玄関の呼び鈴が鳴り、ファは疑いもせず返事をしてドアを開けた。
 昼下がり、そろそろ郵便がきてもおかしくない時間だ。
 しかし、

「あ……あら……どなたですか?」

 嫌な気配はしなかったのだ。だが、開けたドアの向こうに立っていた見知らぬ人物を見て眉を顰める。
 前にカミーユと、旧時代の名画を見ていたときに、似た様な風体の人物が出てくるものがあった気がする。
 それは、黒ずくめの男だった。
 コート、スーツ、ネクタイから、サングラスに至るまで、全てが闇の様だ。

「カミーユさんはおられますか」
「いいえ、今はいませんけれど……どなたですか?」
「さるお方が、カミーユさんをお呼びです。今はどちらに」
「さるお方……誰ですか」
「申し上げられません。どちらに」
「……誰が呼んでいるのかも教えてくれないなら、居場所なんて言えません」
「貴女にも縁のある方の、お身内です。先の抗争に関連します」
 ファは胸を鷲掴みにされた気になって身を固まらせた。

 先の抗争……あの男が、まだカミーユを惑わすというのか。

 死んだとは思っていない。カミーユの様子からそれは分かるのだ。アクシズが去っても、カミーユは平静で、冷静だった。
 あの男やアムロが死んでいたら、カミーユに何らかの影響がある筈なのだ。それもなく、カミーユはただ中継映像を眺め、そして光が消えるのを見届けてテレビを消した。

「カミーユには伝えます。だから……帰ってください!」
「暫くこの町に滞在します。連絡を」
 ホテルのカードに重ねて名刺が差し出される。ファが受け取ると男は一礼してドアから離れた。
 身のこなしはまさしく兵士のものだ。酷く不愉快になって、ファは勢いよくドアを閉めた。

「ただいま」  部屋が暗い。もう随分日が落ちているというのに、灯りが入れられていない。
「ファ、いるんだろ?」
 灯りを点ける。
 部屋はいつもどおり綺麗に片付けられていたが、何かがおかしい。明確な言葉にはできないが、いつもと雰囲気が違うように思う。
「出かけてるのか?」
 しかし気配はある。

 部屋を一つずつ確かめる。
 リビングにはいない。繋がっているダイニングにも、台所にもいない。バスルームにも明かりはない。
 書斎。その奥のベッドルーム。

「ファ?」
 明かりを入れて部屋を見回す。カーテンも引かれていない。窓に近寄って、一瞬足を止めた。
「……いたのか。どうかした?」
 窓とベッドの間で、膝を抱えて丸くなっている。腕を取って立ち上がらせようとすると、その手を振り払われた。
「何かあったのか?」
 首が緩く横に振られる。しかし、何もないという様子ではない。
「泥棒にでも入られたのか?」
「……いいえ」
 ファはゆっくりと立ち上がり、しかしまたすぐにベッドへ腰掛けた。
「ごめんなさい。お夕飯、まだ作ってないわ……」
「食べに出ればいいよ。それより、何があったんだ?」
 隣に座り、顔を覗き込む。頬に触れるとひどく冷たい。
 ファの顔が歪み、すぐに顔が背けられる。
「ファ?」
 握った拳が膝の上で震えている。その指の間に白いものが見えた。
 そっと、しかし抗い難い力で細い指を開かせる。力の強いカミーユには雑作もないことだ。
 取り上げたものは紙だった。
「これ、何だ」
「…………人が来て、置いていったの。貴方を呼んでいるって……」
「誰?」
「知らないわ! だけど、あの人に繋がる人だって!! ねぇ、カミーユ、貴方、もう何処にも行かないわよね!? そう、あたしに約束してくれたわよね!?」
 ファは堪らなくなってカミーユに勢いよく抱き付いた。背に腕を回し、唇に唇を押し当てる。
「ぅ、ん、っ」
 ファのするに任せながら、カミーユは紙を見た。皺になった硬く小さな用紙が二枚。一枚はこの街にあるホテルの住所や電話番号の書いてあるもの。もう一枚は、名刺だった。
 何やら財団の名前と、財団代表の名前が印刷されている。その名前には、何処かで見覚えがある気がした。
「ん……ふ……」

 どちらからともなく甘い音が鼻から抜ける。
 戦いの前には、どちらかに与したいなら止めない、そう言ってくれていた。しかしもう全てが終わったと思っていたところへの不意打ちに、最早堪えられなかったのだろう。
 これ以上自分達を惑わせて欲しくない。しかしその為にはもう一度会って、完全に決別することが必要だとも思えた。
 一頻り舌を絡め、ファが弱々しい息を継いだところで僅かに離れる。
 離れたことが一層不安で 堪えられない。カミーユの胸に顔を押し付ける。

「……この財団についてちょっと調べてみよう。考えるのはそれからだ」
「厭よ!」
「ファ……」
「調べても、そうでなくても、どうせ貴方は行っちゃうんでしょう!?」
「行かないよ、どこにも」
「嘘!」
「嘘なんか言わない。君がここにいるのに」
「でも、行くでしょう!? あの人が呼んでるなら、」
「行ったって、すぐに帰るよ。君がいるんだから」
 顔を上げさせ、冷たい頬に軽く口付ける。僅かに塩気がした。
 本当に、あの男が絡むと碌なことにならない。もう二度と泣かせたくないのに。

「ファ、君も一緒に来て欲しい。君が会う必要はないから、俺の傍にいて。それで、あの人に最期のさよならを言って、一緒にこの家に帰ろう。俺の帰るところはここだけなんだ。あの人にはアムロさんがいる。俺の出番なんかどこにもないのに、あの人達はお互いから逃げてばかりだ。それでこんなにも回りに迷惑ばかりかけて、馬鹿馬鹿しいったらない。結局、殺せもしないし殺されもできなかったくせに」
 指の背で目元を軽く拭ってやる。ファは漸くカミーユを見た。
「俺は君に嘘なんか吐かない。何処にも行かないよ。ただ、あの人達がまだ立ち止まってて、周りを惑わせ続けてるなら……誰かが引導を渡してやらなくちゃ。もう、みんな楽になっていいんだから。分かるよね、ファ」
 真っ直ぐに瞳を見る。漆黒の瞳は見る者の姿を良く映す。
 カミーユの表情に嘘はない。
「…………分かったわ。あたしも行く。あの人に会うのは厭だけど……貴方がちゃんと帰ってきてくれる様に」


 使いを遣って何日か経ったある日、カミーユは、本当にやってきた。
 ますます冴え渡る美貌をしてアムロの前に立ち、睨む。
 その顔に、カミーユが未だシャアを気に掛け、愛していることを知った。カミーユなりに。
 苛立ちを感じたが、彼を呼んだのはこちらだ。帰れとはもう言えない。

