは言え、君は少しばかり有名人だ。動きづらいのではないか?」
「まあな。貴方ほどじゃないけど」
 猫の様だ。神経を尖らせてシャアの様子を伺っている。
 可愛らしいものだ。口元が綻ぶのを抑えられない。それを見た途端に一層アムロの様子が険しくなったが、それさえも可愛らしくてならない。
「……どうかな。君の料理の腕はなかなかだと聞いている」
「報酬は?」
「君の望む全てを」
「俺の条件を呑む?」
「ああ。君が、この仕事を請けてくれるのなら」

「一つ、住み込みはしない」
「ああ」
「二つ、するのは食事の支度と後片付けだけ」
「了解している。君が掃除や洗濯などが得意でないことは聞いている。……この玄関にいるだけで、無理は分かる」
 覗き込める玄関から先は、既にかなりの有様となっている。得体の知れない布の塊や書類の切れ端、元が何だったの分からない小さな機械パーツなどが、ドアを開けて一歩踏み込んだ先から散らばっていた。
「三つ、一緒に食事はしない」
「……残念だが、片づけまでは一緒にいてくれるのなら仕方がないな……」
「四つ、俺がいる時に誰も呼ばない」
「君の知り合いもかい? 例えば、アルテイシアだとか」
「……それはいいよ。俺の知らない人は却下」
「分かっている。君を誰にも見せたくはない」
「……五つ、仕事は、週に一度」
「毎日」
「……厭だ」
「毎日来てくれなくては、私は三食食べられないことになってしまう」
「……五日に一度、作り置きしてやる」
「毎日だよ、アムロ。それだけは譲れない」
「…………三日に一回。十分だろ」
「……二日に一度。これ以上は私も譲歩できないな。季節によってはそれでも不安だ」
「………………二日、に一度。……分かったよ。五つ、仕事は、二日に一度」
 アムロは一つ大きく溜息を吐き、シャアの要求を呑んだ。しかし、これ以上の譲歩は御免被る。
 きっとシャアを睨み上げる。
「ただし、来るのは昼だけだ。二日に一度、昼だけ。他は作り置くから」
 シャアは悲しそうに眉を顰めたが、反論はしなかった。精一杯の譲歩に対してこれ以上駄々を捏ねて、アムロの機嫌を損ねるのは望ましくない。
 時を重ねて、アムロの態度が和らぐのを待つしかないのだろう。
 時間ならたくさんある筈だ。
「六つ、俺に触れないこと」
 まだ続くのか。
 シャアは少し気が滅入って来るのを感じた。つい恨みがましい言葉を呟いてしまう。
「私はまだ上手くカトラリーを握ることが出来ない。食べさせてくれないのか?」
「触る必要ないだろ。触れるのは、カトラリーの先と貴方の唇だ」
「口移しは」
「却下に決まってるだろ!」
「……冷たいな」
「この話、なかったことにしてもいいんだぞ、俺は」
 シャアから頼み込んできていることだ。アムロは何処までも強気になれる。シャアは、渋々了承の吐息を洩らすしかなかった。

「七つ、」
「まだあるのか?」
 とうとうシャアは声を荒げた。しかしアムロはそれを無視して続ける。
「七つ…………俺に断りなく何処にも行かないこと」
「っ」
 静かな瞳に睨まれ、シャアは息を飲んだ。
 アムロの表情は大変に厳しく険しかったが、その表情の殆どが己の故にそうさせられているものだと、さしものシャアにも分からないではない。
 これが、最も重要な条件であることは痛感せられる。
「……側にいて欲しい、とは言ってくれないのだな」
 分かってはいる。そんな甘いことを言ってくれる筈はない。
 案の定、アムロは吐き捨てる様に言った。
「貴方が勝手に動いたら、後で迷惑を被るのは俺なんだからな。俺の許可なく動くな。来客も、全部俺に知らせること。これは、相手が誰であってもだ。ジオンの人間だろうが、俺の知ってる人間だろうが、関係ない。止めないから……隠すな」
「ジオンの人間と会うことも、止めないのか?」
「止めたって無駄だろ。別に誰が来たって連邦に伝えたりしない。だから、隠すな。絶対」
「隠さなかったとして……そして、ジオンの人間が来たとして、だ。私を誘い、私が承諾したら、君はどうする」
「……貴方の息の根を止める。今度こそ」
 アムロの言葉に迷いはない。もう幾度もこうして思い切ってきたが故の潔さが滲んでいた。
 決意の程は知れるが、それでもシャアは訊ねざるを得ない。
「一緒に来てはくれないのか?」
「……馬鹿か」

 シャアの息の根を止める。果たしてその後まで、アムロは生きているだろうか。相打ちになる覚悟はもう幾度も塗り重ねてきている。
 それでも、一緒にいくという一言は出てこなかった。
 行く……逝く。
 自分が死ぬならシャアの手に掛かるだろう。その他はありえない。そして、自分は、シャアには負けない。
 負けてはならないのだ、今更。