「貴方がカミーユね。話は聞いています。ごめんなさいね、わざわざ来て頂いて」
「……いいえ。初めまして。僕は、今大学の医学部で学んでいます。研究の役に立つこともあるかも知れない。だから……来ました。それだけです」
 セイラの差し出した手を取り、甲に軽く口付ける。
 カミーユはセイラの顔を真っ直ぐには見ない。あまりに似すぎているその顔を見るのが辛いのだろう。代わりに、ひどく剣呑な目つきでセイラの後ろに立つアムロを睨見続けていた。
「貴方が厭なら、すぐに帰って頂いて構わないのよ。ただ……貴方が、兄さんを好きでいてくれるなら、少しあの人とお話しして頂けないかと思って」
「……あんな人……。僕は、あの人に拒絶された人間です。それなのに……」
 アムロを睨む目に、一層の険が宿る。
「兄が貴方を呼んだのではないの。私達が何かに縋りたかったのね。本当に……ごめんなさい……」
「貴女が関係ないのは分かってます。アムロさんでしょう、こんな……残酷なこと」
「……貴方も残酷ね。兄が惹かれる人って、みんなこうなのかしら」
 微笑みながら言われ、カミーユは顔を上げていることも出来ない気持ちになって顔を伏せた。所在無く床の目地を見つめる。シャアに似た顔が歪むのを見ていられない。
「アムロもそう言ったわ。私は関係ない、って。でもそれは、とても残酷で冷たい言葉よ。ただ一人の肉親である私が、関係ないなんて」
「……すみません」
「……いいわ。素直な人ね。それに、兄さんのこと、嫌いではないわね。……アムロ、あとは貴方にお任せします。私は関係ないのだから、ここで大人しくしているわ。でも、この子はちゃんと帰してあげて。いいわね」
「ええ……」
 アムロは酷く顔を歪めた。その気配が分かって、カミーユは再び顔を上げアムロを睨む。

「貴方が居るのに、何で僕を呼んだんです」
 きつい瞳だ。昔と変わらず、宇宙から見る地球と同じ色の瞳をしている。
「ここには医者の手も足りているし、妹さんが居て、貴方が居るのに、何で今更僕を」
「君の方が適任だ」
「貴方の他に適任者なんて。……それで、何で僕が呼ばれたんです。あの人はどうしているんですか」
「今は眠っているかな。…………あいつが、君をどう認識するかは分からない。僕と同じか、セイラさんと同じか……」
 その言葉にセイラの顔が泣きそうに歪む。
 カミーユは一層眉を吊り上げた。シャアに似た顔立ちが歪むのは見たくない。女性の泣き顔なら一層だ。
「どういう意味です」
「今日一度会って、明日またもう一度会ってくれれば分かる。……部屋に案内するよ。取り敢えず荷物を置いてくれ」

 アムロは先に立ってカミーユを案内する。セイラは最早ついてこなかった。
「貴方は、責任を放棄するんですか?」
「……そう受け取って貰って構わない。もう僕には……限界だ」
 殺すことも出来ない。その覚悟はとうに、アムロにはついていた筈だ。シャアにも、殺される覚悟は出来ていた。
 カミーユを迎えに来た黒ずくめの男から、現在のシャアについてはごく簡単に聞いた。記憶が持たないと。そして、その中で何故かアムロのことだけは覚えていられるのだと。
 医術に従ずるものとして、その症例は興味深い。専門には脳神経を扱うよう目指している身だ。
「言っておきますが、僕は……クワトロ大尉の同僚としてここに来たんじゃありません。医者の卵として、この症例が興味深いだけです」
 それでいい、そう告げるとカミーユは燃える様な目でアムロを睨んだ。

 パイプベッドとデスクが一組あるだけの殺風景な一室に案内する。全てを確かめるには、一日では終わらない。一泊する必要はあった。
「この部屋を使ってくれ。……堪えられなければ、何時帰ってもいい」
「会ってみなくちゃ分からないでしょう。どのみち、すぐに帰りますよ。近くのホテルにファを待たせてるんです」
 ベッドの上に鞄と外套を投げ捨てる。
「さあ、会わせて下さい」
「ああ……」
 ここまで来たというのに、アムロは何処か歯切れが悪い。
 カミーユは薄い唇を噛んだ。アムロが危惧する様なことは、何一つない。ただ、自分の感覚を信じ、任せればいいだけの筈だ。
「……厭なんでしょう、本当は。貴方が心配している様なことは、何もないのに」
「俺が何を」
「あの人は貴方のものです。それを確かめたいだけなのに、わざわざ僕を呼んだりして……本当に馬鹿げてます。貴方とあの人と……それ以外の人はみんな傷つく結果しか待っていないのに」
「それはまだ分からないだろう。君は今のシャアに会っていない」
「その為に来たんです。なのに、貴方が躊躇うからいけないんだ」
「君を傷つけるのは本意じゃない」
「……分かってます。貴方が無自覚だって事くらい」
 促される視線にアムロは唇を引き結び、入ってきたばかりのドアを開けた。

「シャア、入るぞ」
「ああ……どうぞ。珍しいな。日に二度も来てくれるなどと」
 シャアの顔が喜色に満ちる。アムロは一瞥もくれず、ベッドの横へ椅子を運んだ。
「客が来た。貴方の症例に興味があるそうだ。医者だよ」
「……それだけではないな。何だ。…………懐かしい感覚だ、これは……」
 ゆっくりと身体を起こす。それを手伝わず、振り返ってカーテンを引く。
「何故閉める」
「この方がいい。貴方にも、彼にも」
 布に人影が映る。すらりとしたシルエットだが、背はそう高くない。
 シャアも知っている気配がしていた。冷たくも美しく、優しく、繊細な……。しかし、覚えのあるものより、印象が力強い。その一点が、シャアの記憶を曖昧にしてしまう。
「アムロ、これは」
 辛うじてといった体で身体を起こしたシャアの背にクッションを積み上げ、寄りかかれるようにしてやると、アムロは無言でカーテンの向こうに消えた。
「アムロ!」
 ドアが開き、そして閉じる音がする。カーテンの向こうの陰は消えない。アムロだけが出て行ったのは分かった。
 少し心細くなる。

「…………君は……私の知っている人物だな」
 微かにカーテンが揺れる。
「君に似た空気を、私は知っている。しかし……もっと、儚いものだったようにも思う」
 繊細で、美しく、儚く……壊れた。
 一年ほど前に再び会った時にも、その印象は変わらなかった。だが、今は……。
「…………カミーユ、か」
 ララァに似た瞳をしていた。地球に似た瞳をしていた。
 何より壊してはならないものだった。
「……カミーユなのだな。……力強くなったものだ」
 ゆっくりとカーテンが開かれた。

 どんな顔をすればいいのか分からない。
 カミーユは色のない表情でベッドの上のシャアを見下ろす。
 戸惑いを隠せないながらも向けられる柔らかな微笑を、どう受け止めればよいのかも分からなかった。
 ただ、シャアから血の匂いが消えていることに安堵する。
 この男は自分の知っているクワトロ・バジーナではない。そして、一年前に会い、その後も繰り返しテレビで見詰めたシャア・アズナブルでもなかった。
 どう呼びかけてよいものかも分からない。
「……よく来てくれた。まあ、座りたまえ。生憎この状態では茶も出せないが」
「……いりません」
「何を何処まで聞いてきた」
「アムロさんが話せるところまでは、聞いたつもりでいます」
「そうか」
「…………馬鹿だ。貴方も、アムロさんも。結局死にもしないで……二人でこんなところにいるなんて」
「君には、済まない事をしたと思っている」
 アムロが運んだベッド脇の椅子を指先で示す。
 カミーユは床を睨みシャアには一切視線を寄越さぬまま、そこへ浅く腰掛けた。

「貴方はどうして生きているんです」
「アムロが守ったからだ」
「アムロさんは、貴方を殺すつもりでいた。なのに、何で殺されなかったんです」
「何故だろうな…………私もそれは気になっている。だが、尋ねてもアムロは答えてくれない」
「貴方だって殺される気でいたでしょう? なのに、どうして」
「アムロが私を殺さなかった。とどめを刺せる状況にあったにも拘らず、アムロは私を殺さなかったのだ」
 殺してくれなかった。そう聞こえ、カミーユは両耳を手で押さえて蹲る。悲しそうな、嬉しそうな、そんな声を聞いていたくない。しかし、耳を塞いでも距離が近く、小さくても声は聞こえてしまう。
「今からでも遅くないですよ」
「君が殺してくれるかい?」
「僕はごめんです。貴方なんか、要らない」
「……そうか。……女がいるのだな、君には」
「もう籍は入れてます」
「ファ・ユイリィ?」
「ええ」
「それはいい。彼女は、私を憎んでいた」
 穏やかな微笑みを浮かべる。
 こういう男だった。そんな辺りは七年も前から変わりがない。
「アムロも酷いな。既婚者である君をこんなところへ呼んで」
「アムロさんも酷いけど、それ以上に貴方が酷いからですよ。貴方なんか、最悪だ。昔も、今も」
 久しぶりの罵倒にシャアは心から嬉しげに微笑んだ。
 可愛らしいものだ。以前と全く変わりがない。
 この心にもない罵声を愛おしく思っていた。カミーユが変わらないのと同じように、彼に対する感情にも変わりはなかった。

「私は…………君がこうして来てくれたことを忘れたくないな」
「いっそ、昔のことも全部忘れてしまえばよかったのに」
「……ああ、そう思うな。何も覚えていない方が、君達を苦しめずに済んだのだろう。なまじ昔を覚えているから、君達が辛い」
 手が伸ばされる。カミーユは僅かに逡巡を見せたが、やがてその手を取った。
 血の巡りが良くないのか冷たい。
 生きているのに、温もりを感じられないのが不安で少し強く握る。
「貴方は……辛くないんですか?」
「辛くはないな。考える必要のあることが、今の私には少ない」
「もっと早くやめてしまえばよかったんです。馬鹿な人だ」
「そうしたかったのだがね、私は」
「貴方がみんなに夢を見せたのが悪いんです。何でも出来る様な振りをして……貴方なんて、何も出来ないのに。嘘を嘘で塗り固めて……クワトロ・バジーナなんて名乗ってたときの方が、まだマシだった」
「どれだけ近くにいても……君やアムロの様に、シャア・アズナブルが虚構であることを理解してくれる者は少なかった。私自身は嘘を吐いたつもりなどないのだ。シャア・アズナブルは象徴の名となり、皆が共通の夢を見るための記号となった。一人歩きを始めた名前は私の手を離れ、とても制御しきれるものではなくなった。ただ、それに近付く義務が私にはあった。それだけだ」
 冷たい手が動く。どう動きたいのか分かって、カミーユは微かに眉を顰めながらも手を自分の頬に導いた。大きな手が昔の柔らかみを失った頬に添わせられる。
 カミーユの温もりが手に伝わったことに満足したのだろう。柔らかな微笑みが浮かべられる。

「カミーユ、君はやはり、ここにいるべきではないな」
「当たり前です。明日様子を確かめたら戻ります。アムロさんだって、それが知りたいんでしょうし」
「アムロか、それとは違うのか…………君がどちら側の人間なのか」
「僕がと言うより……」
 アムロが知りたいのは、自分だけが特別なのかどうかということだろう。アムロもシャアと同じほどに残酷で、しかも自覚がない。
 整った顔を歪める。
「そんな顔をするものではないよ」
「誰がさせてるんです。……まったく。僕は、貴方達の玩具じゃないんですよ」
「弄んでいるわけではない。ただ、君は、とても……似ているのだよ。私達には、仕方のないことだ」
「……本当に、どうしようもない人達だ。冗談じゃない」
 帰れるものなら、今すぐ帰ってしまいたい。
 しかし、カミーユ自身も、時間を経た結果を知りたかった。
 こんな男は大嫌いだが、放ってはおけない。痛みを分かち合える人数は多い方がいい筈だ。アムロと妹、ただ二人だけが疲弊していくのは見るに忍びない。
 ララァとかいう女は、この状況をどう見ているのだろう。
 本当に似ているのだろうか。そんな風に扱われた覚えはない。
 自分が感じていたのは、ただ、クワトロと自分がとても近しいものだという感覚、それだけだ。
 空っぽだった。
 何も持ってはいないというのに、ただ周囲の期待が重かった。
 何でも出来るように振る舞っていたのはただ、周囲の期待を裏切らないため。そして、愛されない自分を自覚しないため。
 愛してくれる人はいたのだろう。だが、父母の愛情を受けられなかった自分が、その他の誰かから愛される自信は持てなかった。
 無論、今は違う。ファが愛してくれるし、ファを愛している。
 クワトロはそういう自分に酷く似ていた。
 誰かの愛情を求めながら、誰の愛情も受け取らなかった。
 自分が何も持っていないことを知っているのは、他ならぬ自分自身だから。そして、持たざるものが愛されることなどないと感じていたから。
 本当は、全てを持っていたというのに。

「いつかきっと、全てが貴方の望む通りになりますよ。貴方が何処にも行かなければ、貴方はちゃんと手に入れることが出来る」
「君の感覚がそう告げるのか?」
「貴方とアムロさん以外のみんなが分かっていることです。NTの力なんて関係ない」
 アムロだとて分かっている筈だ。受け入れれば全ての片が付く。
「アムロさんが分かればいいんです。僕はその為に来たんだ。……もう、これ以上、貴方達の馬鹿げた痴話喧嘩に巻き込まれないために」
「アムロの背を押してくれるのか、君が?」
 優しくはあるが、やはりカミーユを見てはいない。それが滲む声だ。本当にララァとカミーユが近しいと思っているなら、そんな声でアムロの名を呼ばない。
 やはりこの男は、アムロでなければならないのだろう。そう、思い込んでしまっているから。
 呆れ果てる他ない。
 誰よりも変革を望みながら、自身はもう何年も前の時間に踏み止まったままだ。
 本当に厄介なものに目をつけられたものだと、アムロに同情したくなる。
 答えの代わりに一度肩を竦め、カミーユはシャアから手を離して立ち上がった。今これ以上話す事などない。

「……明日、また来ます」
「もう行ってしまうのか? もう少し旧交を温めてもいいだろう」
「時間を置かないと、分からないでしょう。僕が貴方にとって、どちら側の人間かだなんて」
「……君を忘れてしまったら、どうする」
「別に、何も。アムロさんを労って、ファと一緒に家に帰るだけです。僕がここにい続ける義理なんてないでしょう? 貴方がただ、アムロさんだけを希うなら。……言っておきますが、僕は、貴方に忘れられたってショックなんか受けませんよ。清々するだけです」
「……そうだな。君を解放しなければならないというのに、未だに君を手放すことを惜しいと思っている。それは、申し訳なく思う」
「昔、貴方は僕に別れを告げたでしょう? その時に、僕達は終わっています」
「……そんなことをしたかな」
「僕はまだ完全ではなかったから、起きて貴方と話すことは出来なかった。だけど、貴方が来て、僕と決別したことは分かりました。だからもう二度と……貴方に会うつもりなんかなかった。貴方があんな事をしでかすまでは」
 よくは知らないけれど、よく知っている、力強い感覚の子供が来たのと同じ日に、この男も側に来た。そして、別れを告げて去っていった。
 別れているのだ、自分達は。だから、もう一度別れることなど何でもない。
「君の病室を訪ねたことがあったな。あの時君の目は覚めなかったが……感じてくれていたのか」
「貴方が来てくれたことは嬉しかったんです。……だから、僕も来ました。役に立たなくても、それでも……」
 心に小さな掻き傷を残すだけでもいい。アムロに張り合っても仕方がないことは分かっているし、シャアの相手が自分ではないことも分かっているが、それでも、自分が何の意味も持たないと思いたくない。
 ついさっき、関係ない、そう言って傷つけた女性を思う。
 自分も同じだ。関係ないと、思いたくない。
「じゃあ、明日。覚えてなくて結構ですから」
 これ以上ここにいたら、怪我人を殴りつけてしまいそうだ。
 カミーユは振り返らず、足早に退室した。