「一緒になんか行けるか馬鹿。俺は、貴方を殺すんだから」
「……君に、それは出来ないだろう? 私の方が先にララァに会うのは、許せないのだから」
「死んだところで、貴方がララァに会える保証が何処にある」
 アムロと一緒にいなければ、ララァに会えもしないのはシャアだ。
「確かめに逝けばどうだ?」
「君まで含めなくては、私に充足はないよ」
 側にいたいのはシャアだ。アムロではない。なら、シャアは何処にも行けない筈だ。アムロが、ついて行かないなら。
「君もララァもいないところへ行くのは、怖いな」
「死ぬことなんか、怖くもないくせに」
「怖いよ。君は怖くないのか?」
「貴方を止められないことの方がよほど怖い」
「命を落とすことより?」
「…………ああ」
 返答を聞いて、シャアはどうしようもなくアムロに口付けたくなったが、アムロはくるりと背を向けてしまった。
 口は可愛らしくないことを言うが、態度には大方が滲む。シャアは目を細め、アムロの背中を見詰めた。
 もうそれなりの歳だと言うのに、アムロの容姿は未だ何処か少年のままのようだ。背幅も狭く、肩や腰の辺りには華奢な感が否めない。
 戦いの最中に会うのでなければ、こんなにも内向的で柔和だ。そのギャップが愛しい。

 シャアを受け入れてくれているのは、気配で分かる。しかしそれを認めない。頑固なものだが、そんな様すら愛おしかった。
 素直ではないのはお互い様だ。
 アムロへ手を伸ばす。アムロは距離を取ろうとはしなかった。腰の辺りへ指が触れる。ひくり、と身体が震えたのが見て取れた。分かりやすい。
「……君から離れはしないよ。もう……二度と。この身体では何処にも行けない。それに、ジオンの誰が来ようとも、君ほどに私を惹き付ける人材など居はしないのだから。君が私の側に居る限り、私の方から離れることなどない。君も……私が君の側に居る限り、君から離れることはないと言ってくれたな」
「貴方に首輪をつけられるなんて、思ってない」
「君に飼われるなら、それもいいな」
「待ても覚えられないくせに」
「君が懇切丁寧に調教してくれたなら、覚えられるかもしれない」
「覚えが悪いのなんかいらない」
 まるで犬扱いだが、それには納得する。ペットなら、何もしなくても、何も出来なくても飼い主に可愛がられる。アムロに飼われるならそれはそれで構わない。
「責任を持って飼ってくれ」
「飼うならももっと小さくて可愛くて頭がいいのを飼うよ」
「君より? いるかな、この世の中にそんな生き物が」
「そんなの、幾らだっているさ。それより……半野良の猫みたいに、勝手に何処かに行ったら許さないからな」
「私は私の望みで君の側に居ることを選ぶ。恐らく気が変わることはないよ」
「恐らくじゃ駄目だ。……絶対って言え」
 言葉に強制力などない。証文を書かせたところでそれは同じだ。それでも、他に縋れるものがない。
 どれ程不確かであっても、言葉が欲しかった。
「絶対、か。……物事に100%はないものだ。君に対して御為ごかしは使いたくない。……だが、私に出来得る、可能な限りの努力はする。その努力については、「絶対」と言える。それでひとまず許してくれないか」
「嘘も吐いてくれないのか」
「もう一生分の嘘は吐き尽くした。君に対しては正直でいたい」
 アムロは深く息を吐き、シャアに向き直った。
 真っ直ぐに見詰め合う。お互いの瞳に嘘はない。

「…………条件を呑む? 呑まない?」
 答える代わりに、シャアは杖に縋りながらアムロに近寄った。アムロは動かない。
 片手は杖から放せないまま、もう片方の手をアムロの背に回す。アムロは動かない。
 縋る様に抱き締める。癖毛の頭に擦り寄り、アムロの存在に感じ入る。アムロは動かない。
「……他愛もない条件だ。勿論、受け入れる。これで、契約成立だな」
「貴方の家は、この町のシャトー?」
「ああ。初めから、君の居る町に住むつもりで居る」
「仕事は、明日からでいい?」
「ああ。引っ越したばかりでね。まだこちらも片付かない。数日は後ろの彼らが居てくれるから大丈夫だ」
「数日、って……その後は一人で暮らす気なのか?」
「だから君が必要だと言っている」
 今まで一人で暮らしたことがある様にも思えない上に、この身体で何を考えているのか。
 呆れとも諦めとも怒りともつかない溜息を洩らす。
「条件にも合うだろう? 君の知らない人間とは、会わない」
「…………馬鹿だ」
「今更、だろう?」
「……っ……」
 腰を引き寄せ、上から顔が降りてくる。どうされるのかが分かって、アムロは強く目と口を閉じた。くしゃりと歪んだ顔にシャアは苦笑を抑えきれない。
「そういうところが可愛らしいのだ」
 啄む様に何度も口付けると、そのうち口元から力が抜ける。空かさず舌先で唇を抉る。アムロは抗わなかった。舌の進入を許し、受け入れる。
「ん……っふ……」
 証文に印を搗くより確かな証。
 アムロもシャアの背に両腕を回す。
 他人が見ていることなど、最早どうでもよかった。それは、この契約の証人である。

 このスタートラインに着くまでに十四年も掛かってしまった。
 漸く始まった。始めることが出来た。

 二人の時間は、今揃って動き始める。


作  蒼下 綸

←Back

戻る