 階下に降りると、アムロが待ちかねた様子で近寄って来る。
「カミーユ、」
 控えめに、しかし深く様子を探ろうとする様に苛々する。
「温かいものが飲みたいんですけど」
「……ああ、こっちへ」

 ロビーの自販機で温かい缶コーヒーを二つ買い、一つをカミーユに渡す。シャアの手の冷たさが移った気のしていた指先に温もりが心地いい。
 殆ど人気のないそのロビーの椅子へ並んで腰を下ろした。
 おもむろに口を開く。
「…………どう見た」
「分かりません。時間を置かせて下さい」
「ああ……」
 外を好まない為に、また数年宇宙暮らしが長かった為に、もともと白い顔には一層色濃い疲れが浮き、ひどく窶れている様に見える。
 カミーユは死人の様なアムロの顔を見て拳を握り締める。
 何をしているのだろう。全く、ひどい遠回りをしてばかりで。馬鹿馬鹿しくて、背を押してやる気が失せていく。
「アムロさん、もう、ここから出たらどうなんです」
「俺だって、そうしたいさ」
「じゃあ」
「……セイラさんが心配なんだ」
 女の心配などしている場合ではないだろう。このままではアムロが食い潰される。
 きりきりと眉を吊り上げるカミーユを見て、アムロは微かに苦笑を浮かべた。
 変わらない。何を考えているのか、すぐに顔に出る。本当に綺麗で、可愛らしい子だ。
「ありがとう、カミーユ。でも、俺は大丈夫なんだ。本当に」
「そうは見えません。鏡、見てますか? 医者じゃなくたって、そんな顔見たら心配になります。後で、ちゃんと診て貰って下さい。貴方だってまだ完全じゃないんでしょう?」
「体調はもう戻っている。足を少し引き摺るくらいで、他は大丈夫だよ」
「食事、摂ってますか? 睡眠は?」
「大丈夫だってば。……心配してくれるのは嬉しいよ。だけど、俺は…………死ねないんだ、残念なことに。こんなことくらいじゃ」
「貴方だって、ただの人間でしょうに」
「ああ、そうだよ。……だけど、こんなことで死ねるものなら、とっくに死んでる」

 そう出来ればいい。アムロ一人が死ねば、シャアは苦しむだろう。
 暗い愉悦が湧き上がる。シャアを殺すより、遥かに楽なことの様に思えた。

「やめてください!」
 カミーユの叫び声がアムロを引き戻す。
 潤んだ瑠璃色の瞳に睨まれて、アムロは小さな溜息を吐いた。
 口に出さなくてもカミーユは肌で感じてしまう。これでは、カミーユを食い潰したシャアと同じだ。
「…………ごめん、カミーユ」
「貴方とあの人は、同じだ。凄く……残酷で、周りのことなんて何も考えない」
 どれほど愛されているのかも分かっていない。シャアだけではなく、アムロも。
「…………君なら、あいつに優しくもしてやれるんだろう。今、俺にしているみたいに…………」
「優しくなんか、ないです」
「いや。優しいよ、君は。優しいから無理をした」
「買い被りです。……僕は、貴方達が大嫌いだ」
 ここにいるのは堪えられない。明日、もう一度だけ様子を確かめたらファと共に家へ帰る。
 どうせ、シャアは覚えてなどいないだろう。諦めではなく、確信がある。
 シャアは、アムロ以外何も求めてはいないのだ。シャアの世界にはアムロ一人でいいのだ。その他を排除できるようになったのに、何故カミーユを覚えてなどいるだろう。
 今のシャアには、代替品など必要がないのだから。
「確かに、僕は貴方ほど残酷にはなれませんけどね。……僕を切り裂いて楽しいですか?」
「切り裂いているか、俺は」
「それはもう……ずたずたに」
「……それは、悪いことをしているな」
 手の中のコーヒー缶はすっかり温くなっている。漸くプルトップを上げ、口をつけた。
 温く、不味い。

「そうだな。お互いだけじゃない、か。傷つくのは……」
 身を寄せ合うほどに傷つく、それは何も二人だけではない。近寄れば、誰だとて同じことなのだろう。纏った衣を覆う棘は、自分自身さえ傷つける。
「僕にあの人を渡すのが厭なのは分かりますけど……このままだと、貴方だって僕の二の舞ですよ」
「俺は君ほど繊細じゃないよ」
「だけど、僕よりあの人に囚われている。あの人と、貴方は……半分だから」
「半分?」
「いや…………違うのかな。ララァさんって人を入れたら、三人で」
「…………ああ。…………君が、感覚でそう思うのは、分からなくはないよ」
 カミーユもコーヒーを開けた。口をつけて微かに眉を顰める。香りもない。
「俺達はとても不完全で……きっと、その半分をララァが埋めているんだろう。だから……」
 半分はララァだから。同じ人だから。
「半分は同じで、半分は違って…………その他の所は何もかも違うのに」
 上手く言葉が纏まらない。カミーユは困惑してアムロを見た。
 アムロは、微笑んでいた。
 シャアと同じ様な、見るものの心を痛くする笑みだ。

 喜びと苦痛。魂の丁度半分が受け入れ、また半分が拒絶している。
 何という表情だろう。カミーユは目を逸らせる。
 本当に、ここにいても仕方がない。二人の間に自分の立場などない。それなのに二人ともカミーユを求めている振りをする。振りだという、自覚もなく。
 そんなにも似ているというのだろうか。ララァとかいう、十四年も前に失った少女と。
 しかし、多分、違う。二人とも目を逸らしているだけだ。自分のことなのだから、二人よりも分かっている。二人が優しくしてくれるのは、ララァに似ているからではない。

「僕は、違うんです」
 カミーユは何も持っていない。シャアと同じように。
「何が違う。君なら、あいつに優しくしてやれる。ララァがそうしていたように」
「だから、違うんですってば! 僕は、ララァさんの代理じゃない。あの人も貴方と同じ様に思っていたみたいだけど、違うんです。僕は、きっと……あの人自身なんだ。全てを取り払った、あの人なんです。だから、僕はあの人と一対の翼にはなれない。女でもない、貴方でもない僕は、あの人にとってはただ、同じくらいの痛みを持つ同士として慰め合うだけの存在だ」
 その痛みは大き過ぎて、重過ぎて、お互いに相手を支えるに至らなかった。分かち合おうとしても互いの痛みに引き摺られ、泥沼に沈んでいくばかりだった。
 シャアの望むものにはなれない。
 シャアの願いは余りに深い。
「…………分からないな。君が、あいつだと言うんなら、それこそ共に生きていける筈だ」
「無理です。だって……鳥は、一対の翼でないと飛べない」
「君ならその翼になれる」
「……なれません。片方の翼が二枚あったって、飛べない。妹さんは、女だから一対になれても……僕はなれない」
 アムロは本当に残酷だ。カミーユは振り絞るような声音でそれだけを告げるしかなかった。
「……僕に押しつけないで下さい。貴方も、あの人と同じだ。僕は、あんな重いものなんて要らない」
 引き受けられる筈がない。現に、一度は壊れたのだから。

「自分が特別だって、分かってるんでしょう貴方は!」
「……何が特別なものか……俺は、あんなもの要らない」
「あの人にとって、貴方だけが特別なんだ。貴方はその確証が欲しいんでしょう? 特別ですよ、貴方は。貴方でなければ、あの人は求めない。あの人は、貴方しか要らない。もう、ララァさんって人だって要らないかも知れない。貴方は、あの人にとってそれくらい…………」
 言いたくない。
 自分だって、シャアのことは嫌いではなかった。重過ぎる、大き過ぎる人ではあったが、それでも、寄り掛かってくるなら支えてやりたかった。求めてくれるなら、全てを差し出したってよかった。だが、シャアは求めながらもそれを受け取ることはなかった。
「それくらい…………貴方って人は…………」
 アムロは特別なのだ。シャアが持っていないものを全て持っている。シャアが持っていないものは、カミーユだとて持っていないのだ。だから、カミーユもアムロを求めている。補ってくれるものが必要なのは、シャアもカミーユも同じ事だ。
 そして、カミーユはファを手に入れたが、結局シャアは何も手にしていない。ただひたすらに、喪った少女とアムロだけを追い続け、代わりになりそうなものを全て拒絶してきた結果だ。

「僕は貴方達の玩具じゃない」
 カミーユは真っ直ぐにアムロを睨んだ。思わず目を逸らせる。変わらぬ目だ。真っ直ぐに全てを受け止めようとする。しかし、そうするにはカミーユはあまりに繊細すぎた筈だ。
「ああ……」
「貴方達はそっくりですよ。僕を弄んで、甘えて、全く……いい年をした大人が」
「俺達が等しく君を傷つけていることには謝るしかない。その点については、似ていると評されても仕方がないな」
「認めないんですね。僕が似てるって言っているのはそういうことじゃないって、分かっているくせに」
「君と俺はそう親しくはない筈だ。顔を合わせた回数なんて、本当に数少ない。それで、俺の何が分かってるって言うんだ」
「そう言うなら、何故貴方は良く知りもしない僕をここへ呼んだんです」
「君なら俺よりずっとシャアを知っているからだ」
「知りませんよシャアなんて人。僕が知っているのは……クワトロ・バジーナ大尉のことだけです」
 クワトロ大尉で居続けて欲しかった。迷っていても、弱くても、それでも、シャア・アズナブルに戻って欲しくなかった。いっそ戻るなら……キャスバルにまで戻ればよかったのだ。ジオンの正当なる後継者として、半端な名前など名乗らずに。
 ジオン・ダイクンの著書を読んだことがある。武力で地球圏を掌握するやり方は、ジオン・ダイクンのものではない。シャアは、最も嫌っていたであろうザビ家のやり方に手を染めたのだ。無駄に頭の回転が速いために、余計なことまで考えて行き着く先はギレンと同じだ。
「僕は、馬鹿で、弱くて、人生に疲れ、迷い、藻掻いていた人のことしか知らない」

 シャア・アズナブルには抗争前に拒絶された。その時の顔は最早、カミーユの知っていたクワトロ・バジーナではなかった。
 ネオ・ジオン総帥は、クワトロ・バジーナより一層空虚な男だった。自分が何も持っていないことを知りながら、その空っぽなところへ無理矢理宇宙移民の夢を詰め込んで、身動きが取れなくなっていた。

「まったく……いい加減にして下さいよ! 本当に僕があの人を連れて行ってしまったら、どうするんです!」
 思わず手に力が入り、スチールのコーヒー缶が歪む。
「そう出来るなら、それがいいよ。だけど、君にはそんな気ないだろう?」
「僕はあの人が好きでした。だから、出来ないことじゃありませんよ」
 違う側面から缶を握り元に戻そうとするが、一層歪な形になる。歪んだものは結局、水戸に戻そうとしても一層の歪みが出るだけだ。
「君には彼女がいる」
「二人とも側に置きます。ファの側から離れなければ、ファは許してくれます」
「酷い男だな」
「貴方に言われたくありません」
「なら、本当に連れて行くかい? 俺は構わないよ。清々する」
「そんな、心にもないことを言って。……自分自身には嘘を吐けないのに」
 清々すると言いながら、自分の発した言葉に傷ついた顔をする。アムロはシャアより多少真面だと思っていたが、こう話していると一層自覚がなくて腹立たしい。
 欲しいものを欲しいと言わない。自分が欲しがっているものに気付かないふりをする。馬鹿馬鹿しいにも程がある。 
 そう見れば、シャアの方がまだ素直で御しやすい。
「僕に言いましたよね、あの人を殺すのは自分だけだって。それだけの覚悟をしておいて、今更どうして逃げるんですか? あの人の命を僕に渡さなかったのは貴方なのに」
「殺せるなら良かったんだよ。ただ、力が足りなくて殺せなかっただけで」
「でも、どのみち殺せないでしょう? あれからどれだけ経ったと思ってるんです。何時だって殺せる状況でも、とてもそんな気にならない癖に。……今力が足りないなんて言わないで下さいよ。あの人の寝首を掻くなんて、雑作もないんだから」
「力が足りないんだ。今でも。あいつを殺してやるだけの強さを持てない。あの時君を追い返したのは悪かったと思ってる。だけど、今同じ事が起こっても同じ様に君を受け入れないだろう。……覚悟をしたつもりでいても、いざあいつの前に立つと難しい」
「それは、貴方があの人に触れて、触れられることを望んでいるからでしょう。生きて、温もりのあるあの人に」
「…………否定はしないよ」

 シャアを求めている。その自覚がないわけではない。シャアの指先は何時だって届いて欲しいところまで伸ばされないが、あと僅かであることは分かっている。
 足踏みをしているばかりに、セイラやカミーユを傷つけ続けていることも知っている。
 アムロの望みをシャアが叶えられるなら、恐らくもっと、誰も傷つけることのないところへ行ける筈なのだ。
 ただ、その一歩を踏み出せない。シャアに伝えることが出来ない。
 シャアの手が、全てを掴み取った時に自分を保てる自信がない。そして、今のアムロがシャアに恭順し、シャアを求めたときに、シャアが受け入れるとも思えなかった。
 自分達の間には、何時でも深遠なる隔たりがあって、戦があった。

「僕は貴方達がどんな風に求め合ったか知ってるんですよ。その僕に、今更御為ごかしなんて通用しません。貴方はあの人のことを愛しいって思ったでしょう? 抱かれて悦んだでしょう? 敵対しなくていい、一緒にいられる、その事を喜んだでしょう!?」
 ヒステリックに叫ぶ。昂じ過ぎて眦に涙が滲んだ。それを見てアムロは瞠目した。
 自分達のために泣かせたくはない。涙を見てその思いは強まる。
 缶コーヒーを横に置き、アムロは指の腹でカミーユの涙を拭った。
「ごめん。…………そうだな。君は見てきたんだものな……俺達が、ちゃんと……愛し合ったあの日……そこにいたんだから」
 シャアとアムロが限りなく近付き交わった日、カミーユは一番近くにいた。そして、お互いの感情を感じてしまっていた。

 アムロは深く息を吐いた。
「……悦んだよ。確かに。俺は…………悦んだ。シャアを愛しいと思った。でもそれは……ララァの感情だとも思ったんだ。ララァがシャアを愛おしいとと思ったんだ、って」
「でも、貴方は悦んでた。僕はそう感じました。今でも覚えているんです。昨日の事みたいに…………貴方が満たされて、あの人も満たされて……凄く温かくて、優しくて、甘くて、柔らかくて……ありとあらゆる優しいもの全てで出来てるみたいな……そんな感覚でした。だからあの時の僕には辛くて仕方なくて……貴方の余韻の邪魔をしてしまったけど」
「ララァにも言われた。シャアを愛しいと思ったのは俺だって。ララァじゃなくて……俺自身で……シャアに愛されたいのも、シャアを愛しているのも、全部……俺なんだって……」
「納得したくないのも分かります。だって、男同士なんだし……その……あの人が求めるみたいな身体の繋がりまでは持ちたくないとか、そういうのも……だけど、あの人の力は、いつだってほんの少し足りないから、それを補うものが必要なんです」
「確かに、君とシャアは似ているのかもな。……同じ事を言う」
「どうせあのおじさんの言い方が厭らしかったんでしょ」
 ふん、と鼻を鳴らす。シャアが何をどう言ったのか、目に見えるようだ。アムロは軽く肩を竦めた。
「想像通りだよ。……あんな言い方じゃなけりゃ、もうちょっと認めてやる気にもなれるかも知れないのに」
「でも、そんなところも放っておけない」
 ずはり言われ、アムロはへの字に口を曲げて押し黙った。
 アムロを黙らせたことに満足して、カミーユは口角を引き上げる。

「貴方が迷う事なんて、もう何もない筈です」
「俺は……俺の感情に迷ってはいないつもりだ。ただ……怖いんだよ。あいつを求める俺を、あいつは認めないだろう。そうなったら、どうすればいい。あいつと死ぬ。あいつと生きる。どっちでも意味は同じだ。その覚悟はある。俺はいいんだ、それで……だけど、あいつがそんな俺を認める筈がない」
 まだそんなことを言っているのか。カミーユにあれだけ惚気るのだから、アムロ自身に対しても歯の浮く様な台詞を並べ立てていることだろう。美辞麗句が胡散臭いとはいえ、アムロにはその奥の真実が分かる筈だ。
「貴方は、あの人がどんな声音で貴方の名前を呼ぶのか、それも知らないって言うんですか?」
「知ってるよ。だけど……それは、今まで俺があいつを突き跳ねてきたからだ。あいつが俺を望んでいるのも、まだ手に入れていないと思っているから……ここから関係を進めるわけにはいかない」
「でも、あの時は大丈夫だったでしょう? 貴方は悦んだし、あの人も満足した。愛しいって思って、思われて、充足した。それ以上のものなんて、人と人の間にはありません」
「だけど、離れた」
「貴方から離れたんじゃない。あの人にはしたいことがたくさんあって、貴方にも来て欲しかったけど……今の貴方と同じように、我が儘を言って貴方に嫌われるのが怖かったから、貴方から離れた。でも、貴方には分かるでしょう? 心まで離れた訳じゃないって。あの人は、ずっと貴方の側に居た筈です。貴方にはそれが分かっているのに」
 ここまで言っても、まだ迷っている。
 覚悟が揺らいでいる。
 戦場でしか愛し合えないなど、馬鹿馬鹿しいにも程がある。
 愛に、死は必要ない。

「もう結果を確認するまでもないように思いますけど……明日一応、あの人の様子を確かめて、僕はすぐ帰ります。あの人は僕のものじゃない。僕にはファがいるし、あの人には貴方がいて、貴方にはあの人がいるんだから」
「ああ……元々そのつもりだ。君に長居は求めていないよ」
「なら初めから呼ばないで下さいよ。貴方がいるなら、他には何も要らないんだから」
「これでもまだ……逃げられるなら逃げたいんだよ」
「でも逃げられないでしょう? 貴方は、側に居たいんだから」
 まだ少し残っていたコーヒーを一息に煽り、屑籠へ投げ入れる。命中したことに満足しながら、カミーユは立ち上がった。
 まだ座っているままのアムロに顔を近づける。
「本当にあの人が厭なら、僕の所に来ませんか? 僕は貴方のことも好きでした。気が多いと自分でも思いますけど」
「ああ……だけど、彼女に悪い」
「そうですね。それに、あのおじさんが追いかけてきたら厭だな。鬱陶しいことこの上ないから」


 翌日。

 ファのいるホテルで一晩を過ごすことも出来たが、それではもう一度ここへ来るのが厭になってしまうのが目に見えて、カミーユは与えられた部屋に一泊した。
 アムロは今は近くに家を借りて住んでいる様子でここには居ない。ただ、プレッシャーに似た思惟が暗く、重くこの建物を圧しているのが分かる。
 知っていたアムロのプレッシャーとは少し質が変わっている様に思う。この建物だけではない。深く、自分自身へも向けてしまっている。
 その諦めの悪い気配に安眠を妨害されつつ、うたた寝と覚醒を繰り返しながら朝を迎えた。

「失礼します」
 ドアを開け、中に入る。カーテンは開かれていた。シャアは微睡んでいる様子で、反応はない。
 一度だけ、確かめなくてはならない。その為にわざわざ来たのだから。
 カミーユは近寄り、顔を覗き込んだ。美しく、柔らかな寝顔だ。
 こんなにも無防備な姿を晒す人だとは思っていなかった。否、これまでも、ブライトやアムロには見せていたのかも知れないが、自分には全く見せることなどなかった。
 そっと髪に触れる。共に過ごした頃より髪の癖は落ち着いたようだが、それはひんやりとしながらもひどく柔らかく、やはり大人の男の髪だとは思えない。
 そのまま頬に手を沿わせる。髭は綺麗に当たられていた。滑らかで、磁器のような肌だ。
 七年も経ったのか、この寝顔を眺めているだけではそれ程の実感も持てなかった。
 見た目は勿論多少老けてはいるのだ、お互いに。しかし、触れると瞬時に引き戻されてしまいそうになる。
 整った鼻梁。輪郭。薄い唇。
 だが、あの頃のようには触れることが出来ない。

「ん……アムロ……」
「っ!」
 触れられて意識が浮上したのだろう。カミーユは我に返り、シャアから手を離した。
「……ララァ……?…………いや…………」
 長い睫が震え、ゆっくりと瞼が上げられる。咄嗟にカミーユはベッドから離れ、背を向けた。
 まだ少し茫洋とした視線が室内を彷徨う。そして、見知らぬ背を見つけた。
 肩の辺りで切りそろえられた髪。一見華奢にも思える背中。しかし、よくよく見れば相応の筋力が知れる。
「君は……」
 アムロではない。知らない……しかし、知っている様な気のする背に、小さく首を傾げる。
 一つ一つ記憶を辿る。
 ここ最近の記憶には、アムロの姿しかない。もっと、前に……。
 アムロと戦いを始める前、その背を見送った。立ち去らせたのは自分だ。

「…………まさか、カミーユ、なのか?」

 カミーユは強く拳を握り、天井を仰いだ。
 昨日のことを覚えていない。
 予想通りのことだ。覚悟もしていた。だというのに、想像以上のショックを受けている自分に狼狽する。
 もうずっと昔に見限ったつもりでいたのに、まだ何処かに期待を残していたとでもいうのか。
「カミーユなのだな。何故……君が、ここに……アムロが連れてきたのか? アムロは何処だ」
 アムロの名に身体が強張る。シャアの口から聞くその名に、例えようもない慈しみが含まれていることに、我慢がならない。
 シャアはもっと熱く、強く、冷たい声音でその名を口にしていた筈だ。
 昨日以上に堪えられそうにない。しかし、立ち止まってはいけないのだ。自分は帰らなくてはいけないし、アムロを正しい場所に立たせなくはならない。
 払う様に頭を振り、ゆっくりとシャアに向き直る。
「……アムロさんなんか関係ありません。僕は、僕の意志でここに来たんです」
「何故。私は君を受け入れなかった男だ」
「貴方が未だにみんなを苦しめているからですよ。引導を渡しに来ました」
「君が私を殺してくれるというのか。……しかし、私は、君に二度と人殺しをして欲しくない」
「貴方なんて重荷、僕は背負うつもりなんてありませんよ。それに、僕を戦わせた人が、何言ってんです。死ぬなら勝手にどうぞ。それだけ喋れるなら、舌くらい噛み切れるでしょう? それとも、ナイフでも持ってきましょうか? …………ああ、丁度いいところに」
 サイドテーブルの上に、皿とペティナイフがある。取り上げて柄をシャアに向けた。

「どうぞ」
 促す様に突き出したが、シャアは受け取らなかった。
「自分で自分の命を絶つことは出来ないな……この命は、既に私のものではない」
 アムロが側に居るのが分かっているのに、死ねるわけがない。
 まあ、それはそうだろう。受け取るとは思っていない。すぐにナイフを皿に戻す。
「自分の命は自分だけのものです。人には、他の人に命をあげる余裕なんてないし人の命を引き受ける余裕もありません」
「君のように、そう生きられたなら良いのだがな」
「貴方だってそう生きればいいんです。自分の命や人生を自分のために使う。僕以上に貴方はずっと人のために自分を使い過ぎなんだから、もう止めたらいいんです」
「そう簡単にいくかな」
「簡単でしょう? だって、貴方はそんな身体じゃもう、ネオ・ジオンなんかには戻れない。貴方は自覚を持てないかも知れないけど、貴方の世界はアムロさんただ一人だけになったんです。ここにいて、アムロさんとか、妹さんとか、そういう優しくて温かい人達と一緒に過ごせばいい。それだけなんですから。…………何か書くものありますか?」
「いや、この部屋のことは分からないな……」
「そうですよね。……ちょっと探しますよ」
 アムロが置いてくれていたら覚えているかも知れないが、部屋のものは大体妹が用意しているものだろう。それでは覚えていないのも無理はない。
 簡単に探すとサイドボードの引き出しの中に、メモ用紙とペンを見つける。
「テープも欲しいな……後で貰ってきます」
「何をするつもりだね」
「貴方は、自分の状況や状態を何処まで理解できているんですか?」
「アムロが説明してくれたことは理解しているし覚えている。……アムロに関すること以外を忘れてしまうらしいな。あとは、目が覚めたときに考える。ここが何処なのかだとか、何故ここにいるのかだとか……まあ、アムロと敵対していないことは分かっているし、ここが軍に繋がる施設でないことも分かる。判断力まで衰えたわけではないと思うのだがね。アムロがいれば、私は忘れてしまうことに対してそれ程の問題を抱えている様には感じない」
 強がりではなく、そう思う。長く思い悩む質であったのが、却って緩和されている気にすらなる。
 シャアの回答はカミーユにとっても意外ではなかった。
 馬鹿な人だ。今まで捨てられなかったものを捨てられる状況に、安堵すら見出しているのだろう。
「記憶障害って、比較的症例はあるんです。これまでの患者さんがどうしているのかって調べたんですけど、覚えられないなら、見れば分かる様にしておけばいいんですよ。貴方は今までそんなに動けなかっただろうし、周りが色々と世話を焼いてくれるからあまり必要がなかったのかもしれませんけど……今のこの会話を忘れてしまうなら、思い出せなくても気付く様にしておかないと」

 一枚目のメモには「目が覚めたら必ずメモを見ること」。
 二枚目のメモには「明日の自分のためにメモを残すこと」。
 三枚目のメモには「自分の命を自分のために使う」。

 それをまずはサイドボードの上に広げる。
「もうちょっと見えやすい所に貼ってあげますから。あとは、手帳か、ノートを買ってきて貰いますね。その表紙にこの一枚目、二枚目と同じ事を書いておくんです。それは、アムロさん達に伝えておきますから。誰が来たのか、何をしたのか、何をするべきなのか、それだけでじゃなくて、自分が何を思ったのかとか、そう言うことも全部書いてください。今貴方に言っても仕方ないかも知れないけど、アムロさんから言って貰えば覚えていられるんでしょう?」
「なるほど……」
 メモの一つを手に取る。几帳面に整った字はカミーユらしい。
「君は字が綺麗だな」
「褒めても何もでませんよ。分かってるんですか? 貴方はもうアムロさんのことだけ覚えていればいいと思ってるでしょうけど、それだけじゃアムロさんを傷つけることになるんですからね」
「ああ。……君の小言は心地いいな」
 口説く様な調子に、更に口を突こうとした小言を飲み込む。呆れて言葉もない。そして、こんな事で喜ばせてやりたくもない。
「メモというのはいいアイデアだ。これまでそんな習慣はなかったが……これからは必要になるのだろう。……ああ……恐らく私は、アムロ以外の誰に対しても毎日同じ事を繰り返しているのだろうな」

「……そうですよ。僕は昨日もここに来たんです。だけど、覚えていないでしょう?」
 シャアは息を呑み瞠目した。
 覚えていない。だが、昨日はアムロが二度来てくれた。二度目には、誰かを伴っていた様に思う。
 僅かに狼狽える様子を見せたシャアに、カミーユは満足げに微笑んだ。
 余裕ぶった表情を崩してやるのが面白い。
「貴方にとって僕はその程度の存在なんだ。これがもしララァさんだったら忘れるわけがない。だから僕はララァさんには似ていない。貴方は僕を好きだったわけではなくて、僕が優しくされることで昔の貴方が優しくされている様な気になりたかっただけなんですから」
「昔の私? ……君は、私と君が似ている様に感じているのか?」
 カミーユはララァや、アムロに似ている様に思っていた。しかし、本人の感覚の方が正しいのだろうか。不思議な気がしてカミーユを見詰める。
「それは、確かに僕は貴方ほど綺麗じゃない。だけど、人から見えている程には何にも持っていないところとか、政治的な要因で親を亡くしたこととか、近い部分はあります。小賢しくて、素直じゃなくて、でも独りは嫌いで、甘やかせてくれる人には簡単に懐くのに、それでもやっぱり愛されているってことが分からなくて、不安で、苛々して……だけど、頼り方も、甘え方も、愛し方も知らなくて、壊して、壊れて、」
「やめたまえ。自分が傷つくだけだ」
「僕だけじゃない。この言葉で貴方も傷つくでしょう? 自覚したくないんだから」
 痛みは倍に。喜びは分け合って半分に。
 そういう形でしかいられないのだ。アムロの様に、この男の重荷を引き受けてやれるわけではない。だから、欲しがっても仕方ない。
 あの頃だってそうだ。結局はファから与えられた優しいものを、単純に引き渡してやっただけ。カミーユの中から、クワトロへ、その余剰などは何処にもなくて、引き渡しただけカミーユの中が空っぽになるだけだった。
「僕達はお互いを潰し合うことしかできなかった。僕は壊れたし、貴方は逃げて結局アムロさんに全てを委ねたし。それは、アムロさんやララァさんと僕は違うって証明にもなるでしょう。僕達は、多分似過ぎていたんです。それでも」

 カミーユは突然ベッドの上に飛び乗った。シャアの顔の両側に手を付き、覆い被さる。
「僕は、貴方のことがそれ程嫌いではありませんでした。ひどく脆くて優しい貴方を、守りたいと思ったこともあります。だから……貴方には幸せになって欲しかったんです。僕では何も出来ないけど……何も出来なかったけど、今なら貴方の為に、あの人の背中を押せる。僕は、貴方で……だから貴方がちゃんと愛されて満たされないと、僕だって辛いままなんだって分かるんです。だから」
 顔がひどく近い。今にも泣き出しそうな表情の全てが見える。
「……嫌いじゃなかったんです。あの頃は……沢山罵ったけど、それでも……嫌いじゃありませんでした。だから貴方を守りたいと思っていた。守れるって、思っていた。……馬鹿な子供でした」
「知っていた。君は私を愛してくれていた……」
 少年の頃の丸みの失せた頬へ手を添わせる。カミーユは一層顔を歪ませた。
「私も、君を愛していたよ」
「うそつき」
「嘘など……私は嘘を吐くことを止めた。君には真実のみを伝えてきたつもりだ」
「ずっと偽りの名前を名乗り続けている人が何言ってるんですか! 相も変わらず貴方は嘘つきです。貴方が愛していたのは僕じゃないって、分かっている癖に。まだそんなことを言って、僕も……自分自身も惑わせる」
 片手はシャアの横に付いたまま、もう片方の手を伸ばして先程のペティナイフを手に取る。
 シャアの喉元に突き付けた。

 身動ぎも出来なくなり、シャアはただ固まる。
「僕に殺せる筈がないって、高を括ってるでしょう」
「……いや」
 僅かに喉が動くだけでも刃が触れそうに感じ、思う様に口が利けない。
「……っ」
 唾液を飲む。喉仏が上下する。途端に痛みを覚えて、シャアは顔を強張らせた。
 一線、赤い糸が引く。
「ああ……動くから」
「カ……ミーユ……」
「喋るともっと切れますよ」
 カミーユはうっすらと冷笑を浮かべる。
 そういえば、少し嗜虐的なところがあったことを思い出す。火がつくと暴力性を帯びる。
「やめたまえ、カミーユ……っ……」
 もう少し切れたのだろう。痛みが増す。
「私の血に……汚れるつもりか?」
「貴方の色に染まるのなんか、まっぴらごめんです」
「なら、っ、」
 痛みに歪んだシャアの顔に、カミーユが近付く。

「っ、ぅ」
 からん、と乾いた音がした。視界の全てがカミーユに覆われる。
 それは嘗てを想起させる、荒々しい口付けだった。若い日とは幾分感触を異にしているが、それでも十分に懐かしい。
 カミーユの両手が胸倉を掴んで、一層引き寄せる。乾いた音は、ナイフを捨てた音だったのだろう。
「……ぅ……ん……」
 呼気さえも貪り尽くされる。まだ、若い。
 怪我をする以前より随分体力の落ちたシャアには苦しかったが、拒む気にはならなかった。
 これは、決別の口付けだ。
 それがよく分かる。
 両手でカミーユの頬を包み、応えてやる。
 あの頃の自分達には、こんな荒々しい交わりすらなかった。感情を交わすのが怖かったのだろう。
 確かに、自分達は似ていたのかも知れない。素直になれず、遠回りばかりして、周りも、自分自身も傷つけた。
 カミーユの方がまだしも感情を表に出している様に見えていたが、本来はもっと心の柔らかい、優しい子供であっただろうのは見ていて分かる。心を鎧う術が異なっているだけで、幼い日の自分を見る様な気がしていたのか。

「っ……は……」
 漸く、口が離れる。濡れ濡れとした唇に舌を這わせて唾液を舐め取ってやると、カミーユはとうとう堪えきれなくなったのか、眦から一筋の涙を零した。
「……さようなら、シャア・アズナブル」
「泣かないでくれ。君に泣かれるのは、何より苦しい」
 涙を拭おうとした手から逃れる様に、カミーユは身体を起こしベッドから降りた。
 自分の手の甲で乱暴に顔を拭い、身なりを整える。
「もう泣きません。……さようなら、シャア・アズナブル。もう、二度と会いませんから。僕が会いに来なくちゃ行けない様なこと、起こさないで下さいね。アムロさんも、ちゃんと考えてくれてますよ。貴方と、どうしたら昔みたいになれるのか、って」
「昔?」
「ちゃんと愛し合って、通じ合った日があったでしょう?」
「…………ああ…………そうか、君は近くにいたのだったな」
 床のナイフを拾い上げ、また元の場所に戻す。
「今の話を覚えていなくたって、その喉の傷は数日消えないでしょう。その時に貴方は、厭でも傷の意味を考えるんだ」
 殺してしまえば楽だ。だが、本人以外の誰も、こんな重たい業を背負うべきではない。
「じゃあ、ファを待たせているから、帰ります」
 思い切って背を向ける。
 話し続けていては、またずるずると引き込まれてしまうだけだ。
「元気で」
「少なくとも貴方よりは健康的で真面な生活をしています。貴方こそ、もうこれ以上アムロさんを悲しませないで下さいね」
 一歩一歩ドアに近付く。
 シャアが見ている。視線を感じる。
 もう、これ以上はいけない。
 カミーユはドアに駆け寄り、勢いよく廊下へ飛び出した。

 その勢いのまま階下に降り、アムロを捜す。
 アムロはサロンで一人、コーヒーを飲みながら新聞を読んでいた。
「アムロさん!」
 堪らなくなって、カミーユはアムロに抱き付いた。
「カミーユ、あいつがまた、何か」
「いいえ! 僕はもう帰ります。貴方にあの人を返します。……会わせてくれてありがとうございました。すっきりしました。これで、僕はちゃんとファと生きていける」
「君の決着は付いたのか?」
「はい」
 幼い子にする様に頭を撫でられ、カミーユは僅かに腕の力を抜いた。
「今度は貴方の番です」
「ああ……」
「あの人の世界には、貴方一人になったんです。寝て起きたら、前の日がどうであれ貴方だけになるんです。あの人はそれで満たされている。どちらかが厭だって言ったって、もう逃れられません」
 ゆっくりとアムロから離れ、正面から向き合う。
 目を背けることを許さない、強い瞳だった。
 アムロは微かに目を細める。

「貴方だって、もう、大丈夫でしょう?」
 アムロがシャアを受け入れていることを知っている。カミーユはシャアと決別もした。逃げを許さない、真っ直ぐな視線に全てを見通されている気になる。
 小さく溜息を吐く。そろそろ潮時だということは、理解はしているのだ。
 ただ、一歩を踏み出す気概を持てない。
「……ああ、だけど……分からない。あいつを目の前にして凝りもしない馬鹿な事を言われたら、また拒んでしまうだろう」
「それでも、貴方はもう分かってるんですから。あの人だって、そこまで愚かじゃないと思います。ただ、貴方と同じくらい、臆病なだけで」
「臆病か……。あいつのことをそう言ってしまえるのが君らしい」
「あの人がまた何かしでかすようなら、今度は呼んでください。貴方達の邪魔はしません。ただ、見届けますから。あんな人、僕は要らない。でもそれくらいの権利は、僕にだってある筈でしょう?」
「分かったよ。…………今度なんて、ないことを祈るけど」
 カミーユは軽く肩を竦めた。アムロが側に居るなら、もうシャアが動くことはない筈だ。
「貴方次第です。じゃあ、帰ります。あ、そうだ。貴方の住所教えて下さいよ。クリスマスにカードを送ります」
「まだちゃんと決まったところに住んではいないんだ。ここか、ホテル。だから……ちゃんと決まったら、君に手紙を送る。住所はセイラさんが知ってるんだろう?」
「分かりました。きっとですよ」


作  蒼下 綸

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